月魄を恋う ~初めて恋した人は異界の王弟でした~

滝野れお

プロローグ 記憶の空白部分


 ヒュンッ、と白木の棒が空を切る。

 道場の冷たい空気を震わすこの瞬間が、夏乃なつのは一番好きだ。


 古武道のひとつである棒術は、剣道とも槍術とも似ているようで違う。

 戦場で刃を失くしても残った柄だけで戦えるように考案された術だというから、きっと諦めの悪さを満載した戦場の武術なのだろう。

 決められた型を一通りこなすと、汗が噴き出してくる。

 いつもなら爽快な気分で終える道場の朝練だが、最近の彼女はグダグダだった。


(はぁ~)


 師範の祖父に見つからないように、こっそりとため息をつく。

 ここ数日、夏乃は寝不足だ。ちゃんと寝ているのに、夜毎襲ってくる夢に翻弄されて、夜中に何度も目覚めてしまうのだ。


 見たことのない風景。

 さらさらで艶やかな絹糸のような銀の髪。

 極めつけは、目の前に迫る紫色の瞳だ。


(はぁぁぁぁぁぁ~)


 夢の中に出てくるイケメンにドキドキして寝不足だなんて、誰にも言えない。

 十七歳になるこの年まで、アイドルに夢中になった事もなければ初恋もまだ知らない。幼馴染には枯れ女だと揶揄われるほど、夏乃は異性に興味がなかった。

 それなのに────。


 汗を拭きながら周りを見回すと、春の薄ら寒い早朝の道場には、出勤前のサラリーマンや春休み中の学生たちが汗を流している。みんなの表情は真剣で、夏乃のように煩悩まじりのやつなど一人もいない。


(あたしも、もっと真面目にやらなくちゃ!)


 片方の手をグッと握りしめて自分に気合を入れているうちに、気がつくと、道場の時計が七時半を指していた。

 慌てて道場裏にある自宅に駆け戻る。

 夏乃の家族は、師範をしている祖父ひとりだけだ。幼い頃に両親を事故で亡くし、祖父母の家であるこの道場に引き取られた。祖母が亡くなってから、家事の一切は夏乃の仕事だ。


 稽古着から制服に着替え、長い髪をポニーテールにして台所に立つ。

 大根を千切りにして味噌汁を作る。ご飯はもう炊けているし、あとは目玉焼きに昨日の残り物を温めなおすだけだ。

 いつもこのパターンだが、美味しくても不味くても祖父は何も言わない。


「たまには、ひと言くらいあっても良いと思うのになぁ」


 ついつい愚痴をこぼしながら、夏乃はささっと朝食を済ませて家を出た。



「夏乃さん、春休みなのに学校ですか?」


 道場の前を通り過ぎようとした時、朝稽古を終えた青年が汗を拭きながら声をかけてきた。


「はい。今日は図書当番なんです。じゃ、行ってきます!」


 軽く会釈をして通り過ぎた時、道場の影からぴょこんと遥香はるかが現れた。


「ねぇ、今の人、誰?」


 遥香は近所に住む幼馴染で、夏乃と同じ高校に通っている。春休みだというのに彼女も部活のジャージ姿だ。


「あの人は去年の暮れに入門した、凪蒼太なぎそうたさんっていう大学生だよ。暇なのか、よく朝稽古に来るんだ」

「へぇ、カッコイイね。でも入ったばっかりじゃ、腕はまだまだだね」

「いや強いよ。あの人、経験者みたい。おじいちゃんも強いって言ってたよ」

「ふーん、気になるなぁ」


 並んで歩きながら、遥香は意味ありげな視線を夏乃に投げかける。


「遥香、今日は陸上部?」


「うん。夏乃は図書当番でしょ? 真面目に委員会の仕事するんなら、夏乃も何か部活やればよかったのに。もうすぐ三年だから今更だけど、道場のことばっか考えてないで、夏乃も恋とかしなよー。あたしら高校生だよ」


「いや、別に、恋とか興味無いし」


 畳みかけてくる遥香に、夏乃はいつものように苦笑いを浮かべたのだが──その瞬間、ツキンと胸の奥に不思議な痛みが走った。

 慌てて胸を押さえ、痛みが遠くなるのを待つ。

 歩いているだけなのに、やけに鼓動が速い。


「うーん。でも、なんかさぁ……夏乃、変わったよね」


 遥香がしみじみと夏乃の顔を見つめる。


「えっ、そう?」


「うん。去年の秋頃かな、ほら、生徒手帳なくしたって言ってた時あったじゃん。あの頃から、なんか柔らかくなったなぁって思ってたんだ。前のあんただったら、さっさと生徒手帳再発行してもらって、わざわざあたしに言ったりしなかったよね」


「そうかなぁ?」


 夏乃は首をかしげた。遥香の言う事はどうもピンと来ない。


「ね、何かあったの?」

「別に、何もないけど」

「ない訳ないっしょ。好きなヤツでも出来た?」

「いや違うって」


 バシバシと肩をぶつけてくる遥香に苦笑してしまう。


(遥香に、話してしまおうか?)


 そんな気持ちが浮かんでくる。

 この所の煩悩のきっかけとなった出来事を打ち明けたら、彼女は何て言うだろう。笑うだろうか。

 例え笑われたとしても、こんなバカな話を打ち明けられる友達は遥香しかいない。


「────実はさ、机の引き出しから、見たことのない首飾りが出て来たの。それを見つけてから、時どき、何か変な気持ちになるんだ」


「変な気持ちって? その首飾り、お母さんの形見とかじゃないの?」


「いや、普通のお店に売ってるようなネックレスじゃないの。きれいなんだけど、ものすごーくアンティークな感じなの」


 例えるなら古代の遺物。薄緑色の管玉が連なった首飾りの中心に、存在感のある透き通った紫色の石が収まっている。


「へぇ。で、変な気持ちってのは?」

「悲しい感じ、かな?」

「ふーん。確かに気になるね。それ、いつ見つけたの?」

「一週間くらい前」


 祖父に訊いてもきっとわからないだろうし、万が一取り上げられたら嫌だ。

 不思議なことに、夏乃はあの首飾りを絶対に手放したくなかった。




(あたしは、何か大切なことを忘れてるのかも知れない)


 夏乃には記憶の空白部分がある。

 去年の夏休みに事故に遭い、一か月以上眠り続けていたらしいのだが、夏乃には事故の記憶が全くなかった。目覚めた時には怪我の痕すらなくて、狐につままれたような気分だった。

 普段の生活に戻るとそのこと自体を忘れてしまっていたけれど、あの首飾りを見つけてから少しずつ違和感を覚えるようになった。


(記憶の空白部分とあの首飾りは、きっと繋がってる)


 そう思うのに、どんなに首飾りと睨めっ子しても、失くした記憶の欠片すらつかめない。

 その代わり、銀髪のイケメンが夢に出てくるようになった。


「はぁ~」


 学校の図書室で、返却された本を書棚に戻しながら、夏乃は窓際の棚の上に本を置いてため息をついた。

 ぼんやりと窓の外を眺めていると、校舎の裏側にある小道を、海へ向かって下りてゆく人影が見えた。


 夏乃が通う緑が丘高校は、海を見下ろす高台に建っている。

 周りの海岸線は岩ばかりなので、残念ながら海では遊べない。何年か前までは学校の敷地から岩場に下りてゆく細い道があったのだが、事故が続いたことで封鎖されてしまった。


(あの人、立入禁止の海岸に下りるつもりだ!)


 止めなくちゃ。

 夏乃は勢いよく踵を返して駆け出そうとした────が、寸前で足が止まった。


(あれ……前にも、同じことがあった?)


 猛烈な既視感と共に、おぼろげな記憶が蘇ってくる。

 記憶の中の夏乃は、人影を追って立入禁止の看板を越えた。

 急な小道を海まで降りると、岩の海岸は潮が引いたばかりなのか、露わになった岩がつるつる滑って夏乃は転びそうになった。


 何とか踏み止まり、体勢を整えて顔を上げる。

 岩と岩の間に、天井が抜けた洞窟のような場所があった。

 太陽の光が差し込むその場所に、見知らぬ若い男が立っていた。


『ここは立ち入り禁止です。戻って下さい!』


 記憶の中で、夏乃がそう声をかけると、男は驚いたようにこちらを向いた。

 次の瞬間、突然、爆発でもしたかのような真っ白い光が辺りを覆い────。



 蘇ってくる記憶の洪水。

 夏乃の頭がズキンと痛んだ。


「うっ……」


 図書室の中で膝をついた夏乃は、そこで意識を手放した。

  

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