にじゅーにっ。



 安芸市総合リハビリテーションセンター入り口前駅。この言葉には語弊があるような気がする。ここから、さらにバスで20分間、上り坂を揺られてようやくリハビリテーションセンターに到着するのだ。


 安芸市は、政令指定だが、その実態は市町村合併の結果による。中区は、駅を中心に発展したと言えるが、近郊と言えば、車がないとかなり厳しい。


「――秋田ぁっ!」


 見れば、アストラルラインの窓を開けて、藩宮さんが、ブンブン手を振っていた。


「今度、一緒に応援に行こうねっ!」

「……お、おぅ!」


 やっぱり、あのメンバーに俺も入っていたのね。と若干、気圧けおされる。

「いやぁ、青春」

「若いって良いわねぇ」


 周囲の皆さんが微笑ましそうに俺達を見ているが、ひどい誤解があるような気がした。


「むー」


 一方の花は、さっきまで藩宮さんと意気投合をしていたと思っていたのに、少し険しい顔をしていた。ああ盛り上がったものの、応援していたチームは違ったのかもしれないでも藩宮さんなら、そんな細かいことは気にしないと思うのだが――。


「……おにぃが考えていることは、絶対違うからね」


 見透かすかのように、朱梨にじとっと睨まれた。


「聖母様ーっ!」

「は、藩宮さん! ココで聖母様って言われるの恥ずかしいです!」


 駅のプラットホームで叫ぶのも、かなり恥ずかしいと思うんだけどなぁ。


「あ、それから、花園さん!」

「はい!」


「絶対、ぜったい、ユニフォーム見に行こうね?」

「はいっ!」


「あと、秋田のこと。応援しているから!」

「え、いや、私としゅー君は、ただの友達で。今はまだ、そんな関係じゃなくて――」

「今はまだねぇ」


 朱梨がぼそっと何かを呟いたが、俺は聞き取れなかった。


「と、とにかく! 花園さん、妹ちゃん、そ、そ、そ……それから、秋田! い、一緒に行こうねっ!」


 真っ赤になって、藩宮さんが叫ぶ。いや、恥ずかしいのなら、そんなに大きな声を出さなきゃ良いのに、と思ってしまう俺だった。


「うん、行こうね」

 だから俺はそう笑って、手をひらひらと振って見せた。


「まったくお兄は……天然のスケコマシだよね。見る人が見たら、優良物件なんだから余計にタチが悪いよ」


 朱梨の呟きは、アストラルライン、発車合図のベルでかき消されたのだった。





■■■





 意外にバスの中は混み合っていて、すぐに座席は満員になった。


 俺と花、それから朱梨は横座席に並んで座る。な、なんで朱梨じゃなくて、花が隣なんだって思う。満員なので、朱梨が時々、詰めようとぎゅうぎゅうと押してきて――ニヤッと笑うその顔は、わざとだろうと思ってしまう。


 花の黒髪が時々、俺の首をくすぐる。

 その香が、鼻腔につく。


 そうでなくても、最近の花は、俺との距離が近い。クラスメートとして、普通に接してくれるのは嬉しい。保育士ボランティアも、何か手伝えたらと思っていたが、信頼して仕事を託してくれるのが、本当に嬉しいと思ってしまう。同居して、気恥ずかしさは残るものの変な遠慮も消えてきた。


 あとは、花のお母さん――園長先生にも、認めてもらえたらって思う。好意で受け入れてもらったのだから、できるだけその恩は返したい。


 だから、距離が近すぎる。それが問題な気がする。でも、花はとことん無自覚だ。【お兄ちゃん】と慕ってくれるのなら、俺の方が適切な距離を保つしかない。


 小さく息をつく。

 窓に視線を送る。


 住宅地と緑が混在した田舎通り。所々、田んぼまで見える。のどかで――穏やかで。この景色を見ていると、眠りに誘われそうだった。


 コクリ、コクリ――コクン、と肩に衝撃が落ちるのを感じる。


(は、花?!)


 見れば、俺の肩にもたれかかって、スヤスヤと花が寝息をたてていた。


「ちょ、ちょっと花?! お、おい朱梨あかり――」

「あらあら」


 口を掌で隠しながら、楽し気に、朱梨がほくそ笑んでいる。いや、傍観していないで。これはちょっと、まずいって――。


 擦り寄るように、花の唇が俺の首筋に触れた。


「は、花。本当に寝ぼけてないで……そろそろ起きて……」


 と、バスが既定の停留所で停車した。花がビクンと体を震わせて、それから目をこする。


「んー。しゅー君、もうついたの?」

「ま、まだだけど……」


 こっちの気も知らないで、と息をつく。朱梨が視界の端でクスクス笑っているのが見えた。


(お前、あとで覚えていろよ)


 そう呪詛をこめていると、老夫婦が乗車してきたのが見えた。白髪まじりで、額には皺が深く刻まれている旦那さん。見るからに頑固そうで、仕事一徹でココまできたんだろう、と想像してしまう。


 そのおじいさんが、右足を引きずるように歩いていたのが、少しだけ気になった。

 そしてシルバー席に陣取っている、オバさん達は、まるで動く気配をみせない。


「あの、よければ。こちらに座られますか」


 思わず、そう言って立ち上がってしまった。それから、はっと我に返る。今日は花と朱梨が一緒なのだ。まずは彼女たちと、相談をすべきで――。


「おばあさんも、こちらにどうぞ」


 すっと、花まで立ち上がる。


「いや、別に花まで付き合う必要はないから――」


 とまで言って思う。俺一人じゃ、この夫婦の席は確保できない。俺の思考を見透かしたのか、花がクスクス笑みを浮かべるる。と――。


「い、いらんっ!」

 おじいさんが顔を真っ赤にして怒鳴った。その額から、玉の汗が滲んでいるのが見える。


「と、年寄り扱い、す、するなっ!」


 まるで気力を振り絞るかのように、そう声を荒げた。そんなおじいさんの反応に、周囲はヒソヒソと声を上げる。


「まぁ。親切にしてもらって、あの態度あないわよね」

「ああいうの、老害って言うんだよなぁ」

「本当に、迷惑だよなぇ」


 ヒソヒソ、ヒソヒソ。そんな声が無節操にあがる。迷惑なのは、あんたらだよと。思わず毒付きたくなる、その感情をなんとか飲み込む。そもそも、シルバー席に居座った大人達が、席を譲ってくれたらそれでおさまった話なのだ。


「あの、心配しないでください。初めて来たから、外の景色を眺めたかったんです」


 そうニッコリ笑って言って見せる。花もコクリと頷いた。


「……失礼ですけど、脳梗塞後のリハビリですか?」


 思わず、言葉に紡いでいた。

 奥さんが目を大きく見開く。でも、そんなに難しい話じゃない。引きずる右足は麻痺の証拠だ。喋りにくそうに文節で、区切るのも言語を司どる部位が障害を受け、失語症になっているからだた、想像できる。


 ノンステップバスとは言え、少なからず段差はある。バス停まで歩いてきたことを含めて。この老人の体力は限界に近かったのだと思う。


「……麻痺で、声が出にくかったんでしょう? ゆっくり体を休めてくださいね?」


 ポカンと、老人は俺を見て、それから目を伏せて――頭を下げた。


 障害は受容までに時間がかかる。まして、この老人はこれまでバリバリと仕事をこなしてきたのだろう。なおさら、今の現状を受け入れるには、時間が足りない。


 気付けば、バスの中はしぃんと静まりかえっていた。エンジンの音だけが、やけに耳につく。


「……しゅー君って、すごいね」


 バスの吊革に掴まりながら、花が目をキラキラさせて、俺の耳に囁く。所々で立っている人がいるので、邪魔にならないように、肩を寄せるが――いや、だから距離が近い……近いんだって。


「別に、そんなんじゃないよ。父さんが医者だから、どうしても家族団欒のなか、仕事の話がでちゃうんだよって」


 朱梨も頷く。

 母さんが亡くなってからは、その傾向は顕著だった。家族との会話よりも仕事に忙殺されたい。父さんの背中が、そう物語っていた。


 脳梗塞、がん、心疾患、呼吸器系――ちょっと思い巡らしても、この世界は病気で溢れている。


 そう考えたら、病気と折り合いをつけながら、戦っているこのおじいさんは、本当に格好良いと思ってしまう。少なくとも、その目は全く諦めていなかった。


 ――次は◯◯◯。次は◯◯◯。このバスは安全運転に留意していますが、運行の際、急ブレーキを踏む場合があります。ご注意ください。次は……。


 そんなアナウンスが流れた瞬間だった。


「あ、猫!」


 誰かが叫んだ。その瞬間、バスが急ブレーキを踏む。俺はバランスが崩れそうになるのを、なんとか踏みとどまった。


「きゃっ」


 踏みとどまれなかったのは、むしろ花の方で。慌てて、花を受け止める。


「あ……しゅー君。ご、ごめんなさい……」

「だ、大丈夫、大丈夫だから、その――」


 花を抱きしめるような形にあってしまった。正直、俺の心臓と理性が大丈夫じゃない。


「あ、あの、しゅー君?」

「え?」


「私、バスって慣れてなくて。また迷惑をかけたらいけないって、思って。しゅー君の手を握っていても良いですか?」

「え?」


 予想外の一言に、俺は口をパクパクさせる。花は気が動転すると、ポンコツになる傾向がある。落ち着け、落ち着け。花を冷静にさせれば大丈夫。きっと大丈夫だから――。


「まぁ、仲が良いのね」

「仲よ、し、だな」

「そう、二人は仲良しなんです」


 ご婦人、そして爺さん。そんなコメントはいらない。そして朱梨は、この状況を楽しんでいるでしょ? 眺めてないで、ちょっと助けて?!


「こし、ささ、えろ」

「え?」


 爺さんの声に、俺は目を点にする。


「あなた、それは良い手だわ」


 ポンとご婦人が手を打った。


「は?」

「病院まで、ずっと登り坂で、カーブもあるから。『転ばないように、腰を支えてあげない』って、ウチの人は言っているの。私もそれは良い方法だと思うのよ」


「退院の迎えに行った人が、骨折で入院とか笑い話にもならないじゃん? 花圃ちゃん先輩って、ポンコツなトコあるから、お兄が支えてあげたら良いんじゃないかな?」


 朱梨、援護射撃の方向が間違っているから?! そもそも、それ、セクハラでしかないでしょ――。

「しゅー君。お願いして良いですか? しゅー君なら、安心ですから」

「……」

 信頼してくれるのは良いが、異性オレに対してあまりに無防備すぎる。今度、しっかりと花にお話をしないと。つくづくそう思った俺だった。





■■■





 安芸市総合リハビリテーションセンター。広大な敷地内に外来リハビリ、入院リハビリ、障がい者対象の作業所、相談支援センターが併設されている、大がかりな医療センターだ。


小児も成人も高齢者も、急性期を脱した患者が、ここでリハビリを継続しているワケなのだけれど。

 あまりの広さに、俺が目を回しそうだった。


「それじや、私たちはこれで」

「末長く、幸せ、爆ぜろ」


 ペコリと老夫婦は頭を下げて去っていく。いや、爺さん。なんて爆弾放り投げてくるの?!


(あんた、かなり良い性格をしてるよね?)


 そうツッコミたい衝動をなんとか抑えた。脳梗塞後の失語症患者である。心は穏やかに、冷静に――。


「お兄、あっちだよ! 園長先生がいた!」


 ぶんぶんと手を振って、朱梨が駆け出す。


「お、おい、朱梨! 病院内は走るなって――」

「行こう、しゅー君?」

「……う、うん?」


 言われるがままに、俺も花と一緒に歩く。

 待合席――その後部座席に座っていた女性がこちらをに視線を送ってきた。

 花圃、そして朱梨を見て、女性は柔和に微笑む。





 花園保育園、園長。花園花奈はなぞなかな。花のお母さんだ。初めてお会いしたが、まるで少し年の離れたお姉さん。そう言っても差し支えないくらいに、若々しさを感じてしまう。


 彼女が姿勢を正して、こちらを見やる。と、俺を見る視線が途端に厳しくなって、俺も身構えてしまう。まるで、値踏みをするような、そんな眼差しに――。


「あ、あの。は、はじめまして。秋田朱理って、いいます。その、花――」


 緊張しすぎだ。母親を前にして、いきなり愛称で呼ぶヤツがいるものか。


「花園さんには、本当にお世話になっていて。今回、俺達を受け入れていただき、本当にありがとうございました!」


 深く、頭を下げた。見れば、視界の隅で、朱梨が一緒に頭を下げているのが見えて。こういうところ、俺達は兄妹だなって思う。


「良いのよ、それは」


 ふんわりと、花のお母さんが緊張を緩めた気がした。


「ただ、仲が良いよね、って思っただけなの。うちの花圃、男性恐怖症だって思っていたんだけどね。ほとんど、距離がゼロじゃない?」


 言われて、はっと気付いた。

 バスの中で距離感のまま、今に至っている。バスを降りてからも、花は迷子になるのはイヤだと、上着の裾をずっと引っ張られていたのだ。俺達、感覚が麻痺しすぎだった。


「は、花。あのね、今はちょっと離れようか?」


 意味が分からないとばかりに、コテンと首を傾げて――それから、むしろもっと、肩が触れるくらい近く、花は俺に寄り添ってくる。


(だから、距離が近い! 近いって! 鉄の聖母様はどこにお出かけしちゃったのさ?!)


「これは、どうやって花圃と仲良になったのか、しっかりお話をしてもらわないとね。よろしく、秋田君?」


 花園母の視線が怖い。怖すぎる。

 俺はただ口をパクパクさせるしかなくて――言い訳の一つも思い浮かばなかった。






「しゅー君と仲良くなったきっかけ? えっと……私の下着を見られちゃった時かな? それとも、裸の私の背中を見てもらった時かな?」


 そう言って首をかしげる。


 温度が――この一帯の温度が、急激に下がる。

 お願い、花! 君はちょっと、黙って! 本当に静かにしていて!




 秋田朱理、17歳。

 クラスメートの母に、あらぬ嫌疑をかけられる寸前で――世の中の無情さを感じた瞬間だった。






 祇園精舎の鐘の声。

 諸行無常のひびきあり。



 どうしてか、平家物語の冒頭がリフレインして。




________________



【作者メモ書き】

失語症は、思ったように話せない他

聞いた言葉を、思うように変換できない等の症状が出現します。

本当に、当たり前の生活が、病気や障がいで

過ごしにくくなる。


その一方で、偏見ない心のバリアフリーがあれば

過ごしやすさが変わってくる。


そんなことを考えてしまう、今日この頃です。

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