地獄の果し合い
――真っ黒。何かを数える声。滲む。黒は灰色に、灰色は白濁した世界に。スモークガラスで包まれたような光景。糸くず。滲んだ視界に映る。
黒いミノムシ。歪んだ白濁の中で小さく揺れている。
何かを数える声。遠くからゆっくりと近付いてくる影。
何だ?
何が起きている?
揺れる意識。定まらぬ思考。
ミノムシが揺れる。人影が近付く。音。足音。何かを数える声。流れるトイレのように渦巻く世界。世界。世界。
――違う。
叫んでいるのは、ミノムシじゃない。
――麗奈。
俺が助けに来たはずの女。
別にあいつがどうなろうが知った事じゃない。
だけど、失いたくはない。
歪む視界。声は、
いや、違う。
――セブン。
大罪を意味する数。
贖えない罪をたくさん犯してきた。
だから刑務所みたいなところにぶち込まれた。
世間の人間からすれば俺達なんて勝手に殺し合えばいいだけの存在なのだろう。
それなら生きる意味などあるのか……。
いや――
物思いに耽っている場合じゃない。
立ち上がらないと。
空から自分の身体を見ている。
でかくて、年齢に合わない身体。
小鹿のように震えながら立ち上がる。
「ほう。立ったか」
慶次が嬉しそうに嗤う。
揺れる視界。ムンクの叫びみたいに映る慶次。悪夢なら早く覚めてくれ。
混濁した意識の中、構える。慶次は両腕をだらりと下げたまま
何もしなくても倒れそうなくらい薄弱な意識で構える。死んでいる場合じゃない。負ければ命は無いだろう。おそらく、麗奈も無事では済まない。
ステップを踏む。ほとんど、本能で。振動が伝わるたびに、二日酔いのような頭痛が全身に広がっていく。
身体を揺らす余裕もない。リズムを自分自身に認識させるためだけの儀式。それでも、慶次を中点にして回っていればムンクの度合いは弱まってきた。
ノーガードのまま、慶次が距離を詰めてくる。でかいナジーム・ハメドみたいだった。
想像を絶するプレッシャー。だが、いかなければやられる。
左を軽くフェイントで動かし、右ストレートで突っ込んでいく。ラオウみたいな顔面に叩きつける。
慶次は斜め前に身体を沈める。速い。ガラ空きになった
胃の内容物どころか胃袋そのものが喉元までせり上がる。飲み込んだ。胃液が口の両端から漏れる。饐えた匂いがした。
身体が沈む。内臓の悲鳴。巻き込まれたアバラが泣き叫んでいる。
苦しまぎれに左フックを振る。届かない。身体が苦痛で縮こまっている。腕を伸ばしきったら胃の内容物をすべて吐いてしまいそうだった。
慶次が嗤いながらジャブで小突いてくる。恐怖。次に何の攻撃が来るか分からないとなると、威嚇にすらならないパンチですら驚異だった。
やる気の無いジャブを二発。視界をわずかに塞ぎ、ボディーアッパーが迫って来る。腕をクロスさせてガードする。衝撃。腕越しに打たれたはずなのに、振動が全身へと伝わって来る。
「あーこいつゲロリンだー」
野次馬達の嘲笑。殺意を憶えている余裕すら無い。嘔吐に続く激しい頭痛。客観的に見て、自分の身体が深刻なダメージを負っているのが分かった。
「
ぶら下がったまま麗奈がわりと真っ当な事を言う。セコンドに向いているかもしれないが、今は亀甲縛りで吊るされているだけの役立たずだ。「うるせえ」と言い返してやろうにも、声が出ない。
黙って右フックを振る。確かにこの状況で何もしないのは致命的だ。
反撃する反面、脳内には絶望が染みのように広がっていく。勝機が見えない。このバケモノがどうやったら倒れるか想像もつかない。
ポンコツ寸前の身体を無理くり動かす。痛み。軋み。時間が増せば増すほど酷くなっていく。タイソンがホリフィールドに負けた時と似た空気が漂っている。
慶次はまだ両腕を下げたまま、
このままだとジリ貧だ。
サイドに少しだけステップを踏むと、つま先に力を入れて一気に踏み込んだ。ノーモーションのワンツー。リーチでは負けるが、電光石火の踏み込みで打ち放った。
慶次はわずかに頭の位置を横に動かす。必殺パンチがラオウの顔面横をすり抜ける。刹那、慶次は右ストレートを振り抜いた。
ライトクロス――無防備な体勢に放たれる無慈悲な一撃。拳は
吹っ飛ぶ。背中から校庭に叩きつけられる。走行中の車とキスしたような衝撃。目の前が真っ黒になった。
暗闇の中で、気合だけで目を開ける。
ミキサーにでも入れられたような視界。歪む慶次が、冷たい眼で見ている。
「
慶次の顔から嗤いが消えている。退屈そうで、落胆の中に怒りを滲ませていた。期待に応えられなかったらしい。
ごろつきどもが騒ぎたてる。生意気だった
ごろつき達は慶次を畏れ、同時に崇拝していた。
暴力神――いつか慶次に付けられた二つ名。それは単なるふかしではない。特設のリングに立つ
片膝をつく。意識が戻るのを待つ。見下ろす慶次。追撃しようともしない。舐められている。腹が立ったが、実際にここまで実力差があるとそれも頷ける余裕だった。
すでに二回倒されている。格闘技の試合なら止められていてもおかしくない。不良同士の喧嘩――それは、どちらかが倒れるまで続く。
構える。もうステップを踏む余裕すらない。踵を地面につけるベタ足。打ち合いの得意なファイターが取る戦法。でかさでも攻撃力でも勝る慶次。だが、アウトボクシングが通用する相手にも思えなかった。
頭痛が酷い。呼吸をしただけで噎せた。血を吐く。肺がやられているのかもしれない。
ぶら下がったまま不安そうに闘いを見守る麗奈。その姿さえ歪んで見える。もはやどうして立っていられるのかも分からないほどにダメージが深刻だった。
ベタ足のまま進む。地獄のボクシングマッチ。闘いを投げだしたくなるぐらいに悲惨な結末を垣間見せている。それでも生きるためには闘うしかない。
ガードを固めて前に出る。あのパンチ力の前には無意味かもしれない。だが、この際勝つために出来る事なら何でもやるしかない。
慶次がノーガードのまま、身体を斜めに構える。遊びは終わりにするようだった。
睨み合い。張り詰める空気。騒がしかったごろつき達が、息を潜めはじめる。
果し合いのような緊張感。いつ勝負が終わってもおかしくはない。
鉛のように重い身体。引きずって闘う。ガードを固め、身体を揺らす。のろい。マイク・タイソンをスロー再生したような無様さ。
重心を低くして、距離を詰めていく。尊大な顔で見下ろす慶次。自分の勝ちを少しも疑わない顔。そこに相手への警戒心は無く、どう料理してやろうかという邪悪な好奇心が浮かんでいる。
詰まる距離。高まる鼓動。どこまでもやかましくなる一方の野次馬達。狂乱の番長決定戦は、慶次の防衛で終わる趣きが強くなった。
――トドメだ。
慶次がノーガードのまま、ジャブを放ちながらステップインする。強烈すぎるジャブが
――ジャブは
コンクリートのように固い拳が、
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