第八幕 強制出立

『か……は……!』


 紅牙の斬撃によって首筋を斬られた助右衛門が、空気が漏れ出るような呼気を漏らしてよろよろと何歩か後ずさった。驚くべきは鬼の生命力か。人間なら致命傷となるような傷を負っても即死する事は無かった。


 だが破魔の法力が付与された紅牙の刀で急所を斬られたのだ。遅いか早いかの違いでしかなかった。


『ふ……ふふ……。外道に堕ちた者には相応しい、末路よ……。これでようやく、楽になれる……』


 助右衛門はその恐ろし気な鬼の面貌とは裏腹に、むしろ穏やかとさえ言えるような表情になっていた。



「あなたは……何者なのですか? 何故このような事を……?」


 決着がついた事を悟った妙玖尼が問い掛ける。聞かずにはいられなかった。自分達にはこのように襲われる心当たりが全く無かった。


『……お前達が斃した牛鬼。あれはお館様・・・がとある目的のために育てて・・・いたものだった。あれを討伐したお前達を見過ごす訳には行かなかったのでな』


「育ててただって? あの化け物を? 穏やかじゃないねぇ。そもそもだったら何でアタシらを行かせたのさ?」


 紅牙の疑問に助右衛門は僅かに苦笑したように見えた。


『妖怪は人を喰らえばそれだけ成長が早くなる。ただの餌やり・・・のつもりだった。まさか本当に二人だけであれを討伐してのけるとは……』


 実際には雫の助力があっての事だったが、それは別に言う必要も無いだろう。



「その……『お館様』とは何者なのですか? 何の目的であの牛鬼を?」


『鬼に堕ちたとはいえ主君を裏切る真似はせん。どのみちお前達の事は既に報告済みだ。この美濃から生きて出られる事はあるまいよ』


「な、何だって? ふざけんじゃないよ!」


 紅牙が目を吊り上げる。妙玖尼も眉を顰めた。どうも思っていたより大事に巻き込まれた可能性があるようだ。


(俗世の雑事に巻き込まれるのは不本意ではあるのですが……。今回の討伐依頼は受けるべきではありませんでしたか。いえ、それは結果論ですね)


 まさか裏にそんな事情があったなど事前に解るはずもない。それに現実として妖怪(牛鬼)がのさばっていた訳で、それを放置する事は退魔を生業とする身であり得ない。


(それにこの外道鬼たちを見る限り……単に『俗世の雑事』と切り捨てるのも早計かも知れませんね)


 このような鬼たちを率いているのであれば、その『お館様』とやらはかなり剣呑な存在かも知れない。あるいはあの海乱鬼のような妖鬼という可能性も……



『ふ、ふ……精々足掻いてみるがいい。私は一足先に地獄で待っているとしよう……』


 助右衛門は笑みを浮かべたままそう言って事切れた。


「あ!? くそ、言いたい放題言って、自分だけさっさとくたばりやがって!」


 紅牙は憎々し気に助右衛門の死体を蹴り付けた。だが最早反応が返ってくる事は無い。彼女が妙玖尼に向き直る。


「どうすんだい、尼さん? 何だか妙な事になっちまったみたいだけど」


「そうですね……」


 既に彼女らの事を報告済みで、生きてこの美濃を出られないというのは穏やかではない。相手は大きな組織である可能性が高い。


(組織というより、あるいは……)


 一瞬そう考えたが、確証のない事を今この場で考えた所で無駄だ。それよりは紅牙の言う通り、とりあえずこの場をどうするかだ。



「やむを得ません。こうなってはこの町にはいられませんので、このまま夜陰に乗じて立ち去る事としましょう」


 この助右衛門が本物の長であったかどうかは不明だが、どのみちこのまま残っていれば騒ぎになって痛くもない腹を探られる事になる。牛鬼がいなくなって白川の水も戻るはずなので、後は町の人々次第だ。妙玖尼達が感知する事ではない。


「確かにこの有様が他の連中に見つかると面倒だね。じゃあさっさとズラかるとするかい。このまま南へ向かうのかい?」


 紅牙も特に反対なく同意した。しかし進路となると一考の余地がある。紅牙がいるので北の飛騨国に戻る訳にもいかない。かといってここからでは西も東も険しい山道が続くし、妙玖尼もいい加減に人里が恋しくなっていた。


 僧侶の行脚というと何も知らない者達からは山奥で修行する修験道のように思われている節があるが、実際には全く違う。一般の行脚と言えば基本的に街から街へと街道を渡り歩いて、人々とも交流しながら徳を深め、御仏の教えを説いて回るものだ。一般の印象と異なり、実は俗世間・・・と密接に関わっている。


 旅の途中には街道の旅人宿に泊まるし、大きな街では普通に旅籠にも泊まる。明確な規則がある訳ではないので、人々からの寄進で茶や料理に舌鼓を打つ者さえ珍しくなかった。世間で思われているような『孤高の求道者』などでは断じてないのであった。


 それは退魔の旅を生業としている妙玖尼とて例外ではなかった。紅牙を旅の友とした為に高山の街に立ち寄る訳にも行かず逃げるように飛騨を後にしてきたので、かなり長い間大きな街に入れていない。


 やはり紅牙がいるので密かに楽しみにしていた下呂の温泉宿にも立ち寄れなかった。せめて最寄りの岐阜の街には行きたい所だ。岐阜は美濃の大名である斎藤義龍のお膝元なので、この連中が何者であれそうそう大胆な事も出来ないだろうという目算もあった。



「問題ありません。このまま南へ下って岐阜の街に入りましょう」


 そう結論づけた。このような連中の為に自分が望まぬ不便や禁欲を強いられるなど馬鹿げた話だ。命や身の危険を恐れていては退魔師稼業などやってはいられない。それに何か襲ってくるとしたら、恐らくこの連中のような鬼や妖怪もどきだろう。ならばそれと戦い滅する事はむしろ本望だ。


「はは、いいねぇ! そう来なくちゃ! アタシも賊になって以来、とんと大きな街には縁が無かったからねぇ。あんたに付いてやっと人里に降りれるようになったんだ。こんな奴等に邪魔されてたまるかい」


 妙玖尼の答えを聞いて満足そうに笑う紅牙。彼女が変に身の危険を恐れて守りや逃げに入らなかった事が嬉しいらしい。 


「さあ、そうと決まれば急ぎましょう。戦いの物音を聞きつけた村人たちにこの有様を見られると面倒な事になりますので」


「勿論さ。荷物はいつでも出られるように最初からまとめてあるから持ってくるだけさ」


 二人は宿に取って返して支度を終えると、逃げるようにそそくさと白川の町から南へと立ち去って行った。月明りのみの深夜。それを見送る者は誰もいないと思われたが……




「…………」


 町を囲む木々の一本。その枝の上に佇んで、町から遠ざかっていく二人の女を見下ろす影があった。紫がかった忍び装束に浅黒い肌の女忍者、雫である。


 妙玖尼達が山道の向こうに消え去ったのを確認すると、雫もまた素早い身のこなしで木々を伝ってその場から消え去って行った。後には静まり返った白川の町並みだけが残されていた……

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