僕とアネモネ先生。part1
朝から昼へと時間が移り始める頃、僕たちの一日で一番忙しい時間はようやく終わる。
パーティーやお葬式など、催し物がある家から家へと、注文されている花を納品して回るのが、僕の今日最後の力仕事。まだ品出しと陳列をする必要はあるが、それくらい軽いもの、お客さんと会話をしながらできる楽しい仕事だ。
しかも、お客さんだって別にひっきりなしに来るわけじゃないから、店舗の少し奥にある商談コーナー(キッチリとした商談をしに来る人なんて滅多にいないから、ただの休憩所になっている)で、お茶でも飲みながらボンヤリしているのがいつものことだ。
「いえいえ、そんなに貰っちゃ悪いですよ……! え? そう? ホントにいいんですか? じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな~」
少し遠くから、よく通る澄んだ声が聞こえてきた。
瞬間、僕はガタッとイスから立ち上がる。
この時を今か今かと待っていた。危うく花瓶を蹴飛ばしそうになりながら慌てて店先へ出て、『テキパキと』仕事に取りかかる。
特に意味もなく花瓶の角度を変えたり、少し横にずらしたりしていると、先程の声の主である女性が、右隣にある喫茶店の角から姿を現す。
それは――白衣を纏った女神。腰ほどもある金色の髪をさらりと風に揺らすその姿は、まるで絵画の中から出てきたかのよう。
彼女は、アネモネ・ロス先生。
一年ほど前から近所で診療所を開いているお医者さんで、街の皆からは『先生』と呼ばれて慕われている。
その芸術品のように整った顔には、常に品の良い穏やかな微笑が浮かんでいる。陽射しを集めたように輝く金髪と相まって、その纏う雰囲気は聖母のように温かだ。
背は僕よりも頭一つ分高くて、しかも、まあ、その……あまり見過ぎるのもどうかと思うので直視はしづらいけど……まさしく聖母のごとく胸もかなり大きい。白衣の下には赤茶色をした膝丈のワンピースをよく着ているのだが、その胸のふくらみは白衣から大きくせり出してしまっていて、自然と目が吸い寄せられてしまう。
そんな、女神としか言いようがない美と包容力の化身――それがアネモネ先生だ。
言い表すなら、まさしく『完璧な人』。
美人で、頭がよくて、医者という大変な仕事を立派に果たしている。そんな人なら、どこか周囲を見下すような性格をしていそうなものである。が、先生にはそんな所は一切ない。
先生はいつだって優しく、思いやりの心に溢れている。それは、彼女に一度でも診察をしてもらったり、話し相手になってもらった人間なら誰だって知っている。子供からお年寄りまで、みんな先生のことが大好きだ。先生を悪く言う人なんて、本当に一人も見たことがない。そんな奇跡のような人だ。
今も、野菜や果物など、一人では食べきれないであろうたくさんの食べ物が入った袋を両手いっぱいに抱えている。この辺りを歩いていると、商売人だろうと一般人だろうと、あらゆる人から品物やら余り物やらを譲り受けてしまうのだ。先生の人望がどれだけ篤いか、この姿を見るだけでも解るだろう。
そして、そんな先生の姿を見る度に、僕の胸は高鳴り、同時に少しだけ苦しくなる。
ああ、この綺麗なアネモネ先生の姿を、あの魔道具で記録することができたらどんなに幸せだろう。あの清らかな笑顔をずっと綺麗に残すことができたなら……。
でも、そんなことはできない。できるわけがない。
だって、あれは誰にも知られるわけにはいかない、僕だけの秘密だから……。
そんなことを思いながら、店のすぐ近くまでやってきたアネモネ先生に、まるでいま気づいたふうを装って僕は挨拶をする。
「あ、おはようございます。アネモネ先生」
「おはよう、ロッジくん。今日も朝から忙しそうね」
「はい、おかげさまで……。先生も元気そうで何よりです」
「ふふっ、こちらこそおかげさまで」
そうにこりと目を細めて、「あ」と先生は店先に並んでいたとある花に目を留める。
「紫のリモニウム、凄く綺麗ね……」
「先生、この花が好きなんですか? じゃあ、いくつかあげましょうか」
「い、いいわよ、そんな。もう色んな人からこんなに貰っちゃってるし」
確かに先程も言った通り、先生の両腕は既にいっぱいの荷物で塞がっている。迷惑になるかもしれないし、あまり押しつけるようなことをしては悪いだろう。
そうですか、と僕は引き下がって、それから店の奥にいたリナに向かって大きな声で言った。
「おーい、リナ! アネモネ先生が来てるよ!」
と、二階からドタドタと階段を降りてくる音が聞こえて、慌てた様子でリナが姿を見せる。
「お、おはようございます、師匠(マスター)!」
「おはよう、リナちゃん。――でも、『師匠(マスター)』って呼ぶのはやっぱりやめてほしいかな……」
先生は困ったように笑う。けれど、リナはあくまで真剣な顔で、
「いえ、でも師匠(マスター)はウチらより全然大人ですから。色んな恋愛をして人生経験豊富だし……やっぱり師匠(マスター)はうちらの『恋愛師匠(マスター)』です!」
いつもは生意気なのに、僕に対する態度とはえらく違う。まあ、いつものことだからもう慣れたけどさ。
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