第3話 わや

「俺は生贄など望んでいない。

 お前は……もう里に帰れ」


 ぬし様に言われてやえは思わず立ち上がっていた。


「何を言うちょるんですか?!

 そんなんわやです。

 ちばけとるんですか」


「落ち着け。

 何を騒ぐ?

 人里でこれまで通り暮らせるのだぞ」

「いけんです。

 うちは……主様に捧げられたです。

 もう主様の物だと思うちょります」


 何処かでため息をつく音が聞こえた。


「やえと言ったか?

 来てみなさい」


 今度は方向が分かる。洞穴の入口のそばで声がする。

 ぼんやりと明るい中、大きなシルエット。

 やえはゆっくりと洞穴の地面を歩く。

 足の裏が伝えるのはごつごつした岩の感触。暗闇の中、岩場を歩くのは危険な行為だがやえにとっては普段と変わらない。

 薄ぼけた闇の中を進み明りの中へ。そこさえも薄ぼけた世界に変りは無い。

 

 辺りが薄い橙色に包まれている。夕暮れ時が来ているのだとそれで分かった。


「どうだ、娘。

 これで分かっただろう?」

「はい、もう夕方になっちょったですね。

 それって……わたしが子供やって意地悪言うちょるですか。

 子供には夕方になったら家に帰れ言いますもんね」


「違う!

 見て分からないのか。

 恐れないのか。

 俺を見て何故驚かない?」


 見て分からないのか、と言われても。やえには何も見えてはいない。

 自分が洞穴から出た事は分かる。広場のような空間が在って、その先に木々であろう壁。森が橙色に包まれ夕焼けなのだろうと分かる。


 その前に少し大きな影がある。もしかしてこの影が主様だろうか。


「うちを驚かそうとしたですか?

 主さんは意外と意地悪じゃ」

「娘……お前……

 もしかして目が?」


「やっと気付きましたか。

 騙そうとしたんじゃないです。

 言う暇が無かっただけです。

 やえは目が悪いです」


 そう言うと人影の様な物は近づいて来た。やえの顔に視線が集中する気配がする。

 男の人の呼吸音。だけど、少しくぐもったような人間の呼吸にしては変った音。

 近付いて来た物は白かった。白い毛皮を着ているの?


 手らしき物が伸びてきて、やえの頬に触れる。暖かくて柔らかな感触。下男に触れられた時に感じるようなぞっとした物を一切感じない。


「ここまで近づいても分からない程、悪いのか」

「いいえ、主様の手は見えます。

 主様は毛深いんじゃね」


「……もっと近づくぞ」


 呼吸をしてる口元が……

 やえの顔のすぐ近くに……

 少しやえが顔を突き出したなら、頬が触れあう程の距離。


「どうだ、分かったか?」


 鼻から先が前面に突き出し、耳らしき物も見える。全てに白い獣毛が生え、人間の頭部とは明らかに異なる形状。

 間近で男の声がして、やえは答えていた。


「ははあ、主様はお犬様じゃったんじゃね」

「違うっ!

 犬では無い狼だ。

 俺が山の主、白狼だ!」

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