碧き世界のサルバトーレ

横浜あおば

Ep1

第1話 浦島に助けられた亀

 二〇二〇年八月六日、東京アクアティクスセンター。


『さあ一際大きな歓声が上がりました。続いては日本期待の金メダル候補、亀有かめあり凪沙なぎさ選手の登場です!』


 高さ十メートルの飛び込み台の上。

 軽く腕を伸ばしてから、亀有凪沙は凛とした表情を浮かべ位置についた。


 コンディションは完璧。


 程よい緊張と興奮を感じながら、ふーっと息を吐く。


 何年も前からずっと、今日この時のために調整してきたのだ。フィジカルもメンタルも、調子は良いに決まっている。


『香川県三豊市出身。東京に向かう前に、友人が巫女を務めている高松市の田村神社でお参りをしたそうです。その神社に残る伝説。龍神、水の神様の加護を受け、どんな演技を見せてくれるでしょうか。そして、会場には家族。両親とお姉さんが応援に駆け付けてくれています』


 けして裕福な家庭ではなかったけれど、ここまで何不自由なく生きてこられたのは両親と姉のおかげだ。好きなことをやらせてくれたお父さんとお母さん、そしていつも味方でいてくれたお姉ちゃんに、ここで最高の恩返しをするんだ。


 目指すはただ一つ、光り輝く金メダル。


『感謝の気持ちを胸に。女子10m高飛込決勝、亀有選手一本目、今踏み出した!』


 プールの上に突き出た台の先端に向かって、助走を開始。

 歩幅を合わせ、反動をつけ。そして、いざ踏み切ろうとした、その瞬間。


「っ!」


 目に突然強い光が当たって。高出力のレーザーポインター。


 眩しいっ……!


 目が眩み、身体がよろめく。

 右足を踏み外し、そのまま飛び込み台から空中に放り出された。


 目に映る景色がぐるぐると回る。

 自分の体勢がどうなっているのか、上下の感覚もまるで分からない。


 ただ、観客数千人の悲鳴を聞く限り、よほど酷い落ち方をしているのだなと思った。


 ああ、終わった。

 私の夢も。

 選手生命も。

 人生、そのものも。


 悲鳴が止み、会場が異様なまでの静寂に包まれる。

 それと同時。


 水面に身体を打ったのだろう。

 激しい衝撃と痛みが全身を襲った。

 だけど、それはほんの一瞬で。


 凪沙の意識は、まるで夜の昏い海のような、深い闇の底へと沈んでいった。



 打ち寄せる波の音と、照り付ける日差しの暑さに、凪沙の意識がぼんやりと戻る。

 閉じた瞼と彷徨った冥界の暗さに慣れきってしまった目はまだ見えないが、三途の川の岸辺というわけでも無さそうで。どうやら生きているらしい。


 しかし、ではあの状況でどうして助かったのだろうか。しかも、プールサイドでも救護所でも病院でもない場所、それも外にいるのはなぜだろう。


 やがて光に目が慣れてきて、視界がはっきりとしてくる。


 仰向けに寝ていたから、まず見えたのは澄み渡る青空と、燦々と煌めく太陽。

 少しだけ首を動かすと、続けて真っ白な砂浜と打ち寄せる波。それとどこまでも広がる紺碧の海。

 反対側にも首を振って、こちらは切り立つ崖だった。


「無人島、みたいだけど……。私、なんでこんな所に?」


 くらくらする頭を右手で押さえながら身体を起こし、その場にぺたんと座る。


 オリンピックの会場で打ち所悪く入水して、恐らくは骨や内臓を損傷したはずだ。それなのにどこも痛くなく、腕や脚も問題なく動かせる。

 かといって治療された痕跡もなく、なぜか知らない場所に一人放置されている。

 この状況は、一体何なのか。


「……もしかして、ここが天国、なのかな?」


 生きているという感覚はただの錯覚で、ここはもう死後の世界なのでは。

 そう考えると全てに合点がいく、ような気もする。


 でも別に、今さらそんなことはどうでもいい。


 たとえ奇跡的に助かっていたとしても、きっと二度と競技には戻れなかった。

 私には高飛び込みしかなかったのに。それを奪われてどう生きろというのか。

 だからここが遠い国の無人島だろうが天上の理想郷だろうが、これで良かったのだ。


 病室でお父さんとお母さん、お姉ちゃんに慰められて。地元に帰ったら幼馴染のたまてやクラスメイトに励まされて。ネットには見ず知らずの人からの同情のコメントが溢れて。

 自分で見切りをつけるのはいいけれど、他人に終わったと言われるのは。決めつけられるのは。それだけは絶対に嫌だから。


「このまま放っておかれた方が、よっぽどマシだよ」


 呟いて、遥か遠くの水平線に目を向ける。

 蒼穹と紺碧の曖昧な境界。じっと眺めていると吸い込まれそうになるほどの、そのあおいろ。


 無際限に広がるその色の中に意識が引き寄せられていた凪沙は、だから迫り来るそれに気付いていなかった。


 びたびたっと勢いよく身を震って、水しぶきを撒き散らした銀色の何か。

 気配にはっと振り返って、すぐ背後にいたその存在に全身が総毛立った。


 ぎょろりとした丸い碧い目でこちらを見下ろす、青魚の頭の上半身からすらりと長い人の脚が生えた半魚人。


「生足魅惑の、マーメイド……」


 あまりに異様で不気味な化け物を前にすると、人間の脳は下らないことを考えて現実から逃れようとするらしい。口から漏れたその言葉を首を振って追いやって、眼前の怪物への対処法を思案する。

 でも、パニックになった頭は働かず、恐怖に凍った身体は言うことを聞かない。

 逃げなきゃ。

 分かっているのに、立ち上がることも後ろに退がることも出来なくて。


 そんな凪沙をあざ笑うかのように、異形の魚は手の代わりの黄色い胸ビレを高々と振りかざし。そして、容赦なく叩き潰そうと。


 刹那。半魚人が三枚下ろしの如く斬り刻まれた。


「っ……!」


 とても自然界のそれとは思えない蛍光緑の血が飛び散って、砂浜をおぞましく染め上げる。

 ばたりと倒れた魚の脚の向こう。剣に付いた緑の鮮血を払って鞘に戻して、男が手を差し伸べつつ言う。


「大丈夫かい、お嬢さん?」


 見上げた先、優しく微笑む茶髪赤目の好青年。

 この時彼がわずかに頬を赤らめたのを、戦慄している凪沙は気付かない。


「あ、ありがとう、ございます……」


 心臓のどきどきを抑えられないまま、なんとか彼の手を取って立ち上がる。


「お嬢さんはどうしてこんなところに? しかも一人で」


 質問されて、答え方に戸惑う。

 正直に話したとして、果たして信じてもらえるだろうか。

 もし信じてもらえたとして、どんな反応をされるだろうか。

 事故で選手生命を絶たれた可哀想な人。とんだ期待外れに終わったメダル候補。そういう目で見られるのではないか。


 俯いて口籠もってしまった凪沙に、青年は少し申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめん、怖がらせちゃったかな? 別に僕は海洋民族オセアーノを敵とは思ってないよ。だから安心して」

「オセアーノ?」


 聞き慣れない単語に、首を傾げる。

 すると、彼もまた同じように不思議そうに首を傾げた。


「君みたいな銀髪碧眼の人は自らをオセアーノって普通言うんだけど、違ったかい?」


 私が、銀髪碧眼? そんなはずは。

 否定しようとしてふと思う。

 確かに考えてみれば、今着ているのは飛び込み用の水着じゃなくて古びたフーデッドケープだし、身体にあの事故の痕跡は無い。


 つまり私は、全くの別人に生まれ変わった? もしくは乗り移った?


「あの。すみません、ちょっと記憶が曖昧で」


 正確に状況が把握出来ない以上、とりあえずここは誤魔化すしかない。

 言うと、彼は眉を曇らせて考え込むような仕草をした。


「砂浜に漂着した記憶喪失者の話って、どこかで……。ああそうだ。まさか、攫い波の伝承は実話だったのか」

「えっと、どうかしましたか?」


 何かに思い至った様子の彼に、凪沙は訊く。


「この世界には、攫い波っていう伝承があってね。その波に呑まれると身体だけでなく記憶まで攫われて、見ず知らずの土地に流されてしまうって話なんだけど。本当に攫い波に呑まれた人と会うのは初めてで……」

「攫い波、ですか」

「うん。何か一つでも覚えてることがあれば手助けもしてあげられるんだけど、難しいよね」


 その伝承の通り、攫い波に呑まれたのならきっと何も覚えていないのだろう。

 けれど、自分は本当のことを言うのが怖くて、そもそも伝わるのかも分からなくて誤魔化しただけ。記憶ははっきりと残っている。


 この世界はどうやら私の知っている世界ではない。どうせこの世界に私を知っている人はいない。

 だから、せめて名前くらいは教えてもいいのではないかと思った。


「いえ、少しは覚えてます。私、亀有凪沙って言います。十六歳です」


 勇気を振り絞って、はっきりと彼の目を見て伝える。


 攫い波の被害者だと思っている人物が自らの名前と年齢を覚えていたことに、彼は少し驚いたのかわずかに目を見開いた。

 しかし、すぐにふっと柔らかい笑みを浮かべて。


「ナギサ、か。いい名前だね。僕はアーシム=アタロー。リューグ王国海伐かいばつ騎士軍、遠洋遊撃隊大佐だ」


 まるで血液型とか星座でも言うかのように、名乗った後にさらりと階級を告げた。


 それがあまりに唐突だったから、凪沙は彼から差し伸べられた手を無視してしまう。

 若干の間が空いた後、握手を求められているのだと気付いて慌ててこちらも手を差し出す。


「ナギサのことは僕が絶対に守るから。これからよろしくね」

「はい、よろしくお願いします。アーシムさん」


 僕が絶対に守るから、なんて。まるでプロポーズの言葉みたいだなと思って、ちょっぴり恥ずかしい気持ちになる。彼はただ騎士として当然のことを言っただけだろうに。

 そんなおかしなことを考えるから身体が熱くなってしまった。握った手を通して伝わっていないといいけれど。


 幸い、アーシムは目を俯けていた上にすぐに手を離したので、きっと大丈夫だったはず。

 でも、握った手から伝わってきた彼の体温もなぜだか少しだけ高かったように感じたのは、私の気のせいだろうか。

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