第29話 moon phase 18

土曜日の半日診療の受付時間も過ぎて、今日は比較的穏やかだったなと愛果が肩の力を抜いた途端、入り口の自動ドアが開いた。


小さな女の子を抱いた父親と思われる男性が、申し訳なさそうに頭を下げる。


この辺り唯一の内科医院で、徒歩圏内に小児科が無いため、地元の子供たちはほとんど山尾医院に通って育っている。


今日のように受付時間終了直後に駆け込んで来る患者も珍しくない。


レジを締めようが、器具の後片付けを始めていようが、山尾が院内に居る時は受診するのが暗黙のルールになっていた。


森井いわく、これは先代の頃から変わっていないらしい。


まだ行けますか?の声がかかる前に、受診できますよと伝えようとした矢先、女の子の父親が口を開いた。


「すいません。さっき若先生に連絡した秋吉です」


こういうパターンはよくあって、山尾自身の知り合いは、大抵が山尾医院の固定電話にではなくて、山尾本人に直接診察を依頼してくるのだ。


恐らく今回もスマホに直接連絡が入ったんだろう。


「あ、はい!若先生ー!連絡済みの秋吉さん来られましたよー」


診察室に向かって呼びかけると、すぐに山尾が受付に顔を出した。


「秋吉、早かったな。長谷さん、今言おうと思ってたんです。ちょっと遅かったですねすみません」


「いえ。締め作業まだなので、大丈夫です。そのまま入っていただきます?」


「うん。そうします。この子下の子だっけ?」


「そう。萌。あ、保険証カバンの中やわ・・・いっつも病院周りは嫁任せで・・・」


「後で大丈夫ですよー。うちを受診された事っておありですか?」


「去年一回診て貰ってるはず・・・・・・あ、いやそれは凛かな?」


「いいよいいよ。長谷さん、秋吉萌ちゃんでカルテ検索してみて。無かったら教えて貰えますか?」


「分かりました。薬局さんにも一報入れておきます」


「助かります」


頷いた愛果を確かめてから、山尾が秋吉を促して診察室に入っていく。


見た感じ山尾の同世代のようなので、幼馴染の一人なのかもしれない。


地元のお馴染みの薬局は、山尾医院から徒歩数分のところにあって、土曜日のこの時間は先に連絡を入れておかなくては閉店作業に入ってしまうので、まず先に薬局に、小さいお子さんの診察が入った事と、薬を処方する可能性があることを連絡する。


その後で、山尾から言われた通り”秋吉萌”の名前で検索を掛けると該当と思われるカルテが出て来た。


自分たちの年齢を考えれば、あの歳の子供がいたっておかしくないのだ。


下の子、ということは上の子供はもっと大きいはずだ。


二十代半ばで結婚して、子供は二人、なんて順風満帆な人生だろう。


どこにも類似点が見つけられない自分に歯がゆくなりながら、どこで別の選択肢を選んでいればこういう人生のルートに入ったのかと悩み始めたところに、診察室の話し声が聞こえて来た。


いつも流しているクラシックのBGMを止めてしまった後だったので、会話が綺麗に聞き取れる。


「萌ちゃん、熱いつから?」


「朝起きた時からめっちゃ機嫌悪くてな、朝飯もほとんどいらんー言うてて、千朋おらんから機嫌悪いんやろてうちの母親と言うてたんやけど、おやつちょっと食べた後からぐったりしたままやったから心配なって・・・」


「そっか、奥さんいま実家だっけ?・・・・・・萌ちゃん、ちょっとお腹見せてねー」


「そう。上の子連れて帰っとるねん。凛は大抵のこと一人で出来るからええんやけど、萌はまだまだ手ぇかかるから・・・・・・しかも、上二人と悪阻の具合が全然ちゃうんよ。千朋は年のせいやとか言うとったけど、俺今度は男の子のような気ぃしててさ」


「あー・・・たしかに、女の子と男の子じゃ変化も違うって聞くしね・・・はい、萌ちゃん今度は背中ねー・・・・・・・・・・・・森井さん、大丈夫。お薬でいけます。うん、風邪だね。ちょっとお腹冷えちゃったかな?」


「夜にさぁ、暑がったから一枚脱がせたんよな。宥めてもふた言目にはママーやし。テレビ電話で喋ってバイバイした途端ぐずるぐずる・・・」


「お姉ちゃんはママにべったりなのに、なんで自分は一緒じゃないのって?」


「そう。ほんまは千朋が二人とも広瀬の家に連れて行こうかって言うてたんやけど、それやと身体休めれんやろからいうて萌は俺が見るわって言うたはええんやけど・・・もお一人でてんやわんやよ」


「パーパー」


「ん?どないしたん?お薬飲んだら元気なるから、大丈夫やで」


「ママとねぇねはー?」


「ほらこれや・・・・・・んーママとねぇねは、ママのばぁばのお家やから、後で電話しよかぁ」


「もしもしするぅ?」


「うん。もしもししよ。なんかちょっと元気なっとるやん萌。さっきまで喋るんも億劫そうやったのに・・・・・・若先生んとこ来て良かったなー」


「そう言って貰えて嬉しいよ。子供って布団蹴りがちでしょ。実家だし、秋吉と一緒に寝てるなら尚更冷やさないように気を付けてあげて」


「分かった。ほんま助かったわ・・・・・・ん?なに?」


「いやー・・・・・・・・・秋吉もすっかり父親だなぁと思って・・・」


「平日は全面的に千朋任せなことが多いから、満点ではないで。萌の機嫌と体調に振り回されとるし」


「こんな小さい子がいたら、どうしたってそうなるよ。仕事も忙しいんだろ?よくやってるよ」


「いや、それは山尾の方やん。医大行ったって聞いた時もびっくりしたけどほんまにこっち戻って病院継ぐとか・・・間違いなくうちの三人目もお世話になるから頼むな」


「男の子だといいね。俺らの草野球チーム入れる?」


「んーそやなぁ。まあ元気に生まれてくれたらなんでもええねんけど・・・とりあえず男の子やったら、野球は勧めてみるわ」


「そうだね」


「後さ、この前の練習でも言うたけど、結婚考えるんやったら俺の仕事場に独身のめっちゃ気の付くええコおるから」


まさかここで婚活話が出るとは思わなくて、マウスを動かす手が止まってしまった。


地元民からの信頼も厚い開業医で、見た目良し性格良しの男が35を目前に未だ独身なことがまずもっておかしいのだ。


お願いだから頷かないでと祈るように目を閉じた愛果の耳に、山尾の穏やかな声が聞こえてくる。


「それこっちに戻って来た時、大にも言われたし、この前悠はるか連れて来た杉浦にも言われたよ」


「みんな若先生のこと心配してるんやで」


「ありがたいけど・・・・・・まあ、しばらくはこのままかなぁ・・・・・・もう焦る歳でもないしね」


「そっか・・・・・・まあ、無理にとは言わんけど」


意外とあっさり引き下がってくれた秋吉の言葉にホッとした途端、再び自動ドアが開いた。


「あのう・・・・・・すみません・・・息子が孫を連れてこちらに来ていると思うんですが・・・」


「あ、秋吉さんですよね?はい、いま診察室に」


神妙な面持ちで入って来た年嵩の女性が秋吉萌の保険証をカウンターの上に差し出した。


「慌てて飛び出したもので、保険証を忘れて行ってまして・・・ご迷惑をおかけしてすみません・・・それで、あの孫の具合は・・・?」


心配そうな彼女に、愛果はめいっぱいの笑顔を向けた。


「大丈夫ですよ。お薬処方されるようです。おかけになってお待ちくださいね」

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