第10話 増長
劉玄の即位は一部の者を喜ばせたが、「劉縯ではないのか」と多数の者を失望させもした。
この時期、皇帝即位と直接に関係はないが、劉縯の人望をあらわす一つの逸話がある。
甄阜らを破り、苑を攻略中とはいえ、劉縯が明言した通り彼らの支配圏はまだ微々たるものである。それゆえ苑を包囲するのとは別に近隣の土地を鎮撫しにいかなければならなかった。
だが中には更始軍に不安を持ち、降伏を拒む場所もある。平林軍後方の一部隊がそのような県の一つである
「劉司徒が暴虐をはたらかぬと約してくれるなら
他の者では無理だが劉縯の約束なら信用できる。宰はそう告げたのである。
それを聞いた劉縯は苑攻略を一時別の者に任せ、自ら一軍をひきいて新野へ赴き、宰に安全を保証すると、城門はすぐに開かれ新野は降伏した。
初期は大侠としての評判が先立ち民に恐れられていた劉縯だが、この頃は名将あるいはそれ以上の存在として認知されはじめていたのだ。
五月、ついに苑は陥落した。更始政権は確かな根拠地を得たのである。
そして実質総司令として粘り強い指揮を続けた劉縯は、さらに武名を輝かせたことになる。
が、それから一月もたたない六月、彼をしのぐほどの武名をとどろかせた男がいた。
劉秀である。
彼は苑にほど近い
「叔がか! たいしたものだ」
その報は劉縯を真正の笑顔で驚かせた。もし劉縯が狭量な男であれば、たとえ弟であっても――むしろ弟であればこそ――巨大すぎる武勲を立てた劉秀に嫉妬や警戒をするところだが、彼の心情にも表情にもそれらの色はなかった。劉仲亡き今、もう一人の弟にこれほど将才があったことを喜ぶだけである。
「王莽打倒も遠い日ではないぞ」
劉縯の手は長安にいる王莽へ、徐々に届き始めていた。
だが彼らの武勲や名声を喜ばない者たちもいる。更始帝と彼の側近(首領たち)である。劉縯だけでも脅威であるのに、彼の弟までもが名将だと知れたのだ。実力も人望もある劉兄弟が協力して更始陣営を追い落としに来たとき、抗しきれる自信は彼らにはなかった。そうなれば彼らの思案の行きつく先は一つしかない。
「今のうちに殺すか」
更始帝と側近たちは劉縯暗殺の計画を練り、諸将の親睦を深める会で実行することにした。
「大司徒、そなたの剣は宝剣と聞いた。よければ
座もにぎわい、場もなごんできた頃、更始帝は劉縯に声をかけた。その声は親しさを装っていたがわずかにうわずり、表情はこわばっている。更始帝は即位式のときも、台上に立ち、並み居る将兵を前に小心をあらわにし、震えてまともに言葉を発することもできない男だった。族弟を暗殺するという陰謀に平静でいられるはずもなく、この程度の
「もちろんにござる」
劉縯もそんな更始帝にわずかに違和感をおぼえたが、特に警戒することなく剣を鞘ごと手渡す。
「……」
これで劉縯は丸腰である。この時を狙って更始帝は劉縯を誅殺する命令を発する予定であった。あるいは手にした剣を抜いて彼自身が劉縯を誅する企てであった。
だが更始帝は何も言わない。何も言えない。蒼ざめた表情で黙り込むだけである。
その理由は彼の周囲にいる側近たちには明白だった。緊張と恐怖のあまり声も出ないのである。
「陛下、どうぞこちらも献じさせていただきます」
と、側近の一人である
結局、更始帝は声を出すことも行動を起こすこともできず、会は表面上つつがなく散じたが、帰途、樊宏は劉縯に近づくと小声で甥に注意をうながした。
「気をつけよ伯升。おぬしも
鴻門の会とは、楚漢争覇戦における項羽による劉邦暗殺未遂事件のことである。劉邦を危険視していた項羽の軍師・范増は、合図の玦を掲げて何度も項羽をうながしたのだが、劉邦を見下していた彼は無視し、結局逃がしてしまったのである。申屠建の献じた玉玦は、劉縯へ暗殺命令を発する合図だったかもしれないのだ。
だが劉縯はそんな
実は劉縯もそのことは気づいていた。その上で更始帝たちをあらためて測ったのである。自分を害する意図があるのか。その意思は本物なのか。本物だとして実行できる度胸と器量はあるのか。
結論は出た。
「あの者たちには無理だな」
舅への好意的な笑いは更始帝たちへの失笑の裏返しであった。更始帝はもとより、その周囲にも真の人材はいない。
それを劉縯は見切ってしまったのである。
だがこれは危険な徴候でもあった。小長安大敗からの緊張で押し隠されていた劉縯の増長が、立て続けの勝利と成功により顔を見せ始めていたのだ。
これは劉秀の忠告に対しても同様だった。
「兄上、
李軼は劉縯が挙兵したときからの仲間だが、今は更始帝におもねるようになっている。更始帝陣営に劉縯に対する害意がある以上、これまで通り李軼を信用するのは危険だった。
だが劉縯は意に介さない。
「案ずるな、叔」
と笑うだけで、軽く弟の肩を叩いて歩み去ってしまう。
その後姿を見送りながら、劉秀は深く息をついた。
「仲兄上がいてくだされば…」
劉縯は昔から、劉仲の言うことだけは素直に聞き入れていた。それは挙兵後も変わらず、また劉縯の至らぬところを補完するために劉仲ほど気を使ってきた者もいなかった。
劉秀は自らが劉仲ほどの信頼を得られていない不明をふがいなく思いながら、亡兄の存在の大きさを痛感していた。
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