第56話 タイムリミット


(真っ黒カラス!)


 相手が王太后の部下だとわかった途端、今まで遮断されていた音が聞こえてきた。

 あちこちで悲鳴を上げる侍女の声。

 剣戟の音。

 わめく王の声。


 広間はこんなにも騒がしかっただろうかと思いながら、脇腹の痛みまでが消えていることに気がついた。

 珠里しゅりの呪詛が消えたのだ。そのことに勇気づけられて、槍の柄を握る手に力を込める。


 相手は黒ずくめの武人────夏乃が裏切ったらその命を取ると言っていた男だ。力による攻防では明らかに夏乃が不利だった。

 刃の食い込んだ剣を槍の柄から外すことを諦めたのか、霧夜は柄をへし折る勢いで押して来る。それを押し留める夏乃の手はプルプル震えている。


 このままでは本当にへし折られてしまう。そう思った時、どこかから「引け!」という珀の声が聞こえてきた。

 その声に従うべく、夏乃は反動をつけて槍の柄を手放し後ろへ飛んだ。

 霧夜きりやも、槍の柄ごと剣を捨てる。

 夏乃と霧夜の間にぽっかりと空いた空間に、珀が体を滑り込ませてくる。彼はどこからか調達してきた槍を霧夜に向けている。


「夏乃」

 後ろから名を呼ばれ、ぎゅっと抱きしめられた。

「あとは珀と冬馬に任せろ」


 耳元で囁かれて前を向けば、冬馬が珠里を捕らえようとしているのが見えた。


「王太后の侍女は呪師ですよ!」

「大丈夫だ。冬馬は精神攻撃には強い。実際に毒を仕込まれてなければ大丈夫だ」

「そう、ですか」


 月人の腕の中に納まったまま、夏乃は広間の中を見渡した。

 行灯あんどんの光が増えた広間には、無残に蹴散らされたお膳が散らばり、壁際には、身を寄せ合って難を逃れた王と王妃や侍女たちがいる。

 広間の中央にはまだ戦ってる者もいれば、傷を負って倒れている兵士もいる。


(王太后は……いない)


 きっと騒ぎが起こる前に撤収したのだろう。そもそも、一斉に明かりが消えたのだって彼女の命に違いない。

 背中に月人の温もりを感じながらぼんやりしていると、胸の辺りから音がした。


『────つのさん? 夏乃さん、聞こえる? 凪蒼太なぎそうたです』


 首から下げた通信機から声が聞こえている。夏乃は慌てて胸を押さえた。


『今から鎮静作用のある煙を撒きます。夏乃さんは吸い込まないようにしてください。もう少ししたら迎えに行きます』


 蒼太の声を聞いて、夏乃は青ざめた。


(よりによって、月人さまが近くにいるときに!)


 怖くて後ろへ振り返れない。


「今の声は何だ?」

「月人さま……」


 肩ごしに月人に振り返ると、険しく細められた月人の瞳が夏乃を見下ろしている。


「そなたの名を呼んでいた。相手は誰だ?」

「あたしの……国の人です。都見物の途中で、偶然会いました。悪い人じゃありません。その人たちは、あたしの国とこの国の目に見えない国境を守る人たちなんです」


 この期に及んで言い訳は出来ない。夏乃は体をひねって、正面から月人の顔を見上げた。

 形の良い眉も、切れ長の目も険しいのに、すみれ色の瞳はどこか悲しそうな色を纏って夏乃を見つめている。


(お願いだから、その目で見ないで!)


 夏乃は、月人のこの瞳にめちゃくちゃ弱い。


「帰るのか?」

「……はい。黙っていて、ごめんなさい」


 俯いたまま夏乃は頭を下げる。暁や蒼太に居所を知られてしまった今、もうここに止まることは許されない。


「そうか」


 月人の声はとても悲しそうだった。

 顔を上げられないまま俯いていると、庭の方から白い煙が漂ってきた。篝火が消えた時の煙とは違い、煙臭くはない。

 白い煙が広間全体に広がってゆくと、戦っていた兵士たちは動きを止めて静かに座り込んでゆく。


「夏乃、口を塞いでおけ」


 月人が夏乃の口に布を押し付けてきた時、霧の中に人影が現れた。黒い上下に黒いマスクをつけた男、時空管理官の蒼太だった。


「凪……さん?」

「夏乃さん、時間です。あなたを元の場所に戻します」

「クラッシャーは?」

「向うで暁が捕まえた。ここに居る人は、後で記憶を消去されます」

「そう……ですか」


 夏乃が蒼太の方へ一歩近づこうとすると、月人の腕がそれを押し留めた。


「私には、話を聞く権利があるはずだ」

「月人さま……」

「この人、口を塞いでないのに、薬が効いてないね」


 蒼太がポケットから何かを取り出そうとする。


「待って。あたし着替えなきゃいけないし、少しだけ月人さまと話をさせて!」

「えっ?」


 蒼太は驚いたように夏乃と月人を見比べたが、ややあってうなずいた。


「…………わかりました。出来るだけ手短にお願いします」

  

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