じゅうっ。


 ――朱理、何があったのさ?

 ――ダメなの?


 ――いや、ダメじゃないけどさ。やっぱり、気兼ねする?

 ――ずっととは言わないから。父さんと相談をして、ちゃんと次が決まったら、すぐに出て行くから。


 ――いや、ウチは良いんだけどさ。朱理ならむしろ大歓迎だから。でも、朱梨あかりちゃんとお父さんには、ちゃんと言っておいてよ?

 ――了解。


 フリック、フリック。タップ。そしてフリックして、タップ。メッセージを送信したことを確認してから、スマートフォンを放り投げる。俺はカーペットに体を投げ出すように、横になった。


 宴会場として場所を提供してもらった、保育園のプレイルーム。いわゆるお遊戯室だった。意外にカーペットがフカフカで、別にこのままでも寝られるな、って思ってしまう。


 キャリーバッグはそのまま、放り投げたままで。

 何もする気力もわかない。

 今も目に花園の表情が焼き付いて。


 ――花花はなはなちゃん、男の人が苦手で。


 海崎の言葉を思い出す。

 多分、それだけの問題じゃなかった。きっと、花園に無理をさせてしまったんだと思う。そもそも、保育園暮らしなんてムリだったのだ。


 眼底の奥底にまで、色濃く塗られた感情。

 明らかに、俺を見て怯えていた。


 怖がられるのは慣れている。

 仲良くなる――おこがましいって思うけれど。でも、せめて普通に話すことができたら、って。一瞬でもそんなことを思った俺はバカだった。


(期待なんか、しない方が楽だった)


 そう思う。世の中、張られたラベルが全てなのだ。見かけ、外見、第一印象。別に自分の心根が清いだなんて、そんなこと思わない。でも、どう思っても、どう考えても、結局、見てくれで人は判断をする。ただ、それだけ。そんなのイヤというほど、思いしらされてきたのに――。


「お兄、起きてる?」


 ひょこっと顔を覗かせたのは、朱梨あかりだった。


「見ての通り」


 ニッと笑って、顔を上げた。本当に俺、上手に笑えるようになったなぁって思う。


「布団、持ってきたの。使って良いって花圃かほちゃん先輩が言ってくれたから」

「サンキュー」


 無理して布団を抱えてきたんだろう。朱梨は体をフラフラさせるので、慌てて布団一式を受け取った。


「……本当は、花圃ちゃん先輩が謝りたいって、来たがっていたんだけど――」


 朱梨が口を噤むのを見れば、花園がまるで落ちついていないことを察する。


「朱梨は花園の事情、知ってるの?」

「う、うん……。一応は……」


 濁す。いつもの朱梨なら、思うことがあれば、ストレートに言ってくる。その朱梨が言葉にすることを躊躇うのだ。相応の理由を、花園が抱えているんだと思う。俺は、小さく息をついて、布団を敷き始めた。


「……お兄、理由を聞かないの?」

「言いにくいから、朱梨は、言えないんでしょ?」


「そ、それはそうだけど――」

「本人が、じゃなくて。第三者が言うのはフェアじゃないって思うから。だから無理に朱梨が、言わなくて良いよ。そんなの朱梨が辛くなるだけじゃんか」


 そんな俺の言葉を聞いて、朱梨はほんの少しだけ安堵の息を漏らす。


「あのね、お兄! 花圃ちゃん先輩は、別にお兄が嫌いなワケじゃなくて――」

「うん、分かってる」


 分かっている。分かっているつもりだ。どうせ、いつだって俺はそんな目で見られる。もう慣れた。当たり前のように接してくれる、黄島達の方が明らかに変なんだって思う。変な期待なんか寄せない方が最初から楽だったんだ。


「お兄……」


 朱梨の方が、なんで泣きそうな顔になっているのさ。俺は、朱梨の髪を無造作に掻き回した。


「ちょ、ちょっと、お兄?!」


 慌てて、手櫛で髪をセットし直す朱梨の反応に、思わず笑みか零れる。子ども扱いするなと、頬を膨らませている。うん、そんな反応が我が妹には、ピッタリだった。


「俺は、何も気にしてないから。だから、花園の傍にいてあげて」

「う、うん……」


 心残り。そう言いた気な朱梨の視線に、俺は背を向ける。キャリーバッグからパジャマを取り出す。これで、この会話はお終い。そう朱梨に態度で示す。そんな俺を見て、朱梨は小さく息をついた。


「……お兄、お休み」

「うん、お休み」


 敷いた布団に、ごろっと横になる。家だったら、本でも読むところだが、ココには何もない。


 改めて、燃えて何もかもなくなってしまったことを実感した。


 スマートフォンが残っているのがせめてもの救いか。写真アプリを見ないと、母さんの顔も思い出せなくなっている。目を閉じるれば、あの時の炎が至近距離で燃えさかる。灰が舞い上がって。思い出を埋めていく。


 自分でも薄情だなって思うけれど、こんなにも、あっさりと思い出せない。みんなが言うように、悪魔なんだよ思う。自分を、否定する言葉が見つからないのだ。



 『あいつ本当に悪魔です! 血も涙もないって、こういうヤツのことを――』



 あかりを虐めたヤツを返り討ちにした時だった。自分がしでかしたクセに、教師に泣きついたんだ。俺は言い返すこともバカらしくなって……。


 ――朱理がそんなことをするワケないでしょ?


 そう言ってくれたのは、黄島だった。


 目頭が熱くなる。今になってそんなことを思い出さなくても、って思うのに。今日はちょっと、冷静じゃない。バスケ部を抜けて、もうだいぶ経つのに、黄島もキャプテンもまるで変わらなくて――。


 ふと、本棚――目についた絵本に手をのばす。聞き慣れた昔話。初めてお使いに行った女の子の話、ネズミ一家のスローライフな日常。破天荒な友達に手を焼く犬君の話。知っている話も知らない話もあって……。


 寝ながら、読み進めているうちに、睡魔に誘われるたの自分でも分かった。布団がほんの少しだけ、甘い匂いがするのは何でだろう。甘い香に包まれて――。



『ねぇ、シュリ。絵本、読んであげるね?』


 意外にも、母さんの声音を忘れていなかったらしい。

 絵本は、絵でストーリーを理解できるから。

 母さんも、理解がしやすかったんだと思う。

 そういえば、って思う。母さんの膝で、ずっと絵本を読んでもらっていたっけ。


 ――桃太郎さん、桃太郎さん。

 ――お腰につけた

 ――ドロ団子

 ――1つ、私にくださいナ。


 どこをどうやったら、キビ団子とドロ団子を間違えるんだろうか。思い出して、笑いがこみ上げてきた。


 そういえば、って思う。


 母さんは時折、1ページ先の文章を読んでいたのだ。絵と文章が釣り合ってないシーンを見させられることも、しばしばで。それすら本当に懐かしいと思ってしまう。

 結局、母さんに訂正してあげる機会は、永遠に失ってしまったけわけだけれど。





 そんなことを思っていたら。

 欠伸が幾度となく漏れて。

 瞼が、

 自然と、

 落ちていた。






■■■





 音で目が覚めた。



 チョキチョキ、トントン。

 そんな音がして。


 スマートフォンを見れば、まだ23時をほんの少し過ぎたあたり。どうも、眠りが浅かったらしい。環境も変わったし、終始賑やかで――そして、目まぐるしかった。

 プレイルームから廊下に出ると、教室のなかで作業をしていたのは花園が、硝子越しに見える。ハサミを手に取り、一心不乱に作業をしていた。と、花園が顔を上げる。慌てて、俺は腰を落とした。


「……ん? 気のせいかな?」


 また作業に戻る。廊下の窓が光で反射するのか、合わせ鏡のように、教室内の花園が見える。見えにくいが、多分、壁面製作をしているように見えた。宴会のあと、精神的に消耗したと思うに、花園コイツはそれでも、園児のことを考えているのだから、恐れ入る。


「明日のお誕生日会に間に合わせないと、がんばらなくちゃ」


 小さく息をつく。


「……集中できないなぁ……明日ちゃんと、謝ろう――」


 またため息が漏れて。

 別に花園がそこまで思いつめる必要なんかないのに。


「……吹っ切ったって思ったのになぁ。しゅー君と、あの人を重ねるの、そんなの違うのに」


 な、な、何を言って。思わず、声が漏れそうになった。

 顔が熱い。


 花園の過去ムカシになにがあったのか。そこは詮索すべきじゃないって思う。でも、それよりもだ。


(なんで、しゅーちゃん呼びが普通になってんだよ?!)


 口をパクパクさせて、思わず声が漏れそうになった。


「ん? 何か音がした――けど、気のせい?」


 慌てて、自分の口を押さえる。覗き見にも等しい。今の俺には後ろめたい感情しかなかった。でも幸い、花園は俺に気付かず、作業に戻ったようだ。


「あとちょっと、がんばろー!」

 そんな気合いをいれる声が園舎に響いて、俺は安堵の吐息と――苦笑を漏らす。


(やっぱり、鉄の聖母様。そんな表情カオするんだな)


 硝子越し見える、そんな花園の表情に見惚れて――そんな自分の感情がワケ分からなかった。


 



■■■





 とっとと、寝れば良いのに。俺は何をやっているのだろうと、自問自答する。でも、あれだけ集中をしているのだから、きっとバレることはないだろう。先ほどの宴会で余ったご飯を冷蔵庫から取り出す。これを有効活用させてもらおうって思った。


 醤油、みりんでたれを作る。みりんは風味付け程度で良い。そこに俺は和風だしをふりかける。これに、残ったご飯にぶっこむ。

 後は、おにぎりのカタチに整えて、フライパンでゆっくり焼く。いわゆる、焼きおにぎりである。


 女子に炭水化物を夜食として出すのも怒られそうだが、これくらいは許し欲しいと思ってしまう。だって、他にどうしようもなかったのだ。


 本当は、花園を手伝ってあげたい。

 でも、それは無理だ。


 花園は、男に対してトラウマを抱いている気がする。

 そんな状況なのに、彼女は秋田朱理に必死で向き合おうとしてくれた

 だったら、やはり俺は保育園ココにいるべきじゃない。そう思ってしまう。

 香ばしい匂いがしてきた。

 花園を手伝ってあげたい。一瞬、そんな感情が芽生えた。


 でも、無理だ。

 多分、そんなことをしたら、また彼女を怯えさせてしまうから。


 それならせめて「頑張ってるんだな」ってメッセージを送りたい。「お疲れさん」って、そんな言葉でも良い。頑張っている花園を見てしまったから。


 完成した焼きおにぎりは、ラップをして廊下に置いた。


 どうせ、これすら余計なお節介だけど、もう言葉を交わすことは無いから。

 俺は音を立てないように、廊下を歩いた。












 ――秋田君、本当に美味しいです!



 宴会の時に興奮して、まるで子どもみたいに、ブンブン腕を振る花園を思い出した。思わず笑みが溢れる。そして、そうかって思ってしまう。もう「美味しい」と言ってくれる人は、朱梨あかり以外にはいないんだ。


 ――シュリのご飯は、本当におしい。


 うん。母さん、それは「美味しい」だから。

 でも、そう言い返すべき人はもういない。

 その思い出のつまった場所すら、もう無い。


 音をたてないように歩く。

 誰にも気付かれないように。

 誰にも、何も言われないように。


 アタッシュケースに荷物を詰める。

 朝になったら、一番でココを出られるように。




 ――しゅー君と、あの人を重ねるの、そんなの違うのに。


 静かにしようと思えば思うほど。音をたてないように。そう思えば思うほどに、どうしてか、花園の声が耳の奥底に響いてきた。

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