第29話 兎は異世界転生の夢を見るか
バタンと乱暴に部屋の扉を閉めたアカリは、ツインテールを留めていたヘアゴムを思い切り床に投げ捨てた。それでも溜まったストレスは治まらず、感情のままに勢いよく壁を蹴りつける。
「ああウザい! どいつもこいつも、何で私に都合よく動いてくれないんだッ!」
カイビトス公国ではこんなこと一度も無かったのに。リューグ王国に来てからどうも調子がおかしい。
「はぁ……」
少し落ち着いたアカリは大きなため息を吐いた。
綿素材のゆったりとした白いTシャツとキュロットショートパンツのセットアップの上に髪と同じピンク色のパーカーを羽織ったラフな恰好になったアカリは、改めて用意された部屋を見回す。
テレビで見る高級ホテルのスイートルームのような一室は、家具や装飾も豪華絢爛で床のカーペットなんて足を取られそうなほどにふかふかだ。そんな部屋の中央に置かれているのは、一際存在感を放つキングサイズのベッド。
「何かすっごい寝心地良さそう」
とりあえず一回仰向けに寝転がってみる。
すると、まるで身体が優しく包み込まれているみたいな今まで味わったことのない感覚を覚えた。マットレスは柔らかいのに沈み込みすぎず、程よく背中を支えてくれる。
「あ〜、これ楽だ……」
あっちの世界の家で使っていた、ぺたんこになった煎餅布団とはまるで違う。
もう動きたくない。寝支度どころか荷物の整理すらしていないというのに、完全に起き上がる気力を無くしてしまった。
今日は長旅で疲れたし、どうせ明日もやることないし。まあいっか。
頭の中で言い訳をしているうちにも段々瞼が重くなってきて、いつしかアカリは深い眠りに落ちていた。
二〇二一年八月五日、香川県三豊市。
カーテンを閉め切っているために昼間なのに薄暗い部屋の中。私、
私には親がいない。正確に言えば母親はいるけれど、半年近く帰ってきていない。
だから徹夜でゲームをしていようが、パパ活で小遣い稼ぎをしていようが誰に怒られることもない。
『無観客の静かな会場に今、日本期待の金メダル候補、
雑音が欲しくて適当に点けていたテレビが、音量も上げていないのに急にうるさくなる。
何事かと視線を向けると、いつの間にか変なスポーツ中継になっていた。
「あぁ、オリンピックか……」
世界中が熱狂しているとされる自称平和の祭典。だけどそんなものに、私は興味も関心も無い。
このアナウンサーさっきから声大きくて嫌だから別のチャンネルに変えよう。
そう思って部屋のどこかに置いたはずのリモコンを探しながら、ふと気付く。
『一本目、亀有選手見事にノースプラッシュを決めて見せました!』
亀有ってどこかで聞いた名前だな……?
プールから上がってきた顔を見て、ようやくピンと来る。
ああそうだ、隣のクラスの生徒だ。運動も勉強も出来て、友達も多くて先生からも信頼されていて。
私が一番嫌いな人。
二年生になってすぐくらいからは高校にも行かなくなってしまった。だからこんな奴の存在をすっかり忘れていた。本当は思い出したくもなかったのだが。
「高い所から水に飛び込むだけで日本中から褒め称えられて、お金まで貰えるんでしょ? 馬っ鹿みたいだよね」
テレビに向かって毒突きながらも、私は結局チャンネルを変えるのをやめた。
こいつがダサい失敗をして大恥をかくところを見たいと思ったから。
でも、結果は期待外れのものだった。
『さあ得点が出ます。優勝は……亀有凪沙選手! 日本の期待の星、見事金メダル獲得です!』
一つもミスらないのかよ。しかも金メダルだし。
やっぱりアンタなんて大嫌い。
私は舌打ちをしてテレビを消した。
「はぁ、コンビニでも行こ……」
最悪なものを見てしまった気晴らしに飲み物でも買ってくるかと、部屋着の上にピンク色のパーカーを羽織って玄関を出る。
最も近所にあるコンビニは、川の狭間みたいな何か変なところにある。パーカーのポケットに両手を突っ込んだままのんびりと歩いて行き、短い橋を渡ってコンビニの前へ。
いざ店内に入ろうとして、ぴたりと足が止まる。
コンビニの向こう側、丁字路の信号の奥には長い橋が見える。
「あそこから飛び込んだら、私も金色のメダル貰えるかな……」
無意識のうちに、吸い寄せられるように長い橋の方へと歩みを進める。
そして橋の真ん中あたりで立ち止まると、自然と欄干の上に登っていた。
通行人はおろか車の一台も通らない。だから今この場に、私の邪魔をする者は誰もいない。
「……あははっ、あははははッ!」
これでやっと、陰から出られる。輝くメダルが照らす、明るい世界に行けるんだ。
そう思うと笑いが止まらなくなった。
焦点の定まらない燻んだ灰色の瞳で川を見下ろした私は、一切の躊躇いなく橋からぴょんと飛び降りた。
意識が戻った時、私は見知らぬ砂浜で横になっていた。
まさか瀬戸内海の無人島に生きたまま流れ着いてしまったのだろうか?
むくりと起き上がると、視界にピンク色の何かがちらついた。
「? ゴミでも付いてんのかな……?」
指で摘まんでみる。するとなぜか髪の毛に触れている時のような感覚が頭に伝わってきた。
全然取れないし、意味が分からない。何だこれは。
目で見た方が早いとスマホを取り出して、インカメラで自分の顔を映す。だが、画面に映し出された顔を見て、私は余計に混乱してしまった。
「…………は?」
スマホには眉を顰める自分の姿が映し出されるはずなのに、そこで眉を顰めているのは全くの別人で。
ピンク色のサラサラのロングヘアーとキラキラ輝く赤い瞳が特徴的な童顔巨乳の少女が、私と同じ表情で同じ服装をして同じ座り方をしていた。
これが自分の身体だと理解するまでには結構な時間を要した。
でも理解さえしたら驚くほどすんなりと受け入れられた。
体を慣らすようにふらふらと歩き回りながら、状況を整理する。
「私、死んだのかな? にしては生きてる感すごいんだけど」
太陽の日差しの熱、頬を撫でる潮風の心地よさ、寄せては返す波の音。五感に伝わってくる情報がどれもリアルで、ここが死後の世界とはどうも信じられない。
「だとしたら異世界転生、とか……? って、そんなの現実にある訳ないもんね」
アニメやラノベではよく見かける展開だが、あれは架空の話だ。もっと真面目に考えよう。再び思考を巡らせる。
と、その時。
水揚げされた魚が跳ねるような、びたびたっという音が背後から聞こえてきた。
何だろうと振り返ってみると、ぎょろりとした丸い碧い目と目が合った。
青魚の頭の上半身から人の脚が生えた、言わば半魚人。
「うわっ、気持ち悪っ!」
飛び退る私に向かって、その化け物はあろうことか全力で駆け出した。
「ちょっ、こっち来んなって……!」
陸上選手並みのスピードでどんどんと迫ってくるので、叫びながら咄嗟に右手を突き出す。
刹那、伸ばした右手の平に妙な温かさを感じた。全身のエネルギーがそこに集まっていくような不思議な感覚。
見てみれば、掌に光の球が形成されているではないか。
もしやと思い私はある言葉を唱えてみる。
「魔法目録一条、魔法弾」
言い終えると同時に光球をぶん投げると、それを喰らった半魚人は蛍光緑の血を撒き散らして爆散した。
「つまりここは、あのゲームの世界ってこと……?」
テスターとしてプレイしていた、海に沈みゆく世界が舞台のRPG。
そのゲームに出てくる魔法が使えて。しかもさっきの半魚人、あんなモンスターも出てきた気がする。
だけどまだ確証が持てない。もう一つ決定的な何かが欲しい。
辺りを見回していると一艘の舟がこちらに近づいてきて、何者かが砂浜に上陸した。
真っ黒なローブに身を包みフードを被った怪しげな人物に、右手を向けつつ警戒心を強める。
「アンタ誰?」
声を掛けると、黒ずくめの人はおもむろにフードを脱いでから答えた。女性だった。
「ナーカはね、通りすがりの運び屋だよ」
この紫色の髪と黄色い瞳は、カイビトス衛士団親衛隊七番の魔導士オンコリュンクス=ナーカ。彼女もゲームに出てきたキャラクターだ。
ということは、やはり。
私はどうやら本当にゲームの世界に転生したらしい。
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