第39話 春待月

結婚祝いに職場の同僚達からプレゼントして貰ったコーヒーメーカーから、熱々のコーヒーをマグカップに注ぐ。


ブランドのお揃いのマグカップは、勤務先の医師からの結婚祝いで、それを選んでくれたのは彼が一途に思いを寄せている女性だった。


しまい込むと、夫に余計な詮索をされそうで、普通に日常使いにしている。


叶わない片思いに終止符を打ったのは自分自身だし、それは彼もきちんと承知してくれている。


そこには齟齬はないはずだ。


が、未だに朝長は山尾に対するライバル意識があるらしい。


愛果にしてみれば、比べるまでもなく朝長のほうが魅力的に映っているのに。


結婚してから朝長から向けられる愛情は増えて行く一方で、愛果が彼に自分を委ねてから、さらにスキンシップは増えて、最近では一緒に出勤する朝はエレベーターの中でもキスを仕掛けてくるから困る。


駄目と拒む愛果を甘ったるい眼差しで見つめて、分かったよと素直に応じた彼にホッとした直後に不意打ちを食らったのが二回。


三回目は是が非でも阻止しなければならない。


防犯カメラに映ってる、と叱りつけた新妻を、愛果の顔は見えないから平気だ、とよくわからない理屈をぶつけて来た夫の愛情は、もう疑うよりもない。


お見合い結婚だとは思えないくらい、朝長は愛果を溺愛している。


それはもうしつこいくらいに。


壁掛け時計を確かめて、テレビをつけていつものニュース番組でも時間を確かめてから、ベッドルームをノックする。


「蘇芳・・・そろそろ・・・・・・あ、おはよう」


やっぱり今日も、すでに着替えを終えた彼がこちらを振り向いてきた。


結婚してからこちら、愛果が夫を揺すり起こしたことは一度もない。


あの頃よりずっと精悍になった面差しを柔らかく緩めて、シャツの袖を捲りながら朝長がベッドルームから出て来る。


「おはよう。コーヒーのいい匂いがするな。あと、オムレツ?」


キッチンをちらりと伺ったあとで、朝食準備に戻ろうとする愛果を抱き寄せて額にキスを一つ。


選んだネクタイを椅子の背に掛けた彼が、廊下に出た。


「スパニッシュオムレツ、でもちょっと焦げちゃったの。ごめん」


「ははっいいよいいよ。寝坊したんだろ。なら俺のせいだよな?喜んで食うよ」


心底嬉しそうに言って彼が洗面所に入って行く。


ようやく見慣れた光景になった朝のひと時だ。


真新しいエプロンは、ちっとも身体に馴染んでくれないけれど。


彼が戻って来る前に、ちょっと焦げたスパニッシュオムレツとサラダをプレートに盛り付けて、保温していたトースターから薄切りの食パンを取り出す。


バターを乗せるとちょうど彼が戻って来た。


すっかり出勤準備を整えた旦那様が真向かいに腰を下ろせば、朝長家の朝食の始まりだ。


タブレットを開いて経済新聞に目を通しながら、聴こえて来るニュースの気になるトピックを横目で追う朝長が、ちょっと焦げたスパニッシュオムレツを口に運んで笑顔になった。


「大丈夫。ちゃんと美味いよ」


「ん。なら良かった」


料理上手とは言えない愛果は、結婚が決まってから大急ぎで料理教室に通い仕事以外のほとんどの時間を料理の練習に費やした。


おかげでどうにかそれなりのものを作れるようになったけれど、睡眠時間が足りないとつい油断して料理を失敗してしまう。


新婚のうちは甘い顔をして貰えるかもしれないが、さすがに何年もこのままじゃ、とそこまで考えて、朝長ならあり得るなとなんだか申し訳ない気持ちになった。


やっぱり、料理教室にはこのまま通い続けよう。


誰かの為に手料理を作る自分は、嫌いじゃない。


「愛果、今日仕事だろ?分かってたのに・・・・・・遅くまで離してやれなくてごめん」


タブレットから視線を愛果に戻した朝長が穏やかに問いかけて来る。


昨夜の名残を思い出させるような笑顔に、胸の奥がきゅうっとなった。


「え!?ぁ・・・うん・・・だ、いじょうぶって言うか、朝から言わないでよそんなこと!!!」


「いま言っとかないと、タイミング失くすから」


「失くしていいよそれは!」


「・・・・・・嫌じゃなかった?」


悪戯っぽく瞳を輝かせる旦那様は、愛果の返事を知りながらこんな質問をしてくるのだ。


優しいだけじゃなくなった彼の魅力は増すばかりである。


「・・・・・・言わなきゃダメなの?」


「なんでも隠さず話し合おうって言っただろ?」


「~~~っ嫌じゃなかった・・・」


「じゃあ悦かった?」


「も、もうほんとにご飯食べて!!!」


さすがにこれ以上は言い返せないと頬を押さえれば、朝長が楽しそうに笑い声を上げた。


結婚を決めた時、このまま仕事を続けたいと言った愛果を朝長は快く受け入れてくれた。


お互い32歳と決して若くは無かったけれど、彼は子供については一切言及してこなかったし、実際に夫婦生活が始まってからも避妊を怠ったことは一度もない。


彼と結婚するまで男性経験が無かった愛果と、愛果と再会するまで何年も性欲も男性機能も失われていた朝長は、つい先日晴れて本当の夫婦になったばかり。


しばらくは二人きりの時間を満喫したいと言った朝長に、愛果も迷うことなく頷いた。


愛果が朝長に身体を赦すことを決めて、夫婦での営みを始めてからも、完全に身体を重ねるまでそれなりに時間が掛かったし、まだあの行為に慣れたとは言い難い。


緩やかに愛果の身体を蕩けさせて弾けさせて、朝長が丁寧に下拵えをしていく間に、一度目の限界は訪れて、けれど当然それで終わるはずもなく、愛果の反応を伺いながら腰を使う彼に揺さぶられているうちに意識を飛ばしたことも一度や二度ではなかった。


32年間何も知らずに生きて来た身体に、一気に投下された愛情と蜂蜜は結構な重たさだ。


今更これを手放せと言われても、もう頷けないけれど。


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