参:狐が人をさらった話

 もう別の建物に替わっておりますが、昔はこのあたりに製糸せいし工場がありました。ご存知ですか、蚕の繭から糸を紡ぎだして、絹糸にする工場でございますよ。

 まだ明治の頃だったでしょうか、ある男が妻と小さな娘を連れて、その工場あたり、つまるところこの土地にふらりと現れたのです。

 その一家がどこからどのような理由でやって来たのかはもう知りようもありませんが、ここに居着いてからは農家から蚕を買って工場におろし、工場から生糸きいとを買っては商家へ売って飯のタネとしておりました。

 最初の数年は夫婦ともに忙しく走り回っていたので、繁盛していたのでしょう。幼い娘は見知らぬ土地に一人放っておかれ、野狐あたりしか遊び相手もおらなんだようですが。

 しかしそれも長くは続きませんで。蚕が病にでもかかったか工場の経営方針が変わったか、いえ詳しくは存じませんが、ある日ぱったりと収入が途絶えたのです。

 借金だけは膨れ上がり、もはや手元の価値あるものといえば年頃に成長した娘のみ。

 そしてその娘が地主だか工場の主だかいう老いた金持ちの後妻として嫁ぐ日のこと。

 婚礼の宴の席に、細身の若者が乗り込んだと聞いております。そして若者と娘の二人が、手に手を取って野に駆けていったと。

 ところがあとで尋ねてみても、その若者がどこの誰なのか知る者がおらぬのです。ただ顔を狐の面で隠していたと、今でも語り伝えておりますからね。狐なんでございましょう。

 え? 娘の父と母のその後ですか? それはまあ売り物むすめに逃げられたのですから、借金で回らなんだ首を縄にくぐらせたのではありますまいか。

 まこと畜生の所業でございますね、親と娘のどちらがとは申しませぬけども。

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