第9話
この中から祈織に選ばれる幸運なシャツはどれだろうか。俺はそんな事を考えながら、ぼんやりと彼女を眺めていた。
その時、ふと以前の会話を思い出した。
「あ、そういや祈織。前に銭湯行きたいって言ってなかったっけ」
「え? 言ったけど……どうして?」
確か前に、温泉は行った事があるけど銭湯には行った事がない、という様な会話をした記憶があった事を思い出したのだ。
「近くに銭湯あるんだけど、面倒じゃなかったら行かない?」
この部屋にも風呂はついているが、ユニットバスだ。以前泊まった時は特に何も言っていなかったが、慣れない彼女にとっては使いにくいだろう。現に、俺も引っ越してきた当初はユニットバスに使い勝手の悪さを感じていた。
日本人たるもの湯船に浸かりたいものだ。それなら銭湯に行ってみても良いんじゃないか、と思っての提案でもあった。
「え、行きたい!」
案の定、祈織は瞳を輝かせてそう言った。
銭湯を利用する機会は、確かになかなかない。俺も人生に於いて利用した経験などほとんどなかった。
「じゃあ、銭湯行くか。早く着替え選べよ」
「うんっ」
祈織は嬉しそうに頷いて、またTシャツ達と睨めっこを始めた。
結局選ばれたのは、海外のバンドTシャツと俺が普段着ているパーカーだった。下は俺のハーフパンツを貸しているが、こっちはこっちでずり落ちないか心配だ。一応紐を精一杯締めて結んでいる様だが、彼女の細いウエストでは心もとない。
「なんだか、ちょっとこれで外出るのは恥ずかしいかも」
祈織は鏡で自分の姿を見てから、こちらを向いた。顔が少し赤い。
「何で?」
「如何にも彼氏の家にお泊りで服借りました~って感じの服装なんだもん」
「まあ……実際そうだし」
ぶかぶかのTシャツに、ぶかぶかのハーフパンツ、そしてぶかぶかのパーカー。華奢な彼女には、全てがでかい。男物を借りました、と言っている様なものだった。
前に泊まった時も服を貸したのでそんな感じだったと思うが、あの日は外には出なかった。
「えへへ、でもこれ好き。
そして俺のパーカーの袖をくんくんと嗅いで、はにかむのだった。
「そんなに変わった匂いするか?」
自分のパーカーをくんくん嗅いでみるが、それほど変わった香りはしなかった。
「するよー。麻貴くんの甘い匂いがする。あ、このパーカー持って帰っちゃダメ?」
「よく着るやつだからダメ」
「えー、ずっと嗅いでたいのに」
心底残念そうな顔をされる。
いや、そんなに嗅いでたいものなのか、俺の匂いって……。
「じゃあ、あんまり着ないやつは?」
祈織はまだ引き下がらない。
「まあ、それなら別に……」
「やった!」
彼女は嬉しそうに小さくガッツポーズした。
ただ銭湯に行くだけなのに、何故か俺のパーカーが一着なくなる事が決定したのだった。
銭湯に行く前にコンビニに寄って、祈織は下着とトラベル用のシャンプー・コンディショナーセットと歯ブラシを買っていた。
お金を出そうとしたら、下着を見られるのが嫌だと拒絶された。
コンビニ用の下着はダサいので、見られたくないそうだ。確かに、ちらっと見たけれど、おばさんが履いてそうな防御力が高めなものだった。
それから銭湯に行って──彼女は人生初の銭湯でやや緊張気味だった──一時間後に入口で待ち合わせた。
普段ユニットバスなので浴槽に浸かるという習慣がなくなってしまったのだけれど、久しぶりに湯船に浸かるとこれまた良いものだなぁと思わされるのだった。一人では行く気にならないだろうから、これから祈織が泊りに来た時は、こうして銭湯に行くのも悪くないかもしれない──そんな事を思わされた。
銭湯からの帰り道は、ただゆったりと他愛ない話をしながら夜道を歩く。
ふと横を見ると、そこには俺の服を着た祈織。
いつもは制服かオシャレな服しか着ていない彼女が、ぶかぶかのパーカーとシャツを着ている様が、どこか面白くて笑ってしまった(彼女には怒られた)。
そんなくだらないやり取りをしつつ、初銭湯の感想を聞かせてくれたり、俺と良太のバカ話を面白そうに聞いてくれたり、逆に彼女の友達との話を聞いたりと、会話は尽きない。今日は夕方以降ずっと一緒にいるのに、それでも俺達はずっと話続けている様に思うのだった。
学校で見ている祈織はどちらかというと物静かで大人しい。あまり自分から話している姿は見た事がないかもしれない。でも、そんな彼女が二人になると、少し饒舌になる様な気がして、それがまた嬉しかった。
或いは、彼氏の家にお泊りで初銭湯、というシチュエーションも相まって、いつもよりテンションが高いのかもしれない。
──これも、俺にだけ見せてる祈織なのかな。
そう思うと、彼女との会話そのものに価値がある様に思えた。
俺は普段よりよく話す祈織の言葉に耳を傾け、相槌を打ち、時には質問して深堀をしていた。ただただ話しているだけなのに楽しい。
こんな楽しい時間は、付き合う前の祈織と俺では、絶対にしなかっただろうな、と思わされるのだった。
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