レイジ・アゲインスト・獄童

 くらい部屋。


 四つあるバスケットゴールは、誰かがスラムダンクをした後なのか、ひしゃげたまま放置されている。床には埃が溜まっていて、長年放置されていた事が覗える。


「来てやったぞ」


 昏い空間に言う。


 照明がつく。眩しさに目を細めた。


「地獄へようこそ」


 中二病めいたセリフ。言ってみたかっただけだろう。


 やたらと筋肉質な影が嗤う。


 ――地獄兄弟ヘル・ブラザーズのナンバー2。織井おりい憤怒れいじ


 校長が使うであろう演題に立つオールバック。全身が筋肉で隆起しており、黒いタンクトップは筋肉ではちきれんばかりだった。それでいて下半身はスラリとしていて、日本刀のような形状をした脚はゲイ受けしそうなフォルムだった。


「お前がここまでやるとは思わなかった」


「やかましい。麗奈はどこだ?」


「おおっと、愛しい彼女が心配か」


 憤怒れいじがホームドラマのアメリカ人みたいに肩をすくめる。どうせNHKの教育テレビでも見たのだろう。


「安心しろ。彼女は無事だ」


 憤怒れいじはニヤつきながら舞台上を歩いて行く。いつまでこのラスボスごっこは続くのか。


「彼女は俺の兄貴が大事に大事に保護している」


 憤怒れいじは歩きながら見えない尻でも撫でるかのように手を動かした。明らかな挑発。それでも、血流が上がっていくのが分かった。


「麗奈をどうするつもりだ?」


「さあな。兄貴は女癖がいい方じゃないから、散々遊んだ挙句に国外のロリコンにでも売り渡すかもな。日本人の子供は高く売れるんだ」


 口ぶりからして、麗奈が売られていった少女の一人目ではなさそうだった。


「舐めた真似をしたらぶっ殺してやる」


 静かなる断言。むくろは壇上へと歩いていく。


「やってみな。それが出来るんだったらな」


 憤怒れいじのヘラヘラしていた眼が急に鋭くなる。アイラインでも引いているみたいな双眸。猛禽類もうきんるいを思わせた。


「お前はここで死ぬ」


 むくろが構える。すでに殺意は全開だった。


 憤怒れいじが構える。左構えサウスポー。両手に光るナックルダスター。


 むくろは躊躇せずにナイフを取り出すと、手裏剣のように連投した。かわされ、ナイフは演台に突き刺さる。


 驚く事じゃない。駆けて、跳躍しながら右ハイキックを放つ。憤怒れいじは伏せてかわす。


 巨漢を飛び越えて着地すると、そのまま背後に踏み込んでサイドキックで突く。浅く憤怒れいじの身体をかすめるだけ。深追いはせず、バックステップで戻る。


 沈黙。空気が重い。


 蒸し暑さで肌がじっとりとしてきた。


 嗤う憤怒れいじ。挨拶がわりとはいえ、あの程度の攻撃では毛一本ほどの動揺も与えられなかったらしい。


 手榴弾を取り出す。ピンを抜いて、正面に投擲する。


 憤怒れいじは臆することもなく、バックブローの要領で弾き飛ばした。時間差で爆音。踏み込んで、バンテージで固めた拳を筋肉質な鳩尾みぞおちめがけて振り抜く。的が大きい分、身体の中心を狙えばよけるのが困難になる。


 だが、憤怒れいじはわずかにバックステップで芯を外す。拳がキャラメルのように割れた腹筋と衝突する。コンクリートを殴っているみたいだった。


 ガードを固め、頭から突っ込んだ。ぶちかまし。頭蓋骨と頭蓋骨が衝突する。


 脳が揺れ、視界が揺れる。だが、知った事じゃない。ガードを固めながら、左右のボディーを叩いていく。


 何発かレバーフックが入る。だが、憤怒れいじの腹筋は鉄のように固い。伊達にタンクトップで筋肉アピールをしているわけではないようだ。


 それでも何発か打てば効いてくる。憤怒れいじも巨漢だが、むくろも規格外の体格だ。ヘビー級同士の闘いではたった一発のパンチですべてがひっくり返る事もままある。


 構わず左右のボディーを打ち込み、ガードが割れたらその隙間にアッパーをねじ込む作戦だった。


 だが――


 むくろがアッパーを振り向こうとしたその時、憤怒れいじの左ボディーがむくろ肝臓レバーをとらえた。爆発音――時間差で息が冷たくなり、耐えがたい苦痛が全身に広がっていく。


 息がつまり、後ずさる。震える膝を悟られまいと堪えるも、口の両端から胃液が漏れ出ていた。


 ――たった一撃で胃がのたくっている。


 ナックルダスター付きで放たれた拳は、文字通り凶器そのものだった。


 溢れ出ようとする胃の内容物を飲み込んで、肋骨が折れていない事を確認する。あの一撃でアバラの一本も失っていないというのは幸運以外の何物でもない。


 ステップを踏む。重い身体を、無理にでもコントロール下に置く。


 嗤う憤怒れいじ。何もかも見透かしているようで腹が立った。


 ベルトの両サイドにあるホルスターから特殊警棒を引き抜く。二刀流。目の前でクロスさせて、憤怒れいじを威嚇する。凶器を嵌めた拳に丸腰で闘うのは愚か過ぎる。


 警棒を振る。憤怒れいじはスウェーバックで悠々とかわす。武器を持った相手に対しても喧嘩慣れしているらしい。


 想定内だ。左右から警棒を振り、でかい図体をとらえに行く。風を切る音が古びた体育館に鳴り響く。


 左右から素早く薙ぎ、踏み込んで胸を突く。当たる。憤怒れいじの顔がわずかに歪んだ。反対側の手で首に警棒を振り下ろす。


 その刹那、憤怒れいじは身体を回転させる。警棒を背後に滑らしながら、そのままの勢いで裏拳を放つ。


 気付いた時には、左の頬付近に拳が迫っていた。よけられない。歯を食いしばる。衝撃。視界が黒くなった。


 真っ黒になったままグルグルと回る映像。


 自分が倒れたらしい事だけは鮮明に分かった。


 朦朧としながら、横に転がって跳ね起きる。床に響く鈍い音。幸運にも追撃を免れたらしい。


 バックステップして、呼吸を整える。


 徐々に取り戻される視界。意識が回復するとともに、脳内にはジンジンとした痛みが広がっていく。ダメージは確実に蓄積されている。


 憤怒れいじが嗤う。ムカつくオールバック。余裕をかました顔に一撃をぶち込んでやりたい。


 歯ぎしり。奥歯を噛みしめる。


 欠けた歯が地面に転がった。


 身体を振る。的を絞らせないようにして、両手に持つ警棒を揺らした。


 遠くでステップを踏む憤怒れいじ。距離を詰められれば先ほどのような災難に見舞われる。それは御免だった。


 左に回り、アウトサイドから警棒を突いていく。サウスポー左構え潰しの王道。外側を取れば、相手の死角から攻撃を打ち込む事が出来る。


 軽く素早い突きを連発する。


 憤怒れいじはでかい図体を器用に動かしてかわしている。


 左手に持った警棒で突きのフェイントから左フックの要領で飛び込み、薙ぐ。下から迫るような軌道。鼻先でかわされる。


 同時に、右手に持つ警棒を振り下ろす。文字通り、打ち下ろしの右。


 固い警棒が憤怒れいじの側頭部をとらえた。


 ――ったか。


 憤怒れいじは頭蓋骨に食い込みそうな勢いで衝突した警棒に目もくれず、そのまま突っ込んで来た。衝撃。まさかのぶちかまし。本能的に顎を引くが、よけきれずに石頭を喰らう。吹っ飛ばされた。


 床に背中を叩きつけられ、息が詰まる。規格外の石頭。まるで、頭蓋骨にセメントでも流し込んでいるかのような硬さだった。


 歪む視界。目を開けたまま気絶しかけているのが分かった。間抜けな光景なのに、妙に頭は冴えて冷静だった。


「打たれ強さには自信があってな」


 歪んだ景色の中に、ピカソに描かせたような憤怒れいじが映り込んだ。


「俺は世界最凶の兄貴に育てられた。特殊警棒ぐらいで俺をどうにか出来ると思っていた事がそもそもの間違いだったな」


 憤怒れいじが乱れたオールバックを撫でて直す。


 よろめきながら立ち上がる。両手から特殊警棒が無くなっている。さっきのぶちかましで飛んでいったようだ。


「来いよ」


 憤怒れいじがブルース・リーみたいに手招きする。あのサウスポー左構えはリー先生の影響なのかもしれない。


 構える。オーソドックス右構え。これから死のボクシングマッチが始まる。


 膝を柔らかく、左右に身体を揺らす。軸はぶらさず、後ろ脚のかかとは浮いている。いつでも攻撃に対処出来るように。そして、いつでも踏み込んで憤怒れいじをぶちのめせるように。


 睨み合い。深夜の体育館に似合わぬ殺気に満ちた息遣い。


 それは小学生同士の喧嘩をとうに通り越して、果し合いの様相を呈していた。


 憤怒れいじが前の手に当たる右をわずかに動かす。


 ――ジャブだ。


 素早く左前に踏み込んで、右ストレートを放つ。


 サウスポー左構えとの闘いではいかにアウトサイドを取り、利き手のパンチを当てるかが勝負の鍵になる。


 憤怒れいじはでかい。だが、ナックルダスターを着用している。喰らえば甚大なダメージは免れないが、逆に言えば手に重りを付けているに等しい。それはハンドスピードパンチの速さに明確な影響を与える。


 むくろの右が憤怒れいじに迫る。


 ――その刹那、憤怒れいじは右手を引っ込めて身体を左側に沈める。


 ――罠だ。


 気付いた時には遅かった。


 むくろの右ストレートは外され、直後にリターンの左ストレートが襲いかかる。歯を食いしばり、衝撃に備える。轟音。視界が白くなる。


 致命的な一撃を受けたむくろが尻餅をつく。


 慌てて立ち上がろうとする。右手をついて立とうとするも、腕が痙攣してまともに動かない。


 顫える膝を抑えながら、ゆっくりと立ち上がる。


 憤怒れいじは追撃もせず、離れたところで嗤っている。自分の勝利を少しも疑っていないかのような顔だった。


「クソが」


 誰にともなく呪詛を吐く――あるいは、自分自身に。


 鼻血が垂れてくる。今の一撃でやられたらしい。鼻骨を折られていないだけありがたいと思うしかない。


 温かい血は、ボタボタと体育館の床に落ちていった。


「男前になったな」


 憤怒れいじがニヤつく。


 ムカつくオールバック。構えたまま身体を揺らしている。


 ――すぐに舐めた口がきけないようにしてやる。


 憎悪。腹の底から湧き上がる。


 小刻みに顫える膝。無視してステップを踏む。


 巨漢同士の殴り合い。勝負は一瞬でつく。


 見合って、左を軽く突いていく。牽制代わりのフェイント。突っ込んでくれば右をぶち込む。


 鼻血が垂れる。蒸し暑い館内。汗がじっとりと肌に湧いた。


 揺れる身体。目の前のオールバックが一瞬止まる。


 ――今だ。


 踏み込んでワンツーを放つ。スピード重視の連撃。タイミングを外して、一瞬の隙を突いた。ジャブが空を切り、ストレートが憤怒れいじの顔面をかすめた。


 ――もう一撃。


 踏み込もうとした刹那、膝が揺れる。


 ――まだ、効いている。


 追撃はかなわず、揺れる膝を抑えた。その隙に憤怒れいじはバックステップで逃げ去っていた。


 ――クソが。


 心の中で毒づく。


 したたる鼻血。蒸し暑い環境も相まって、血流が上がっていく。


 身体を揺らす。仕切り直し。頭を冷やさないといけない。


 憤怒れいじは強い。怒りに身を任せれば足をすくわれる。


 ――考えろ。


 どうすればあのムカつくオールバックをぶちのめせる?


 ――考えろ。


 あの拳は凶器だ。まともに喰らえばタダでは済まない。


 ――考えろ。


 アウトボクシングに徹してチャンスで一気に殴りかかるか。


 ――考えろ。


 いや、あの男に技術戦で勝てるとは思えない。


 ――考えろ。


 小細工無しで殴り合う。それが一番の正解に見える。


 ――考えるな。感じろ。


 駆けだした。


 走りながらストレートを放つ。猛牛バイソンのように。


 憤怒れいじがガードする。嬉しそうに。


 距離を詰める。猛牛同士が角を突き合わせる間合い。頭をくっつけて、ボディーを打ち合う。


 左ボディーをめり込ませる。かすかな呻き。むくろの拳は確実に響いている。


 ナックルダスター――凶器そのものの拳。中途半端に近付くよりは、あえて接近した方が威力を減じる事も出来る。左右からボディーブローを連発し、ガードの真ん中をアッパーで突き上げる。浅く当たった。


 憤怒れいじの顔が強張る。かすかな焦り。いらだち。完全に消し去る事は出来ない。


 左のボディーから顔面へとフックをダブルで放つと、腕の隙間にバンテージでガチガチに巻いた拳をねじ込む。右ストレート。額に当たる。憤怒れいじがわずかにのけぞった。


 ――今だ。


 踏み込む。もう一発ストレート。全身の力を拳の一点に集中させる。叩きつけた。


 吹っ飛ぶ巨体。揺れる膝。効いている。むくろの放った一撃は、明白にダメージを与えていた。


 憤怒れいじがガードを固める。連打を放ちながら走る。倒すなら今しかない。勝機の尻尾は短い。油断すればその手をすり抜けてしまう。


 パンチを打ちながら憤怒れいじを下がらせる。巨体が派手な足音を立てながら体育館を横切っていく。


 壁際。追い詰めた。後は死ぬまで殴り続けるだけ。


 むくろが連打を放つ。上下左右、拳の雨が降り注ぐ。


 右フックが憤怒れいじのテンプルをかすめ、左フックがいかつい頬骨を強打する。


 ――くたばりやがれ。


 トドメとばかりに右アッパーを振り抜いた。


 当たれば、終わる。


 必殺の一撃が憤怒れいじの下顎に襲いかかるまさにその時、むくろの視界が一瞬にして真っ暗になった。


 ガードの中から反撃の隙を窺っていた憤怒れいじ


 大振りのアッパーに合わせて、右のショートフックを放った。


 画に描いたようなカウンター。鋼鉄の拳はむくろの顎をとらえた。サウスポー左構えに対して安易に右アッパーを振り抜いたのは軽率だった。


 むくろが時間差で崩れ落ちる。顎に鈍い音。脳味噌をミキサーにでも入れられた気分。視界が歪む。夢の無い万華鏡。


 悪夢の逆転。いや、思えば最初から術中にはまっていただけかもしれない。


 大の字。反対側から歩いてくる憤怒れいじがムンクの叫びに見える。


 舌が痺れる。実際には叫ぶ事も出来ない。絶望的な光景。身体が言う事をきかない。


 蜃気楼のようになった視界の向こうから人影が歩いてくる――憤怒れいじ。地獄の使者。血も涙もないオールバック。


 憤怒れいじが倒れたむくろに殴りかかる。パウンド。グラウンド状態の打撃。総合格闘技との違いは、その手にナックルダスターが嵌められている事。


 本能で首をひねる。鈍い金属音。あの世行きは免れた。


 歪む視界。振り続ける拳。四の五の言っている場合じゃない。対応しなければ殺されるだけ。


 鈍い痛み。全身がまだ麻痺している。殴られても痛みを感じられないほどに。


 憤怒れいじが振りかぶる。死の拳。よけられない角度で顔面に迫って来る。


 本能だけで脚を蹴り上げた。上半身をのけぞらせていたところに直撃する。素早く立ち上がり、膝立ちの顔目がけてサッカーボールキックを放つ。かわされた。振り向き、構えなおす。憤怒れいじも立ち上がり、エビみたいに後ろへ跳ねた。


 睨み合う。お互いが相手を殺すタイミングを計っている。湿った空気。汗が、殺意が流れ出る。


 視界はまだ歪んでいる。さっきよりはマシだ。強引に身体を揺らす。止まれば、そのまま眠りに就いてしまいそうだった。


 小細工はきかない。それだけは確信した。この男を倒すには、完膚なきまでに叩き潰すしかない。


 踏み出す。スナップを効かせて、肩から先を伸ばす。長いジャブ。勝利の定石。サウスポー左構え対策の基本。


 素早く連打されるジャブ。数発ののちに伸びたジャブが憤怒れいじの顔面をとらえた。オールバックの顔面が撥ね上がる。


 いらだち。いかつい顔からムカつく笑みが消えた。


 憤怒れいじが強引に右フックを振りながら飛び込んで来る。左サイドへ回り込み、さらなるジャブを当てる。顎を撥ね上げた。効いた。憤怒れいじの双眸に怒りと焦燥が同居する。


 憤怒れいじが左ストレートを放つ。


 喰らえばすべてが終わる大砲。それすらもアウトサイドへステップしてかわす。


「舐めるなああ!」


 逆上した憤怒れいじが無茶苦茶に拳を振り回す。薬をキメすぎたナマハゲみたいだった。


 死の拳が放つ風圧。顔面の前で空気が押しつぶされていく。


 むくろは重心を後ろに引き、落ち着いてパンチを観察する。鼻先で凶器の拳をかわしていく。


 間隙を縫って、腹に素早くストレートをめり込ませる。


 憤怒れいじは構わず殴り返す。


 ――当たればお前は終わる。


 邪悪な笑み。勝利を確信した悪党の顔だった。


 その刹那、憤怒れいじの膝が痙攣した。腕は痺れ、千載一遇のチャンスで身体が大きく波打つ。


 息がつまる。


 双眸に映るむくろは嗤っていた。


 ――こいつは何をやりやがった?


 脳裏に浮かぶ疑念。むくろの右手を見てそれは確信に変わった。


 むくろが嗤う。


 ――その手に持っていたのは、スタンガンだった。


 全身に電撃の余韻が残っている。痺れる腕、舌、力の入らなくなった両脚。憤怒れいじは自分の迂闊さを呪いたくなった。


 時計の針を止められたように動かない全身。むくろが踏み込む。右ストレートで鼻頭を潰すと、左フックで顎を砕き、フルスイングの右アッパーを振り抜いた。


 轟音。何かが砕けた音。


 憤怒れいじの巨体が宙を舞った。


 巨体が背中から叩きつけられ、竹製のフローリングに盛大な衝撃音が響く。勝負は誰が見ても明らかだった。


「こいつの存在を忘れていたのは迂闊だったな」


 スタンガンを眺めて呟く。平賀ひらが照気てるきの置き土産。くすねて麗奈に改造させていた。

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