第6話 甲羅に隠れてお出掛けを

 神暦しんれき九八八年八月十四日。

 空は青く晴れ渡り、雲一つ無い快晴。降り注ぐ夏の陽光は熱を帯びていて、露出した肌にじりじりと焼かれているような痛みを感じる。とは言っても、フード付きの外套で頭から膝までを覆っているから顔と手と脚くらいしか素肌はさらしていないのだけど。


「おはよう、ナギサ」

「おはようございます、アーシムさん」


 待ち合わせの時間より少し早めに現れた案内役に、凪沙なぎさはフードの下で微笑みを浮かべる。

 アーシムの服装は海伐かいばつ騎士軍の制服だが、休日のため帯刀はしていない。


「待たせちゃったかな?」

「いえ。私も今来たところです」

「良かった。それじゃあ早速行こうか」

「はい。今日は案内よろしくお願いします」


 何だかデートの待ち合わせの彼氏彼女みたいなやり取りを交わしてしまって気恥ずかしい気分になりつつ、それを悟られないようにアーシムの隣を歩いていく。


 城門を出ると彼がまず向かったのは最寄りの船着場。ここからゴンドラのような小舟に乗って目的地へと移動するつもりのようだ。


「この前はバスだったからのんびりと王都の街並みを眺める機会が無かったでしょ? ナギサは街の風景が気に入っていたみたいだったから、今日は思う存分堪能してもらおうと思って」

「ありがとうございます。すごく嬉しいです」


 確かにアーシムに連れられて初めてここへ来た時は、水上バスのガラス越しに見ただけでちゃんと景色を見られたわけじゃない。その上お城まではそれほど距離も無かったので、こうやって改めて街並みを楽しむ機会を作ってくれたのは本当に嬉しかった。


「どうだい? 舟から見上げる王都の景色は」


 向かい合わせに座ったアーシムに問いかけられて、凪沙は右上に向けていた視線を前に戻す。


「前回は大きな水路しか通らなかったので分からなかったですけど、こういう狭い路地みたいな水路から見るとまた違った印象がありますね。もちろん建物が綺麗でお洒落なのは変わりませんけど」

「そうそう。ちょっと裏道に入ると表からは見えなかった、住んでいる人の暮らしが伝わってくるんだよ」


 小舟ですらすれ違うには苦労しそうなほどの幅の狭い水路。そこに面するアパートのベランダには洗濯物が干されていて、玄関口のそばには自転車が停まっていたり野菜が植わった鉢が並んでいたりと、生活感で溢れている。

 人目につくメインストリート側を美しく見せるために、隠したいものは全て路地側にということだろうか。


「住民の皆さんには申し訳ないですけど、正直こっちの飾らない風景の方が人の温かみが感じられて好きかもです」


 なんて住んでいる人の努力を台無しにするようなことを言ってみる。

 すると彼はにこっと笑って同意する仕草をした。


「はは、気が合うね。僕もこういう裏道の雰囲気が好きで、休みの日はよくこの辺を散歩するんだ。表通りの洗練された感じとはかなり違うから、最初はがっかりさせちゃうかなとも思ったんだけど。君にも気に入ってもらえて良かったよ」


 凪沙は座席に座ったまま上半身を捻って、ゴンドラが通ってきた水路を見返す。

 あくまでもこれらの水路は全て巨大な浮島、フロートの隙間なので道は基本的に一直線だ。建物の隙間からは王城の周りを囲む高い塀と城の赤い屋根がまだ確認できる。


 きっと今頃オトさんは、玉座の間でお仕事を頑張っているんだろうなぁ。

 と遠くに見える城で職務に励んでいるであろう女王様の姿が頭に浮かんで、そこでふと今朝の朝食時にした会話を思い出す。


「ナギサも大分ここでの生活に慣れてきたみたいね」

「はい、おかげさまで」

「知識も身につけて、あとは外に出られるようになるだけってところかしら?」

「そうですね……。でもやっぱり、誰かと一緒じゃないと街を出歩くのは怖いです」

「まあそりゃ不安はあるわよね。焦って事を進めても良いことなんて何も無いし、あなたの歩幅で一歩一歩着実にやっていけばいいわ。で、その第一歩として、まずは今日の逢い引きを楽しんできなさいな」

「あ、逢い引きって……! 別にそんなんじゃないです!」

「ふふっ、それは失礼。じゃあ、私は着替えて仕事を始めるから。デルフィーノ、これ片付けておいて」


 逢い引き、つまりはデート。言われてみれば男女が二人きりで出掛けるのだから、状況的には全くもってその通りではないか。

 しかし今回に関してはアーシムはガイド役で凪沙はゲスト。対等な関係じゃない。


 だが今まで恋愛とは無縁だった凪沙にとっては、オトにそんな風に言われた(からかわれた?)こと自体がなかなかに衝撃で。一気に顔が熱くなってしまった。


 というか、今思い出しただけでまた熱くなってきたんだけど。私の顔、赤くなってないよね? 前向いても大丈夫? アーシムさんに変に思われないかな?

 不自然に後ろを向いたままこっそりと手で顔を扇いで、どうにか気持ちを落ち着けようと試みる。


 その時、不意に外套のフードが強い力で引っ張られて無理やり前を向かされた。それと同時に目の前の視界が塞がれて、上から何かに覆い被さられたような感覚。

 数秒後、上からの重さと視界を塞ぐものが無くなって、自分がどうなっていたのかに気付く。


「えっと、アーシムさん……?」


 凪沙は今、アーシムの胸に顔を埋める状態になっていた。抱き寄せられた、とは少し違うが、それに近い行為をされた。

 だけど彼がどうしていきなりそんなことをしたのかが分からなくて、激しく戸惑う。


 アーシムは慌てて元の位置に座り直すと、後ろを指差して言った。


「橋……」

「え?」

「あのままだと、ナギサの頭があの橋にぶつかって水に落ちちゃうと思ったから。その、勝手に触ってごめん……」


 彼が示した先を振り返ると、水路に煉瓦造りの橋が架かっていた。

 橋の下の高さは明らかに今の目線より低い。ゴンドラに乗ったままあそこを潜り抜けるためには絶対に姿勢を低くする必要がある。


 確かに凪沙は今まであの橋の存在に気付いていなかった。もしアーシムが何もしてくれなければ、彼の言う通り橋の側面に頭を強打して舟から転落していたことだろう。


「いえ、助けてくれたんですから謝らないでください。それに元はと言えばちゃんと前を見てなかった私が悪いんです」

「だけど、急にあんなことして驚かせちゃったし。嫌だったかな、と思って……」


 よほど後悔しているのか、俯きがちに尚も謝り続けるアーシム。


 そこまで自分を責めるようなことなんて何も無いのに。あなたはただ国を守る兵士として、人々を守る騎士として当然のことをした。それだけだ。

 それにそもそも私が怒っていないのだから、いつまでもそんなに落ち込まないでほしい。


 彼にどうにか早く気分を取り戻してほしくて、凪沙は口を開いた。


「まあ、ちょっとびっくりはしましたけど。でも、私は別に、嫌ってことは、無かったですよ……?」


 言いながら結構大胆なことを口走っているような気がしたが、嘘ではないのでそのまま口に出す。けれどやっぱり後から恥ずかしさが込み上げてきてしまって。


「……ナギサ。ありがとう……」

「はい……」

「…………」

「…………」


 アーシムの罪悪感は解消出来たものの今度は凪沙が照れてしまい、変な空気になった二人はお互いに黙り込んでしまった。



 やがてゴンドラが船着場に着岸した。

 アーシムは船頭に運賃を支払ってから先に舟を降りると、すぐにこちらを向いて優しく手を差し伸べてくれた。ありがたくその手を掴ませてもらって、凪沙も岸に降り立つ。


「ここは何なんですか?」


 見た所ちょっとした広場のようだけれど。


「ここは黒の広場っていう、かつてこの国を救ったと言われる英雄の像が建っている場所なんだ。海異かいいが現れる前は外国人の観光客でいっぱいだったんだけど、最近はすっかり地元の人の溜まり場になっちゃったみたいだね」

「黒の、英雄……」


 広場の中央にそびえる英雄の石像を見上げて、ぽつりと呟く。


 オトが貸してくれた本に書いてあった。

 この世界が海に沈むより遥かずっと昔、存亡の危機に瀕していたリューグ王国を漆黒の剣士が救ってくれた。その剣士は救国の英雄と国民から崇められ、今でも黒の英雄の伝説として語り継がれていると。

 ただ、その伝説の内容は現実離れした異次元のもので。ファンタジーやおとぎ話とも呼べぬ、もはや神話に近い物語だった。


「まあ本当にそんな人がいたのかは、昔のことすぎて確かめようもないけど」

「そうですね」


 彼の言葉に頷きながらも、凪沙は妙にあの英雄の像が気になっていた。


 何かが引っかかる。でも何が?

 しばらく石像の顔を見上げて、もしかしてと思う。


「……似てる、よね?」


 その顔立ちや表情は、よく見るとどこか似ている気がする。

 だがその発想はいくらなんでも飛躍しすぎだ。

 黒の英雄の話は遠い昔の伝説で、まさかそんなことはあり得るはずがない。


 オトはこの黒の英雄の、子孫なのではないか? なんて。


「ん? 何か言ったかい?」

「いえ、こっちの話です」


 そんな突拍子もないこと、アーシムに訊けるわけも無く。凪沙は小さく頭を振った。



 広場の周りにはお店や屋台が並んでいて、食べ物からお土産品まで色々な物が売られている。


「安いよ安いよ〜!」

「今日は良い魚が入ったんだ。一匹どうだ?」


 店主らの賑やかな呼び声が響く中。あるお店の前を通りかかった時、一際大きな声がアーシムの名を呼んだ。


「よぉアーシム。今日は休みか?」


 店内から出てきた顎髭を生やした若武者然とした青年に、アーシムは立ち止まって答える。


「うん、女王命令でね。ブランツィノは相変わらず今日も営業中?」

「おうよ。俺の店は年中無休の庶民の味方ってのがウリだからな」

「たまには休まないと、体壊しちゃうよ」

「んなもん平気平気。そんなヤワじゃねぇっての」


 仲良く談笑している様子からして、二人は友達なのだろうか。

 少なくとも店の人とお客さんという感じではない。


 凪沙は邪魔をしないように一歩引いた位置から彼らのやり取りを聞いていたのだが、アーシムの後ろに隠れる謎の人物には当然青年も気付く。


「つーかお前ぇ、今日は珍しく連れがいるんだな」

「まあ、ちょっとね」

「その紋章からして、ひょっとして女王様の関係の人か?」

「それは、えっと……」


 私のことをどう説明するべきか悩んで言い淀んだアーシムを見て、顎髭の青年は訝しむような視線をこちらに向けた。そのまま一歩二歩と進み出ると、少しかがんでフードの下を覗き込んできた。


 青年と目が合う。

 オセアーノの大きな特徴の一つ、碧い瞳を見られた。


 まずい。こんな街中で正体がバレたら大変なことになる。

 凪沙はフードを更に目深に被って、完全に目元を隠す。


 しかし、次に聞こえてきた青年の言葉は予想の斜め上を行くものだった。


「何だよ、女の子じゃねぇか! しかも可愛いし。アーシムお前ぇ、仕事にしか興味無ぇとか言ってたくせに裏切りやがったな!」


 アーシムの胸ぐらを掴んで、興奮気味に詰め寄る青年。

 どうやらお忍びデートか何かだと勘違いされてしまったようだ。


 大佐の階級章の付いた軍服ごと引っ張り上げられながら、ただのガイド役である彼は必死に弁明する。


「違う違う! この子はオト女王がお城で保護している子で、攫い波の被害者なんだ。それで今日は王都を案内しろって命じられて」

「攫い波? ってあの伝承のか?」

「そう。あの話は本当だったんだ」


 そう言ってアーシムがこくこくと何度も頷いてみせると、ようやく青年は襟元を掴んでいた手を放した。


「いやぁ悪りぃ悪りぃ、早とちりしちまったな。で、嬢ちゃん名前は?」


 あまり反省した風もなく頭を掻いて再びこちらに向き直った青年に、凪沙は軽くお辞儀をしながら名乗る。


亀有かめあり凪沙です。あなたはブランツィノさん、でしたよね?」


 首を傾げると、青年は得意げに胸を叩きつつ口を開いた。


「おう。俺はここで何でも屋をやってるブランツィノだ。どんな事情があろうがお客さんには誠心誠意のおもてなしをするのが流儀だから、ナギサちゃんのこともいつでも歓迎するぜ」

「はい、ありがとうございます」


 どんな事情があろうが。

 もしかしてブランツィノさんは、私がオセアーノだと気付いている?

 直接言われた訳じゃないからその真相は分からないけれど、とりあえず悪い人では無さそうだ。信用しても大丈夫だろう。


 と警戒をゆるめたところで、アーシムが間に割って入ってきて呆れたような声音で囁いた。


「ナギサはあんまり関わらない方がいいよ。この人はただ若い女の子が好きなだけだから」


 え、今の優しさの裏には下心があるってこと? だとしたらドン引きなのだが。


 冷めた目で顎髭の青年を見やると、何を吹き込まれたかを悟ったようで。


「おいアーシム、ナギサちゃんに適当なこと教えてんじゃねぇ! 海伐軍の大佐なら正々堂々戦いやがれ!」


 まるで恋敵への抗議のような嗄れた叫び声が、英雄を讃える広場の喧騒の中に響き渡った。

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