第三十七幕 終わりなき行路

 前国主の反乱という大きな危機を乗り越えた美濃国。その中心たる美濃の街を出て遠ざかる旅人に混じって二人の女性……即ち妙玖尼と紅牙の姿があった。


「いよいよこの美濃を発つ時が来たねぇ。次はどこに向かうか決めてあるのかい?」


 いつもの露出甲冑姿に外套を纏って人目を引きにくくなっている紅牙が妙玖尼に尋ねる。基本的に進路は妙玖尼が決めていて、紅牙はそれに付いていくだけだ。


「そうですね。特に目的地があるわけではありませんが……とりあえず東に向かってみようと思っています」


「東……信濃とかあっち方面かい? 信濃一帯は今のとこ『甲斐の虎』と『越後の龍』が激しくやり合ってる危険な地域らしいよ?」


 川中島を中心にかなり長引いている大掛かりな戦なので、妙玖尼もその事は知っていた。だからこそ向かうのだ。


「戦が長引けば土地や人心は荒廃し、邪気が発生しやすくなります。そして邪気のある所に妖魔ありです」


 普通の人間であれば戦続きで治安の乱れた危険な地域など敬遠する者が殆どであろうが、妙玖尼達退魔師はむしろそうした危険地帯にこそ自ら飛び込んでいくのだ。


「なるほどねぇ。常識的な連中にはあんた達の旅の友は務まらないって訳かい」


 紅牙は納得したように頷いている。彼女は退魔師ではないが、傭兵のような存在と考えればまあ危険を求めて動く旅にも付いていけるのかも知れない。



「しかし良かったのですか、あなたも私に付いて美濃の街を離れて? またしばらく人里・・を離れる旅が続きますよ?」


 一応確認する。義龍の恩赦によって紅牙の罪も赦されているので、彼女はこの美濃で暮らそうと思えば出来るのだ。紅牙は肩をすくめた。


「こちとら故郷・・を出て以来、ずっと日陰と闇を生きてきた身だよ? 短期間滞在して楽しむ分にはいいけど、暮らすとなったらここはアタシには眩しすぎるよ。アタシもあんたと同じで放浪生活が性に合ってるのさ」


 妙玖尼はあくまで生業のために放浪生活をしているだけだが、紅牙にとってはそう大差はないらしい。とりあえず彼女に妙玖尼から離れる意志は今のところ無いようだ。既にあれだけ過酷な戦いを共にしてきているのだから今さらな話か。


 妙玖尼は苦笑した。紅牙が今後も付いてきてくれる選択をした事で安心しているのも事実であった。彼女は既に妙玖尼の退魔行において欠かせない相方・・となっていた。勿論本人の前でそれを口にする事は決してないが。


 しかし相方といえば……



「……でもシズクさんは惜しいですね。彼女の腕を借りられるなら、より高難度の退魔も可能となっていたでしょうに」


 妙玖尼は嘆息した。それが彼女の正直な気持ちであった。あの凄腕の女忍者は紅牙と同じくこの美濃での退魔に欠かせない戦力で、数々の苦闘を共にしてきた。だが事が終わった後も結局禄に言葉を交わす機会もなく別れてしまったのだ。


「まだ言ってんのかい? あいつとは最後まで気が合わなかったし、アタシはむしろせいせいしたけどね。それにそもそも義龍に心酔してその覇業を支えるのがあいつの本分なんだろ? アタシ達とは生きてる世界が違う奴なのさ。諦めなって」


 紅牙が呆れたように眉を上げた。彼女の言っている事は正論だ。雫はあくまで義龍に仕えている家臣・・に近い存在だ。妙玖尼達に同道してくれる理由がない。義龍が健在で覇道に邁進する限り、彼女がその下を離れる事は決してないだろう。妙玖尼はため息をついた。


「はぁ……そうですね。そもそも今までは単独で退魔の旅をしていたのですからね……」


 紅牙が同道するようになって今まで単独では不可能だった退魔も行えるようになり、『腕の立つ仲間・・』がいればより強力な妖魔も討伐できる。その予想以上の手応えに少し病みつきになってしまっていたのかも知れない。


(少し自省する必要がありそうですね……)


 彼女は心の中でそう自分を戒めていた。



「でも……信濃方面に行くなら、あの巫女さん・・・・とはまた会う機会もあるかもねぇ」


「……ええ、そうですね」


 紅牙の言葉に妙玖尼も首肯した。大桑城での決戦で彼女達に味方してくれた武田の密偵、伽倻かや。『歩き巫女』と呼ばれる特殊な職業の女性で、妙玖尼の法術とはまた違った神祇しんばいという異能を操るその力が無ければ、大桑城ではもっと苦戦……いや、或いは敗北さえしていた可能性が高い。



*****



『私は一旦、晴信様への報告の為に甲斐に戻るわ。流石にこれだけ強大な妖魔が出現したとあっては、甲斐でも同じ事が起きないように晴信様に警戒を促さないといけないし。まさか止めないわよね?』


 大桑城で道三を死闘の末に討伐した後、伽倻はそう言って雫の方に流し目をくれる。美濃に潜入している武田の密偵である事を明かした伽倻。義龍の隠密である雫は立場上、敵国の密偵を見過ごす事は出来ないはずだった。だが……


『ふん……勝手にしろ。ただし次に美濃領内で見かけたら容赦なく斬るぞ』


 苦虫を噛み潰したような顔を逸らして呟く雫。妖魔の問題は美濃一国に留まらずこの日の本、曳いては人の世全体の脅威であると言える。主君の義龍自身が妖魔の力を疎んじている以上、周辺国とはいえ妖魔の被害が及ぶ事は雫の本意ではないようだ。


『ふふ、肝に銘じておくわ』


 雫の心中を悟った伽倻は妖艶に微笑むと、妙玖尼達の方に向き直った。


『そういう訳であなた達ともここでお別れね。短い間だったけど、色々な経験が出来て良かったわ。密教の法術も間近で見る事が出来たし』


『ええ……私も神祇という力を初めて体験致しました。とても貴重な経験が出来ました。改めてお力添えを頂き誠にありがとうございました』


『願わくばまた何処かで会えるといいねぇ』


 妙玖尼と紅牙もそれぞれ伽倻と別れの挨拶を交わす。そして東へと去っていった伽倻を見送った三人は、その足で義龍への報告に稲葉山城へと戻ったのであった。 



*****



 伽倻との別れを思い返した妙玖尼。確かに信濃であれば現在伽倻の主である『甲斐の虎』武田晴信と、『越後の龍』長尾景虎が激しく争っている地域なので、伽倻に再会する可能性も皆無ではないかも知れなかった。


 そして信濃と言えばもう一人……


「そういや信濃って言えば、あの雷蔵・・って傭兵も向かってたはずだよね。あいつともどこかでばったり再会したりして?」


「……!」


 丁度頭の中で思い浮かべていた人物の話を振られ、思わず動揺してしまう。咄嗟に取り繕うのが間に合わなかった。それを見た紅牙が人の悪そうな笑みを浮かべる。


「おやおや、尼さん? 誰か気になる御仁・・・・・・でもいるのかい?」


「……っ。何を期待しているのか知りませんが下手な邪推はしない事です。旅先では思わぬ人物と出会う事など珍しくもありません。そのような事を気にしていたら全国放浪の旅など出来ませんよ」


「はは、まあそういう事にしといてやるよ」


 妙玖尼が殊更冷静な口調で告げるも、本気にした様子のない紅牙は笑いながら肩をすくめた。妙玖尼が同性同士・・・・に本当に興味がないと言った時も本気に取り合わなかったし、自分の思い込みで人を勝手に定義づけるのは紅牙の悪い癖だと思った。


「オホン! ……無駄話はこれくらいにしておきましょう。もう美濃の街も見えなくなりましたし、これからはまたしばらく人里を離れて旅が続きます。日が暮れない内に旅宿を見つけますよ」


「はいはい、そりゃ確かに重要事だね」


 あまりこの話題を続けたくなかった妙玖尼はそう促して歩きを速めた。紅牙は苦笑しつつその後に追随していく。




 美濃での旅と戦いはこうしてひとまず終わりを告げた。少しだけ平和になった美濃を、その功労者である旅人達はひっそりと誰にも知られる事なく後にしていく。


 新たな旅の先に待ち受けるものは人か、それとも鬼か。その修羅の行路に終わりは見えない……



第一章 美濃の蝮 完

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