第8話 あおい瞳に映るのは

 季節は移ろい、徐々に冬の足音が近づいてきた十一月のある日。

 オトが貸してくれた王室のフーデッドケープに身を包んで、凪沙なぎさは今日も街に出る。


 最初は一人では到底無理だと思っていた外出も、今ではすっかり不安に感じなくなっていた。それはきっと、あの時アーシムと一緒に王都を見て回ったことで、案外周りの人は自分のことを見ていない、だから怖くないと気付けたからだ。

 ただまあ、以降も何度かはアーシムやらサラーキアやらに同行してもらって、結局一人で外出できるようになったのは一ヶ月ほど経ってのことなのだけれど。


 ともあれ、今となっては慣れっこである。

 もちろん銀色の髪や碧い瞳といったオセアーノの特徴がバレないように注意を払いながらではあるが、こうして前を向いて堂々と街を歩けるようになった。


「早く力になれるように、もっと勉強頑張らないと」


 今日のお出かけの目的は王立図書館。

 リューグ王国の中でも最大の蔵書数を誇るそこには古文書から最新の研究論文までが揃っていて、調べ物をするにはうってつけの施設である。


「こんにちは。今日も調べ物ですか?」

「はい、そうです」


 最近は週に二度はこの図書館に来ているので、受付の女性とは顔馴染みになってしまった。


「あなたは本当に勉強熱心ですね。でも、たまには小説なんかも読んでみたらいかがです? 適度な息抜きも大事ですよ」

「お気遣いありがとうございます。もし余裕があったら、何か借りてみようと思います」


 ぺこりと頭を下げつつも、そんな余裕は今は無いと心の中で思う。


 館内に入った凪沙は、迷わず一直線に目当てのコーナーへ。

 本棚にぎっしりと並べられた文書の中からいくつかを手に取って近くの机に運ぶ。


海異かいい関連でまだ読んでないのは、この辺だったかな」


 凪沙はアーシムの心を救うと誓ってから、ずっと海異についての資料を漁っていた。

 彼が心に傷を負ったのは海異が現れたのと同時期で、何かしらの関連があることは明白。だから海異を倒すことさえ出来れば少しは傷が癒えるはず。

 そのために私は、海異について詳しくなって海伐かいばつ騎士軍の戦いをサポートしようと考えたのだ。


 過去十年分の研究論文に目を通しながら、海異の特徴と自分の見解をノートにメモしていく。


・見た目は基本的に海洋生物に近く、陸上よりも水中の方が動きが早い

 →海上で戦わず島やフロートにおびき寄せると有利?


・単純な攻撃行動しか取らないことから高度な知能は持っていないと推定される

 →作戦次第では一網打尽にすることも可能?


・海異出現初期、マリンピア民主国より供与された蒸気タービン機関式護衛艦のみが狙われ、旧来の帆船には見向きもしなかった

 →護衛艦が発する音や熱が狙われた理由? もしくは水の流れとか?


・襲われやすい人と襲われにくい人がいる可能性。詳しくは調査中

 →これが海異を倒す上で一番重要かも


 などなど。とにかく役に立ちそうな情報は全て書き留めたつもりだが、何せ敵は未知の魔物である。ここまで数々の文書を読んだものの、研究や調査の結果は曖昧なものや中途半端なものが多かった。正直あまり使えないかもしれない。


「でも一応、参考くらいにはなるか」


 何も分からないよりはマシだと割り切って、凪沙は論文を元あった本棚に返しに行く。


 しかしその間、このコーナーはいつも人がいないからと机の上のノートは広げたままで。その一瞬の油断がいけなかった。

 凪沙が荷物を取りに戻ると、見知らぬ誰かが私のノートを勝手に読んでいた。相手も自分と同じようにフードを目深に被っていて、ここからでは性別すらも分からない。


 内容が内容だけに、しっかり読まれると良くない気がする。

 恐る恐る近づいて、そっと声を掛ける。


「あの、すみません。それ、私のなんですけど……?」


 すると銀色の外套が揺れて、謎の人物が顔をこちらに向けた。

 変わらず表情はフードで隠れて見えない。


「えっと、返してもらってもいいですか……?」


 しばらくして、ようやく相手から言葉が返ってきた。


「ああ、構わんぞ」

「じゃあ、失礼します」


 差し出されたノートを受け取って、凪沙は一刻も早くこの場を立ち去ろうと椅子に置いていた荷物を回収する。

 何この人、不気味すぎるんだけど。

 声の雰囲気からして、多分女性、だろう。年齢とかはもうよく分からない。


「待て」

「はい。まだ何か……?」


 歩き始めたと同時、謎の人物に背後から呼び止められた。

 無視するのも怖いので立ち止まって振り返る。


「貴様、れの仲間かと思ったが違うな? 人間、海の民よ。貴様もプラスチックを食べるのか?」

「プラスチック?」

「貴様の体内から強い反応が出ている。異常な量だ。これは主食としている以外あり得ん」

「私、そんなの食べませんけど」


 プラスチックなんて食べる訳がない。

 この人はずっと何を言ってるんだ?

 凪沙は戸惑いながら首を左右に振って否定する。


 その時突然いきなり相手が詰め寄ってきて、今までフードに隠れて見えなかった顔がはっきりと見えた。

 触手のような銀色の髪と淡く光る蒼い瞳。


 オセアーノとよく似た容姿の。けれど似て非なるこの気配。

 今、私の目の前にいるのは。


「海異……!」


 凪沙は後ずさって、息を呑んで口を押さえた。

 ここで騒いでしまったら、図書館にいる他の人にも危害が及んでしまうかもしれない。

 叫びたい逃げたい気持ちを堪えて、この状況の打開策を必死に考える。


 しかし目の前の海異は、これまで調べてきた全てを無意味にする存在だ。陸上なのに何不自由なく動き回り、人の言葉や文字を理解できる高度な知能を有し、見た目はもはや人間と変わらない。

 これは丸腰の私が勝てる相手じゃない。そして、逃げ切れる相手でもない。


 恐怖で足が竦む。身体が震える。心拍数が高まる。

 私は死ぬのか。

 あの時助けてもらったのに、結局は海の化け物に襲われて。


 諦め、目を閉じる凪沙。

 海異が距離を詰めてきた感覚。

 もう、これで終わりだ。

 さようなら、アーシムさん。


「…………」


 覚悟を決めてぎゅっと目を瞑るも、何故か一向に襲ってこない。

 さすがに変だと目を開けると、呆れた様子で海異が口を開いた。


「怖がりすぎだ。吾れは貴様を取って食おうなどとは思っておらん。むしろ友好的に接しているつもりなのだが」


 まるで人間がそうするようにため息を吐いて、やれやれと首を振る怪物。


 これはもしかして、平和的解決が望めるかも? それどころか外洋の海異全てを殲滅する糸口にすらなり得る可能性がある。

 選択を間違えた時のリスクは避けられないが、上手く関係を構築出来れば大きな成果となるはず。まさにピンチはチャンス、ということだ。


「すみません、怖がってしまって。えっと、私は亀有かめあり凪沙です。あなたのお名前は?」


 まずは自己紹介から。

 相手が本当に敵意を抱いていないのなら、素直に答えてくれるだろう。


「吾れは進化海洋生物の頂点、バミューダトライアングルの一柱。フロリダである」

「進化海洋生物?」

「貴様ら人間が海異と呼称する生物のことだ。吾れらとて元は普通の魚や貝、海獣であった。だが近年の海洋汚染によって生態系が崩壊し、進化することを余儀なくされた。その進化の結果がこれだ」


 つまり海異は海の中から突然現れたのではなく、元々生息していた生き物たちが変異したということ?


「進化したら、どうして人を襲うようになるんですか?」

「吾れらは人間を捕食するのではない。プラスチックを求めているのだ」

「プラスチック?」

「海洋汚染の主な原因は人間が流出させたプラスチック。だから吾れらはそれを体内で消化し栄養として蓄えられるよう進化した。故に人間が身に着けたプラスチックに反応し、結果として人間を襲う」


 なるほど、襲われやすい人とそうでない人の差はここにあったか。

 プラスチック製品を所持していると食料を求める海異を引き寄せてしまう。これは交戦中の被害者を減らす対策を立てる上で非常に有用な情報だ。


 しかし海異が人を襲う理由がそうであるとするならば、現在の状況に疑問が生まれる。


「でも私、今はプラスチックの物は持ってませんけど?」


 洋服や鞄は全て天然素材のものだし、ノートや鉛筆にプラスチックの要素は無い。

 ではどうして、私はフロリダにターゲットされたのだろう?


「先刻話した通りだ。貴様からは強いプラスチックの反応を感じる。そしてこの反応の強さはプラスチックを主食とする吾れら進化海洋生物のそれと同等。故に吾れは仲間と勘違いし接触を図った」

「何で私から、そんなに強い反応が」

「あくまで推測にすぎんが、貴様も吾れらと同じということだろう。食した料理の中にプラスチックが紛れ込んでいて、それを気付かず飲み込んだ。進化前の海洋生物が絶滅の危機に瀕した理由と一緒だな」


 フロリダは嘲笑し、それから首を捻った。


「だが分からんな。ほとんどの人間が魚を食しているはずなのに、貴様だけがここまでプラスチックを取り込んでしまった理由が」


 腕を組んで考え込む仕草を見せる人の形をした海の化け物。

 凪沙のことを心配してくれている、のだろうか?


「他の人からは、私みたいな反応は出てないんですか?」

「ああ、少なくとも吾れの知る中ではな」


 その後もしばらく思案していた海異だったが、最終的に諦めた様子で言った。


「すまん。吾れの力では原因を突き止めるのは難しい。健康であるならばそのままでも問題無かろうが、貴様にとって害であることには変わらん。くれぐれも留意しておくことだ」

「ご忠告ありがとうございます、フロリダさん」


 何だ、とても良い人(?)じゃないか。

 あんなに怖がって、襲われるなんて思った自分が馬鹿みたいだ。

 確かにフロリダは海異ではあるけれど、だからと言って偏見を持つのは良くなかった。ちゃんと正面から向き合えば、こうして分かり合うことだって出来る。


「あなたも本当は、みんなと仲良くしたいんですよね」


 凪沙はフロリダに優しく微笑みかけた。

 人の姿をして街に潜んで生活して。だけど絶対に正体がバレてはいけなくて。それと似た気持ちを、私もよく知っているから。


「私も見た目がこんなだから、最初にここへ来た時は外に出るのも不安でした。でも助けてくれる人がいて、オセアーノだって気付いても態度を変えない人に出会って、少しずつこの街で生きる自信がつきました。だからきっとフロリダさんもそういう人と出会って、いつかはこの街の一員になれるはずです」


 フロリダは蒼い瞳をこちらに向けたまま固まった。

 それから口の端を吊り上げて、凪沙に聞こえるギリギリの小声で吐き捨てた。


「吾れがこの街の一員だと? 笑わせてくれる」

「えっと、フロリダさん?」


 突然の態度の急変に戸惑う凪沙。

 蒼い眼には鋭い光が宿り、フードの下の銀色の髪の毛は一本一本が意思を持ったようにゆらゆらと揺れている。その姿は、正しく怪物。


 フロリダは強い怒りを滲ませた口調で続ける。


「吾れは人間社会に組み込まれる気など無い。海を汚す人間は全て敵だ。だが一般市民に負うべき責任は少ないことは理解している。だから吾れは為政者に天罰を下すと決めた」

「天罰? あなたは一体何をするつもりなんですか……?」

「安心しろ。健気に海を守ろうと努力するあの娘と、同じ被害者である貴様の安全は保証する」

「私がいくら安全でも、そんなの安心出来ません!」


 凪沙は思わず叫び声を上げた。

 海洋汚染の責任の一端が政治にあるというのは否定しない。けれどそれがオト女王が罰を受ける理由にはならないと思う。


「何故貴様は為政者の肩を持つ?」

「それは私と、オトさんが友達だからです」

「オト……? ああなるほど。貴様はあの若き為政者と親しい訳か」


 得心がいったと頷くフロリダ。

 しかし聞く耳は持ってくれず、それどころか逆に感情を昂らせる結果となってしまった。


「フフフ、ようやく一歩近づいたぞ為政者オト。吾れらと同じ苦しみを味わわせてやる」

「フロリダさん、やめて下さい。そんなことをしても何の解決にもなりません」


 凪沙はフロリダに目を覚ましてほしくて必死に説得する。

 だけど人間とは思考回路も常識も根本から掛け離れている海異に、そんなものが届くはずは無くて。不気味に笑い続ける化け物を、無力にただ眺めることしか出来なかった。

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