03『フェニックスの卵』
――死ぬということがどういうことなのか。ずっと、考えている。
◇◆
山盛りのごはんに味噌汁、具はわかめと豆腐。小皿にサラダが盛りつけられて、平皿には目玉焼きがのっている。目玉焼きにはすこしだけ焦げ目のついたウインナーが添えられていた。
スタンダードな朝食を前に、猫の耳と尻尾を生やした赤い髪の青年
しかしつまみ食いをするような真似はしない。朝食はふたりでとることを、取り決めているからである。だから絹夜は上下ともに真っ白な服を着こんだ体をびしっと正して待っていた。
彼が胸を躍らせる朝食を作ったのは、この家――『
朝食の準備に邪魔だと、ふだん羽織っている着物を脱いでいるせいで、襟の折り返しがないシャツ、ベスト、そしてスラックスと――まるで下宿中の学生のようである。零雨は自分の分のご飯をよそうと絹夜の前に着席した。彼は朝食に目を輝かせる愛しい
そしてふたりは手を合わせる。
「いただきます」
「……いただきます」
ふたりの声が重なって、食器のこすれる音が続いた。
絹夜の満足げな顔には赤と金が
食事をしていると、郵便局員の猫たちが寄ってくる。おこぼれをもらおうという魂胆を持っている猫は一匹としておらず、単純に朝の団欒に混ざろうというのである。
わらわらと集まってきた猫たちはある者は無遠慮に膝のうえにのり、ある者は腹を見せて構ってほしいとアピールし、ある者は置き物のようにどっかりと食卓のうえに座った。食卓はさすがに邪魔だったので零雨が抱き上げて畳におろしていたけれど。
『おはよ、兄弟。今日も朝からずいぶん食べるね』
声変わり前の少年のような声がする。絹夜が食事を摂るすぐ横で卓袱台に前足をかけて背伸びをしている猫だった。ぶち模様で琥珀色の目をした猫――名前はゴマである。
「……ん。……育ち、盛り」
『兄弟はそれいつも言っているよ』
「……んん」
ゴマのからかうような物言いに絹夜が口を噤んだ。その通りだったからだ。
「ゴマ。そういうけれどね、君は逆に食べなさすぎだよ。この前だって自分の餌をダイフクにやっていただろう」
零雨に言われてゴマは前足を下ろし、バツが悪そうに顔をそらした。ダイフクとは名の由来の通り真っ白で丸い猫だった。やや太り気味なので食事制限をしているのだが、ゴマは面倒見のいい性格ゆえか物足りなそうにしているダイフクを見かねて自分の餌を与えてしまう。結果的に制限している意味がなくなっている状態だった。
『……だって可哀想じゃないか。不憫な思いで死んでしまったっていうのに』
「……そりゃあ餓死で亡くなった猫だからね、可哀想だと思う気持ちは理解するけれども。でもそれにしたってダイフクは食べすぎ。あれではほんとうに〝大福〟になって働けなくなってしまうよ」
零雨がサラダのレタスを咀嚼しながら言った。ゴマはまだなにか言いたそうに零雨の薄氷色の瞳を見つめたが、主たる彼のもっともな正論に返す言葉を失ったのか「にゃあ」とだけ言ってどこかへ行ってしまった。
次にやってきたのは片目の潰れた猫だった。非常に気性の荒く、零雨が最も手を焼いた猫だ。虎のような縦じまがあるので名前はトラである。
ちなみに名づけのすべては絹夜に一任されている。零雨がつけようものなら『アイアンメイデン』とか『ギロチン』だとかそういう物騒なものになってしまうからだった。とはいえ絹夜も名づけが得意なわけでもないので、大体見た目から思いついたものをつけている。名付けることで猫たちは喋られるようになるので、名づけに関する文句が出たことはほとんどない。
大きさがあったら本物の虎と見紛いそうなほどに殺気立ったトラはのしのしと歩いてきて、絹夜をちらと見た。そしてすぐさま全身の毛を逆立てて威嚇し始めた。
『やいやい! この赤坊主! いい加減俺様と勝負する気になったかい!』
「……また。……それか」
絹夜が目玉焼きの黄身の部分から白身を丁寧に切り離しながら答えた。まったく応戦する気のない絹夜の態度にトラは牙を見せて「しゃー!」と威嚇を続けていた。
ほかの猫は絹夜のことを〝兄弟〟と懐いているのに、トラだけはずっと絹夜を〝赤坊主〟と呼んで敵視していた。
理由は簡単。トラは零雨が好きだから。たぶんそれはひとでいうところの、惚れた腫れたの類である。嫉妬心からの直情的な行動だった。
『またとはなんだ、またとはァ! 俺様の零雨兄貴を独り占めしやがって!』
「……べつに。……そんなこと、は」
『はいは~い、トラはんはええ加減にしましょね~おふたりはお食事中ですえ~』
『ぐわぁ! なんだ、……て、てめえ、ヤツハシ……!』
猛攻せんばかりに殺気立っていたトラを抑え込んだのは、笑ったような目元をした猫だった。薄緑色の毛並みをしていて、トラより一回りほど大きい。名前はヤツハシという。
『にゃーん、もう。トラはんは飽きひんな~』
『なにをぉう! だってこの赤坊主は俺様たちの主たる零雨兄貴をだな……』
『独り占めするんはしゃーないやろ、絹夜はんは零雨はんと毎晩すったもんだする仲なんだから』
「……ぶっ!」
ヤツハシの発言に絹夜は思わず味噌汁を噴き出した。それからごほごほと咳をするのに慌てて零雨がタオルを持ってきてその背中をさすった。
「おや、大丈夫? 火傷はしていないかな?」
てきぱきと後始末をする零雨を見ながらヤツハシが呟いた。
『ありゃ?』
『ハハハハッ、見ろ! ざまあねえな!』
「……す、すった……もんだ、……って」
『え、ほんまのことやろ?』
「……と、突然。……やめ、てくれ……」
絹夜の頬がほんのり赤いのを見て、零雨が口角を吊り上げた。
耳元に唇を寄せて敢えて熱っぽく言う。
「――次からちゃんと防音してしようか? ね、俺の可愛い一等星」
絹夜の顔は蛸のように真っ赤になって閉口した。
「……ッしょ、食事、中だ!」
そう叫んで、白米を掻きこんだ。
トラがにゃあにゃあ笑い、零雨がなにもなかったように食事を再開し、ヤツハシが溜息をついた。
「――まあ、そんなことが」
朝のことを
銀色の髪を腰まで伸ばし、猫を見つめる瑠璃色の瞳のなかには、右目に三日月、左目には薔薇が浮かんでいる。映える鮮やかな色はそれだけで、彼女の身を覆う服は白と黒だけである。ところどころにリボンがついているものの、それ以上華美な装飾はない。袖が途中で割れ、着物のようになっているワイシャツにネクタイ、スリットが大胆に入ったミニスカート。足元は厚底のブーツ。無駄のない洗練されたデザインが彼女の性格を反映しているようだった。
『うふふ、清き猫のほうも仲睦まじいようでなによりでございます』
そう言うのは綺光の背後に控える月の精霊カグヤだった。
長い金髪を靡かせ、重そうな十二単を軽やかに着こなしている。浮かぶ面は綺光に瓜二つだった。
「……突拍子も。……ない、ことを。……言われる、のは。……困る」
猫は突然なにか起こるということが苦手だった。すぐ顔が真っ赤になって動揺してしまう。
その様が可愛いとよく言われるけれど、あまり頻発すると猫にとっては困りものだった。
「……でも。……心臓が。……驚かない、から。……それも。……困る」
猫が言う。
彼の心臓は彼のものではなく――零雨のものだった。鬼は契りの証として己の心臓を相手に託す。だからいくら猫が仰天しても心臓はいつだって平静そのものなのである。そのちぐはぐ具合がなんだか悔しい。
「……それに」
「それに?」
「……ま、……毎晩。……では、ない。……ほどよく。……だいたい、だ」
「――あら、うふふ」
赤面しているかどうかは赤い毛並みでよくわからなかったが――おそらく。
彼の頬は真っ赤に違いないと綺光は思った。
◇◆
睦まじい話はそれくらいにして三人は<宝物庫>の背の高い棚を見上げた。ここはふだん、綺光のトランクのなかにしまわれている亜空間だ。
もともと母の所有物だった古びたトランクは、彼女が死んだ後カグヤが身の内に納めていた。綺光の目覚めと共にそれを渡してすべてを教えたのである。
そのときからすでに綺光の心のなかには『これらを返さなくてはいけない』という強い義務感が芽生えていた。
綺光は棚を見ながら今日返すものを探していた。基本的に場所を取る、大きなものから返している。
棚にはたくさんの物品がずらりと並べられているがそれらに名を示すタグのようなものはない。猫は不思議に思ったのか、棚を検分する綺光に訊ねた。
「……綺光」
「はい、なんでしょう」
「……<宝物>の、名は。……誰が?」
「それは」
『――私でございます、清き猫』
綺光と猫の間に透き通った体が割って入ってきた。
その手には巻物がある。崩した文字で縦に箇条書きされているようだった。
おそらく帳簿であろう。
『私が名をつけております。大体のものはわかりますゆえ』
「……すごい」
『太陽と月は常に空に浮かび、皆を照らす者ですから』
カグヤは袖で口元を隠しながら笑った。
巻物から手を離すと、それは光の粒子になって消えてしまった。
「……あら、これは」
綺光がそれを手に取った。
卵だった。何の柄もない、真っ白な卵が台座にちょこんとのっている。大きさはダチョウの卵ぐらい大きいけれどそれ以外に特別変わったところはなかった。
『ああ、それは。――〝フェニックスの卵〟でございますね』
カグヤが言った。
フェニックス。不死鳥と呼ばれる通り、炎で自らを焼いてはその遺灰から再び蘇る神秘の鳥である。
その卵――要するに産み育てるとあの鳥が生まれるというのだろうか。
「……親にとって子も同然、でございますよね」
『ええ、……まあ』
「……今回も苦労しそうでございます」
精霊たちは個性が強いから返すだけにしても一筋縄ではいかないのだ。
綺光はトランクを開くと平常通り眠っているマッドのなかに、フェニックスの卵を光の球体にして納めた。
そして、トランクを掲げる。
『――導け、あるべきところへ。――開け、善き隣人の深き戸を』
なにもない空間に線が四本生まれて、扉が現れる。ついでドアノブが、と思っていたが、扉には一向にドアノブが現れなかった。綺光は試しに押してみたが、扉はびくともしなかった。引くにしてもドアノブがないから引くこともできない。どうするべきか考えていると猫が扉の隅を引っ掻き始めた。
何回か引っ掻くと、扉がずり、と横にずれた。
『……引戸でございますね』
カグヤに言われて綺光は無言のまま、ドアの端に指をかけて横に動かした。
むわっと熱風が顔面を覆った。
「!?」
目の前には岩場とマグマの赤色が広がっていた。
モノクロの絵画に赤色だけはっきり描かれているような光景だった。岩場の隙間にはマグマが流れ、時折遠くのほうで噴火の音が聞こえた。
「……あつい」
猫が言って舌を出した。
綺光も思わず襟元を崩した。いるだけで汗がにじんだ。
灼熱のサウナに放り込まれたような気分だった。
「……炎の国、でございますか……」
『フェニックスは自らの炎で自身を焼き、そして再生するものですから。居心地の良い場所は当然炎のなかになります』
いちばん重ね着をしていて暑そうなカグヤが、涼しい顔で説明した。
「フェニックスはたしか、<
綺光がひとりごちて額の汗を拭って歩きだす。そのあとを猫が小走りについてくる。
どんなに進んでも岩とマグマしかなかった。空は濃い灰色の雲に覆われているけれど雨が降る様子はなさそうだった。
「……あづい……」
綺光はしゃがみこんだ。陽炎で周囲の風景が歪んでいる。綺光はトランクからリボンを取り出して長い髪を団子状にまとめた。幾分か涼しくなることを期待したが、まったくそんなことはなかった。
熱された鉄板のうえを延々と歩かされているようで、いつもは滅多に苛立たない綺光もさすがに心が乱されていた。
「……あつい、あついあつい……っ! あついぃぃ……」
「……んんぅ……にゃあ」
綺光は天を仰いで膝をつき、猫は四肢を広げてばったりと地面に倒れ込んだ。
ふたりとも暑さに体力を持っていかれたようだ。
「……はあ、くそ。<夢見主>はどこに……」
綺光がそう呟いて流れてきた汗を拭った、そのときだった。
ひとつの岩場が大きく振動して壊れたのである。
「!?」
緊張が走る。
綺光が立ち上がり、猫も跳ね起きた。
岩場を砕いて現れたのは――
「……ペンギン?」
ペンギンの群れだった。
可愛らしいペンギンの群れ、と言いたいところだったが、その大きさは可愛いなどとは決して言えなかった。
そのペンギンたちは天高くそびえる毛玉の壁がごとく――とんでもなく、巨大だった。
彼らが体を左右に揺らして歩くたび地震が起こったように地面が揺れた。
「な、なんですこれは……」
『ペンギンでございますね』
「……大きい」
どたどたと正面を横切るペンギンの群れのうちの一羽が、三人の存在に気付いた。
ぎょろりと黒い穴のような目玉が動いて、そのペンギンが止まった。ついで群れ全体が行進をやめた。
ペンギンが首を動かした。近づいてくる顔は見知っているずなのに、未知の怪物のような威圧感がある。三人とも息を呑んだ。
『……』
ペンギンはしゃべらなかった。しかししばらくしてから、嘴を開けた。
嘴のなかには細かい歯がびっしりと並んでいて、喉奥は真っ黒な闇が広がっていた。
ペンギンの口のなかとはこういう風になっているのかと場違いに感心していると、闇だと思っていた喉奥が発光した。それが炎の塊であることに気付いて綺光は慌てる。
「――ッまずい!」
綺光は慌てて身を引き、そして背中を向けて走り出した。そのすこし遅れたタイミングで、ペンギンの口から火炎放射器のように火が放たれた。
最初のペンギンが火を噴いたことで、ほかのペンギンたちも次々とそれに追従した。
走り去る綺光の背中に向かってペンギンたちは炎を吐き出した。
「ッペンギンが! 火を噴いて!?」
「……まじか」
『夢ですからね』
綺光はトランクを開けてマッドを取り出そうとした。足元に目を向けたとき、違和感に気付く。
「……えっ!?」
綺光が振り返るとそこにはもう道がなかった。あるのはただマグマだまりだけである。ぶくぶくと沸騰したように赤い泡が浮かんでは消え浮かんでは消え、を繰り返していた。
『ここは冷えて固まったマグマだまりのうえだったのでございましょう』
「……逃げれば逃げるだけ、道が消えていくということでございますか……」
マグマのなかをペンギンはなんともない顔で歩いてくる。体を左右に揺らして歩く姿は怪獣が闊歩しているようにしか見えなかった。マグマを蹴り上げて近づいてくるそれに綺光は戦うことを諦めた。
足場が悪くなる戦場で敵は多数――しかも、巨大。
綺光は決断した。
「……とりあえず、逃げます」
『ええ、それがようございますよ愛しい子。――きっと、すぐにやってくるはずだから』
カグヤがやさしく同意し、猫もまた全力で首を縦に振っていた。
綺光は背を向けて再び走り出した。ペンギンたちがその後を追って来る。
果てしない鬼ごっこの始まりだった。
◇◆
綺光は体力だって並みよりだいぶ、あるほうだという自負があった。仔細は略すが、ともかく体力はあり余っているほうだった。だから逃亡することに対してそこまで不安はなかったのだけれど。
周囲は灼熱である。体力は熱さによっても削られていく。
「し……しっつこい……!!」
「……に゛」
ペンギンたちはまったく諦める様子がなかった。
絶えず振り撒く炎により周囲岩は掻き消えてしまうから物陰に隠れてやり過ごすこともできないし、道は一本道で曲がり角もない。
〝鬼〟に圧倒的有利な鬼ごっこだった。
「そ……、ろっ、そろ……私、……っとて、……! もちま、せんっ……よ!」
「……んに゛ぃ」
足がもつれそうになるのを必死に堪えながら綺光はひたすら走り続ける。一緒になって走る猫もまた辛そうではあったが、なんとか持ちこたえて走っていた。
「カ、カグヤ……! こ、この……<夢見主>……、は!」
『――大丈夫ですよ、愛しい子』
「……っえ?」
『そろそろ、来ます』
そう言ってカグヤが空を仰ぐと、灰色の雲のなかに、稲光が走った。
『ほら』
カグヤが言った。するとすぐに、
『――そこな、ひとの子』
という老成した男の声がした。
だれかと辺りを見回すと、稲妻だと思った光の塊が急激にこちらへ近づいてくるのが見えた。
光は羽を広げ、尾羽を
鳥は疾走する三人のもとへ急降下してきた。
『ひとの子よ、そなたはなにゆえ私の〝卵〟を持っている』
逃げるふたりに並走しながら大きな鳥――フェニックスは訊ねた。
「な、なぜと申しますと……っ! そのっ! いろいろと事情がございまして!」
『事情? ふむ……言いづらいことか』
フェニックスは思慮深く言う。しかし詳細な説明をするのは到底無理な状況だった。
火を噴くペンギンに追いかけられている真っ最中なのだから。
「言いづらい、と申しますか……っ! この状態だと非常に! 説明がっ!」
『落ち着けひとの子よ。私はそなたの言いたいことがわからぬ』
フェニックスは落ち着かせようと気を回してくれるものの、それより先にしてほしいことがあった。
埒が明かないと思った綺光は空中を泳ぐカグヤを見た。
「――ッ、カグヤ!」
『――フェニックス。まずはあのペンギンの大群を止めてはくださいませんか』
カグヤが綺光の気持ちを代弁するとフェニックスは『……ふむ』と一呼吸置いて旋回した。
ペンギンの群れに光の鱗粉をまぶすと、彼らの足がぴたりと止まった。そして地響きを起こしながら向きを変えて去っていった。
震動が徐々になくなり、綺光たちも走るのやめた。息が上がっている。
「……はあ、……は……っあ、……ありがとう……っ、ございま……」
『大丈夫かひとの子よ。もしや再生の途中だったか? よかろう、私が手助けしてやる』
フェニックスは三人の周囲を旋回した。
さきほどと同じ光の粉がきらきらと降り注ぐと、悲鳴を上げていた筋肉や関節が途端静かになった。
「……ありがとうございます」
『構わぬ、私は慈悲深いゆえに』
フェニックスは近くの岩場に留まった。呼吸を整えて綺光はフェニックスに向き直る。
見れば見るほど美しい鳥だった。大きさは
「ごきげんよう、フェニックス。さきほどなにゆえ私が〝卵〟を持つかとお聞きになられましたね」
『さよう。それは私が魔女に預けた〝卵〟だ』
「……預けた?」
奪ったとばかり思っていた綺光は思わぬ言葉に目を瞬かせた。
フェニックスは言う。
『さよう。その卵はあひるの卵で、私が死というものを知りたくてひとの子から貰ったものなのだ』
「え……あ、あひる?」
綺光は卵を見る。
「……なぜ?」
『私はこの世でただ一羽しかいない。死なないからな――ゆえに、死ぬとはどういうことなのか知りたかったのだ』
「……死ぬことを、知りたい?」
綺光がフェニックスの言葉を繰り返す。
『そうだ、私は死なない。だから死ぬことを知りたいがためにひとの世に渡ってあひるの卵を貰った。がしかし育てるのに難儀してな、魔女に渡したのだ』
「……なぜです?」
『魔女に育ててほしいと頼んだのだよ』
フェニックス曰く、卵は自分の卵ではなくあひるの卵でずいぶん昔に貰った――彼は精霊だからおそらく献上されたものだろう――ものだった。けれど育てるとはどういうことか知らないから、どうすればあひるが出てくるのかわからない。悩んでいるところに魔女が来て、育てて返してやるから寄越せというから差し出した、という。
「……嘘だとは思わなかったのですか?」
『魔女は我らと約定を交わした相手だろう。まさか違えるはずあるまい』
フェニックスの物言いは徹頭徹尾大真面目だった。
綺光はそんなフェニックスに対峙して、ひとつ思いついたことがあった。ほぼ勘に近い、ひらめきだった。
だから訊ねて確かめることにした。
「……フェニックス、つかぬことをお伺いしますが」
『なんだ』
「あなたは約束を破られたことがございますか」
『ないぞ。皆、いいやつだ。大概約束の場所に来なかったり返さなかったりするが仕方があるまい。先方にも事情があろう』
「……」
綺光はカグヤを見た。予想は大当たりだ、という彼女の顔にカグヤは『さすが愛しい子。聡いですね』と褒めた。
『フェニックスは人が……いえ、鳥あたりが良いのです――いいえ、良すぎるのでございます。ひとを疑うことを知りませんので、大体騙されて生きております。尾羽も再生するからといろいろなところに安売りしていた時期もございますよ』
綺光は溜息をついた。
フェニックスは母に騙されたのである。母は奪うことだけを悦びとする女だ、その後の管理など――ましてや、育てるなんて面倒をするはずがない。フェニックスの性格を利用したのだ。
母は非道な手段も用いるが、穏便に済ませられる部分はそうする。そういう打算的な生き方も得意だった。
綺光はもう一度卵を見せた。つるりとした表面はきれいなままで罅のひとつもない。
「ご覧の通り、卵は孵化しておりません。母はあなたとの約束を違えました」
『魔女も忙しいのだろう、仕方がない』
綺光が神妙な面持ちで言ったが、対するフェニックスは特段気を害す様子もなくそう返した。
綺光は溜息を押し殺して続けて言う。
「……そもそも卵が孵化しても<精霊の戸>を通ることができるのは魔女であろうと一度きりという約定がございます。母がたとえ孵化させていても渡す方法がございません」
『? だからこそそなたがこうして来たのであろう?』
フェニックスは首を傾げて同意を求めてくる。
綺光は、
「……そうですね」
と返すしかなかった。フェニックスがひとであったなら無垢な子どもの姿をしているのではとさえ思った。彼が大きな損害を被らずに生きているのはひとえに精霊であるからだろう。ひとの世ではとても生きることのできない純朴さだった。
綺光はすこし考えてから言った。
「私も育成方法に明るいわけではございませんが、通常鳥類の卵というのは温めると孵化するものと心得ております」
『ほう、温めるか。炎に放り込めばよいのか?』
「いいわけないでしょう、茹で卵になりますよ」
『茹でた孫? ひとの世ではそのようなものを食すのか』
「誤変換の代表みたいな誤解をしないでください」
綺光が言う。猫は欠伸をしていて退屈そうだった。
「あなたの羽毛の下に敷いて温めるのでございます。そうすればヒナが産まれて……」
『ヒナ?』
「鳥類の子どものことです。……もしや、ヒナをご存じないのですか」
『なんのことやらわからぬ。私は鳥ではあるが、聖獣だからな』
「……箱入り娘ですか」
『私に雌雄はないぞ』
「……べつの意味で疲れる方でございますね」
綺光は頭を抱えた。
フェニックスは世間知らずだった。
「とりあえずこれはお返しいたします。お邪魔致しました」
これ以上話していると頭痛がしそうだった。綺光はとっととお暇しようと強引に話を終わらせた。
『……』
フェニックスは手渡された卵を凝視してから、綺光に言われた通り卵を体の下敷きにした。深紅の羽毛に卵が見えなくなる。ああしていればそのうちヒナが産まれるはずだ。
(その後の手順を教えて差し上げるべきでしょうか……しかし、すこし面倒ですね……)
綺光は腕を組んで考えていた。すると、
『……む?』
フェニックスが訝しんだので綺光も眉間に皺を寄せた。
温めている部分がもぞもぞと動き出している。フェニックスがそこからどくと卵には頂点から大きく罅が入っていた。
「え」
いくらなんでも――早すぎやしないか。
そう思っているうち卵殻の欠片がぽろりと落ちた。ぱきぱきと小気味いい音を立てて卵が割れていく。フェニックスは興味深そうに見つめていて、綺光たちは呆然とするだけだった。
あちこちに白い欠片を散らしながら卵が完全に割れる。割れてなかから現れたのは――
「クワーッ!」
成鳥のあひるだった。
三人がぽかんとしているなか、フェニックスが大真面目な口調で、
『ほう? これがヒナか』
と言った。
その発言に我に返った綺光が首を振って否定する。
「――そんなわけないでしょう、これは成鳥でございます」
『ぬ? ひとの世の鳥とは卵からこうして成長して産まれ出でるのか』
「それも違います、これが非常に珍しい……いえ、到底あり得ないことでございます」
白い羽毛に黄色の嘴。クワ、クワと上機嫌にあひるは鳴いている。
まさか卵のなかで育っていたというのだろうか。けれどあの卵はあひるそのものがすっかり入っていられるほど大きくはなかった。.
「なぜあひるのまま……?」
混乱する綺光にカグヤが『ふむ』と顎に手を添えた。
『フェニックスが干渉し魔女が保管していたことでなにかしらの異変が起こったのかもしれませんね。いずれにせよこのあひるはこの世のあひるとはすこしだけ違うようでございます』
「……ちがう?」
『私たちと同じ気配が混じっておりますゆえ』
あひるは岩場から降り立つとクワ、クワ、とどこかへ歩いていこうとする。慌てて綺光がその体を両手でつかんで持ちあげる。
「!? あついっ!?」
じゅうと掌が焼ける感覚がして手を離した。
あひるは空中から放られて驚いたのか羽を撒き散らしながら走って逃げだす。猫がその後を追いかけた。
綺光が掌を見るとふだんしている手袋の表面が若干焦げ付いていた。あひるの体が熱を帯びているのだ。それも相当な高温で。
綺光はあひるに向かう猫に叫んだ。
「絹夜さん、気を付けてください! そのあひる――火傷致します!」
「クワーッ!」
「……に゛っ!」
遅かった。
すでに猫はあひるの体に噛み付いていた。
瞬間、猫の口のなかに焼けた鉄を押しこまれる。粘膜を焼く感覚に驚いて、自然と体は後ろに飛んでいった。
「絹夜さんっ!」
「……あ、あづ……いだ……っ」
猫は口から煙を噴いていた。口腔内が火傷しているのだ。
舌が真っ赤に腫れていて見るからに痛々しかった。
「すこし待っていてくださいな……!」
綺光はトランクから液体の入った小瓶を取り出した。瓶の蓋を外し、猫をやさしく抱き上げる。あふあふと痛みに涙目になっている猫の口に、薄い黄緑色をした液体を流し込んだ。液体が舌のうえを流れ、喉の奥へ消えていく。液体が触れた部分からどんどん火傷が治癒していき、しばらくすると猫は四足で態勢を立て直すまでに回復した。
「……すまない。……面倒を」
「いいえ。念のため<
「……ん」
「……ただ」
「……ん?」
言いづらそうにする綺光に猫は首を傾げた。彼女は身を屈めて、猫に耳打ちする。
「それはカグヤの力で――即ち、月の力で作られている<
「……ん」
「それが――」
『おふたりとも』
綺光の言葉を遮ったのはカグヤだった。困惑気味である。
なんだろうと顔を上げて、綺光ははっとなった。
あひるがいない。
「……あ!」
『あのあひる、どこぞへ行ってしまいましたよ』
綺光はまずいと一瞬思ったが、よくよく考えてみればあれを返しにきたのだからどこかに行ってしまっても問題ない。そう思った。だから、
「構いませんでしょう。フェニックス、あれはあなたの――」
『もう良い』
フェニックスが残念そうに言った。
綺光はその言葉の意味を捉えかねて、フェニックスを見返した。
「もう良い、とは?」
『あれは精霊になってしまった。私と同じだ――死なぬものになってしまった』
「……」
『だからもう良い。あれは私の求めるものではなくなった。そなたたちにくれてやろうひとの子よ』
フェニックスは羽を広げた。
そこで綺光はまずい、と再び思った。フェニックスに扉を開けてもらわないと帰ることができない。
「お待ちください、フェニックス! あなたが戸を開かねば私たちは――」
『――私はずっと考えていた』
「え?」
『死ぬとはどういうことなのか、ずっと考えている。しかしついぞ答えはなかった』
「……フェニックス?」
『……私は、しりたいだけなのに』
その呟きはひどく儚い声だった。フェニックスがはばたく。頬を熱風が叩いた。
顔を覆っていた腕を外したそのときにはもう、フェニックスの姿は影も形もなかった。
「ああ、ちょっと……!」
『――愛しい子』
カグヤが肩を叩いた。
振り返るとそこには<精霊の戸>があって真っ白な光があふれていた。
「……え?」
『帰りましょう、もうここでできることはございません』
カグヤが言った。
猫も納得いかない顔をしている。鳩が豆鉄砲を食ったような妙な気持ちだった。けれど、厄介事はないに越したことはない。だから綺光は礼儀として岩場とマグマの風景にお辞儀をして、扉をくぐった。
<宝物庫>に戻ってきた綺光はカグヤを呼んだ。カグヤは呼ばれるのをわかっているような表情をしていた。
『フェニックスは私たちのうちで唯一消滅の概念がない存在なのでございます』
「……どういう?」
『私たちとて力尽きることもございます。善き隣人の間ではそれを〝代替わり〟と申します。意思を引き継ぐこともあれば、ないこともある。ひとの死とは少々異なりますが……しかしフェニックスにはそれがない。未来永劫自身の短い輪廻のなかで生き続けなければなりません。あれはあれの代だけで延々と生きるのでございます』
カグヤは扉があったほうを見つめたまま言葉を紡ぐ。
『あれが消えてしまうとフェニックスはもう二度とこの世には生まれません、〝代替わり〟が存在しないから』
「……」
『神類属はたしかに神ではありませんが、……それでも、非常に重要な存在です。存在が失われれば容易く均衡を崩すでしょう。――だから、フェニックスに死を教えてはならないのでございます。きっと死を知ることがあればフェニックスは死んでしまうから』
「……どうして」
猫が訊ねるとカグヤは答えた。
とても悲しそうな目をしていた。
『――死にたがっているからです』
カグヤの言葉を聞いて去り際、フェニックスが残した言葉を思い出した。
綺光には『知りたいだけなのに』と聞こえていたけれど――あれはほんとうは『死にたいだけなのに』だったのではないか、と。
沈黙するふたりにカグヤがゆっくりと視線を向けた。
『……愛しい子、あひるを精霊に変えたのは私です』
「!」
綺光も猫も目を瞠った。
『月の光で温め、内側から創り変えました』
カグヤの顔に感情はなかった。
花緑青の瞳が、宝石のようにただ美しい輝きだけを見せている。
しばしの沈黙ののち、口を開いたのは綺光だった。
「……私は、あなたを責める言葉は持ちません」
『……』
「……けれど、お話してくださってありがとうございました」
そう言って綺光は無理に笑ったような表情を作った。
猫は床を見つめて、黙っていた。
「絹夜さん」
丘のほうへ向かう猫の背中に綺光が声をかけた。
「<
「……ん」
猫が足を止めて綺光へ向き直る。
通りの往来は減っていて、空は赤から薄っすらと藍色に染まり始めていた。
「月の力が宿ったものですから、月の満ち欠けに体が反応してしまう可能性がございます。……ですから、その」
大変言いづらそうにする綺光に猫は悟った。
およそ、彼が猫として経験しているものだろうと勘付いた。
「……ん。……了解、した」
綺光は言葉の続きを言う前に、猫は返事をした。
「……申し訳ございません。一晩で、終わるかと存じますので」
「……ん」
猫は頷いた。
それから軽やかな足取りで丘へと向かって走っていく。
綺光は猫を見送ったのちに、通りを振り返った。あたりを点々とする灯籠に火が入ったこと、視線の先にある赤い屋根の屋敷に、門番がいないことを視認して自分も家に帰ることにした。
◇◆
『赤猫郵便』に着く頃にはもう日は暮れていた。
部屋に入ると寝ている仲間が多いせいか、出迎える鳴き声は少なかった。猫は迷わず二階へ上がると襖をかりかりと引っ掻いた。襖が開いて、なかから零雨が現れる。袖を通さずに着物を羽織った彼の背後の手紙の山は、すこしだけ減っているようだった。
「やあお帰り絹夜。夕飯は食べる?」
「……」
「……うん?」
猫は零雨の問いかけには答えず横をすり抜け、早足に隣接する寝室へ向かった。素早くひとの身に転じると布団のなかにもぐりこみ、ついで端っこを体の内側に折り込んだ。饅頭のように丸くなった彼を見て零雨は訝しんだ。
「――おや、どうしたの。お前が風呂に入らずに……なんて。珍しいね?」
「……」
「絹夜?」
「……副作用」
にょきと布団の饅頭から頭が生えた。
頬が心なしか赤い。
「え? 副作用?」
「……<
絹夜がぷいと顔をそらした。しかし零雨にはその説明で充分だった。
「ああ、そう。彼女の薬のせいか」
「……手当て、だ」
零雨の物言いに険を感じた絹夜がフォローするように返した。
「べつに彼女を悪く言うつもりはないさ。理解をしたというだけでね」
「……」
零雨が襟元を緩めた。
襖を閉じると寝室は真っ暗になる。天井から吊るされた豆電球をつけ、零雨は饅頭のうえに覆い被さった。絹夜が恐る恐る零雨のほうを見ると逆光で彼の顔は真っ黒になっていた。薄氷色の瞳だけが冷え冷えと見下ろしていてすこしだけ恐ろしい。
「……零雨」
「なあに」
「……死ぬ、って。……どう、いう。……ことだ、と。……おもう?」
訊ねる絹夜の口元に零雨は左手を差し出し、手袋に覆われたままの指を寄せた。絹夜はわかったように指先を食んで、顎を引いた。
「……なにもないこと」
絹夜が手袋を脱がしている最中、零雨は落とすように言った。
感情を削ぎ落とした無味乾燥な声だった。
「……」
「……死ぬというのはなにもなくなるということだ。喪失さ。……俺はもう二度と味わいたくない」
「……」
皮がむけるように手袋が外れる。日に晒されない掌は真っ白だった。
その薬指には銀色の光る指輪があった。
「……どうして、そんなことを聞くのかな」
手袋をしていない生身の指が絹夜の唇をなぞった。
「……わから……、ない。……から」
絹夜の答えに零雨は納得していないようだったが、追及はしなかった。
伏せられた瞳があまりにも憂いに沈んでいたからか、或いは答えたくなかったからか。
「……お前は知らなくていいよ」
零雨はそう呟いて絹夜の纏う布団をはぎ取った。
突然のことに驚いて目を剥く絹夜に、零雨は笑った。
「――ちゃんと防音してあるから安心して、俺の一等星」
それは背筋が凍りつくほど美しい笑顔だった。
◇◆
「――思い出になることだ、と母さんは言っていた」
絹夜が
あらぬところがあらぬ悲鳴を上げている体を横たえて、冷たい触手の感覚を心地良く思いながら同じ問いかけをしていた。
額から真っ黒な二本の角を生やした男――
「……思い出?」
「……ああ」
綺光の頬をひとの指先が触れた。心地良くて流れた涙を紅壽がやさしく拭った。
「……ひとは死ぬと思い出のなかでしか生きられない……というだろう」
「……そう、ですね」
ひとには二度死ぬと言われている。
一度目は肉体の死、二度目は忘却――忘れられることだと。
フェニックスは肉体の死を知ることなく生き続けている。忘れさえしなければあの精霊がいたことは思い出になるけれど、それでは均衡を司る天秤の片皿を満たすことはできない。
物理的な重量を必要としている限り、フェニックスを思い出という重さのない箱に入れて閉じ込めることはできないのである。
「……思い出にすらなれないことは、悲しいことでございますね」
「……不死は孤独だからな」
「……」
死なないことは置いていかれること。
死ぬということは置いていくこと。
どちらがより、切なくて苦しいのかわからない。
けれどひとつだけ綺光にはわかることがある。
「……置いていかれるのは、さびしい……」
そう呟いた声が聞こえたのか、紅壽の抱き締める力がほんのすこし強くなった。
目元を拭っていた掌が頭に移動して、何度も何度も慰めるように撫でる。
綺光は微笑んで、そっと瞳を閉じた。
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