第10話 事情

「えー……ほんとにこんなこともわからないわけぇ……」

 絵美子が退院してきた翌日の金谷家である。

 父宏和は会社に、弟翔真は小学校に行って留守だ。

 現在、つけっぱなしのテレビのニュース番組の上部に表示されている時刻は、八時四十分。

 現在不登校中の里奈は、記憶喪失中の母にトーストの焼き方と、インスタントコーヒーの淹れ方を教えた。

「飲み込みは早いけど、ほんとに基礎から抜け落ちてるのよね……電気とかガスとかさ……そこまで忘れる?」

 里奈は自分の分のトーストを齧りながら、コーヒーを口にして顔を歪める母絵美子を眺めていた。

「……もしかして、コーヒーの好みも変わっちゃったわけ? 前はブラックじゃなきゃ絶対イヤって言ってたのに……」

 里奈は立ち上がって冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。

 その真横に立つ絵美子。

「うわっ、近いよお母さん! え? なに、冷蔵庫の中そんなにじろじろ見て」

「すごい……冷たいです……こんなに大きな箱の中をどうやって冷たくしているのですか? 見たところ、大きな氷も見当たりませんし」

 ……ほんとに、この喋り方も調子が狂う原因の一つなんだよな。

「電気だよ、ほら横からコンセント出てるでしょ? さっきも説明した」

「ああ、デンキですね! さっきのと同じ!」

 にっこりと嬉しそうに微笑み、うんうんと頷く絵美子。そして楽しそうに冷蔵庫を開け閉めしている。

「ねぇ、そんなに開けたら中のもの悪くなっちゃうからやめな?」

 里奈は呆れて絵美子に注意した。

「悪く……ですか……」

 冷蔵庫のドアに手をかけたまま、絵美子はポカンとした表情かおを里奈に向けた。

「そう! 腐るの!」

 絵美子からドアを攫うかのように、里奈は乱暴に冷蔵庫のドアをバン! と閉める。

「ああ、腐るんですね! それはいけません。お腹を壊してしまいますもの」

 そんな里奈の態度を少しも気にせず、絵美子はふふふと笑った。

「その笑い方さ……」

 里奈は思わず冷たい視線を絵美子に向ける。

「まるで、育ちのいいお嬢様みたいな笑い方して……ほんとに、こっちの方が気がおかしくなりそうだわ!」

 ぶつくさ言いながら、里奈は牛乳を絵美子のコーヒーに注ぎ、自分のコップにも注ぐと空になったパックの内側を水道水ですすぎ、ゴミ箱に入れた。

 その様を見てまたもや絵美子が目を輝かせている。

「水やお湯が蛇口やシャワーからでてくるのが、そんなに面白いかね?」

 昨日一緒に入った風呂でも、シャワー、洗顔、洗髪、そのどれもに感嘆のため息をついていた。

「はい! おもしろいです! デンキもスイドウも……こんなに便利な世界があるなんて、私知りませんでした! 私の国にも導入したいくらいです!」

「あのさ、お母さんの国はここだからね?」

 里奈は頬を引きつらせて言ったのだった。


「んじゃ、次は洗濯ね」

 朝食を終え、食器の洗い方を絵美子に教えた里奈は洗濯機の前に立った。

「洗剤はこのくらい、柔軟剤はこのくらい入れて……スイッチ押して終わり!」

 里奈が伝えた適当な流れ作業を、絵美子は食い入るように見つめている。

「今の、覚えた?」

「はい! ボタンを何回押したのかも覚えました!」 

「よし……じゃあ、次は買い物に行こう。今日の夜ご飯はカレーね」

ですか、昨日のも美味しかったです! この国のスパイスは素晴らしいですね!」

「塩コショウと、醤油、カレーはカレー粉ね……」

 お母さん、またこの国って言ってるよ……

「っとに、今流行りの異世界転生のアニメじゃあるまいし」

「私の場合は期間限定ですし、転生とは言えませんけれど……私があなたのお母さまと入れ替わっているのも、おそらくあと七日ほどではないかと思われます」

「ちょっと……やだ、なに冗談言ってるのよ!」

「冗談ではありませんよ。私はレミストリー王国の第一王女、エミリーです」

 眉間に皺を寄せる里奈に対し、絵美子はにこりと笑って言った。

「は?」

「私はある理由から、生きるのが嫌になってしまって……自ら命を絶とうと決意したのです。たまたま知り合った魔法使いのおじいさんにそう伝えたら、思い切る前に一度気晴らしをしてはどうかと勧められて……あ、こんな話信じられませんよね? いいんです、信じてもらえなくても……いずれ私は元の世界に戻り、あなたのお母さまもこの体に戻るのですから」

 すらすらと喋る絵美子を、里奈は真顔で見つめていた。

「ねぇ……なんで、死のうなんて思ったの?」

 里奈からの静かな問いかけに、絵美子はしばらくの間黙り込んでいた。

「私には、父が勝手に決めた婚約者がいるんです。隣国の第一王子で、ゆくゆくは王になられる方なのですが……」

 切り出した絵美子の表情は浮かないものだった。

「私は昔から彼に意地悪をされてきたので、彼のことを好きになるのは難しいことでした。私が生きる事に嫌気が差したのは、それだけが理由ではありません。私も兄も母も……父の政治の駒でしかない。私は、それが嫌になってしまったんです」

「現実に嫌気、か……まあ、それはなんとなくだけどわかる気がするよ……私はこんな便利なものに囲まれて生活してて、いじめられたわけでも暴力を振るわれたわけでもない……でも、それでも学校に行けなくなった……はっきりとした理由は、自分でもわからないんだ」

 里奈は目の前の絵美子の言葉を信じ切ったわけではなかったが、気づけば自然と自分自身の不登校のことを話していた。

「気晴らしをしても……向こうに帰ればまた同じことの繰り返しになるでしょう……無力な私には、現実を……父を変えることなどできはしないのですから」

 絵美子は自嘲気味に笑った。

「ねぇ、やめちゃえば? 王女様なんてさ」

「そうですね……それができたら……私もあの人と一緒に……」

「ん? あの人って?」

「あ、いいえ! なんでもありません! とにかくそういう事情なのです。あなたにはご迷惑をおかけして大変申し訳ないのですが……どうかもう少しだけ、甘えさせて下さい」

 絵美子は里奈に向かって深々と頭を下げた。

「うん……今のお母さんの話、全部信じたわけじゃないけど、だからといって私がやることは変わらない。私は私ができること、知ってることをお母さんに教えるだけだから……」

 そう言いつつも、里奈の嫌々やらされてる感はかなり薄くなっていた。

「はい、頑張って色々覚えますので、よろしくお願いします!」

 絵美子は頭を上げ、里奈に向かってにこりと微笑んだのだった。

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