第11話 悪意なき虐待
曇天に冷たい風。せまりくるような鈍色の雲を見ていると、日に日に冬らしくなっているなと思う。
体調が芳しくなく、家事の合間に体を休めていたらぐっすり眠ってしまった。バイオリズムの関係性で仕方がないとはいえ、腹部の鈍痛と強い眠気が鬱陶しい。
在宅の仕事の締め切りが迫っている事を思い出し、掃除をあきらめ、提出物をあわてて仕上げた。
息子のサイズアウトした服をメルカリに出品したいし、部屋の細かな所の整理も終わっていない。不衛生とまでは言えないと思いたいが、棚の上には物が乱雑に積み重なっている。部屋の至る箇所が「整理整頓をなんとかしてくれ」と、後ろ髪を引っ張っているような感覚。
ADHD丸出しである。
しかしながら、心安らかに掃除が出来るのは本当に幸せな事だと私は思う。(上記の段階では掃除してないのですけれども)
私が不登校だった、中学校時代の頃の話だ。
当時の私は、今の自分からは考えられない程、整理整頓や模様替えに熱中していた。家具の配置にもこだわり、チリ一つないように部屋の床を磨き上げるのも忘れない。当時の自分を今の家に雇いたいほど、きっちりと掃除ができていたのである。
母からの評判も良く、仕事へ行くようになった母の代わりに、掃除の担当は私となった。
母も、過集中(周りが見えなくなるほど目の前の出来事に集中する事)時には、掃除も料理も上手であったが、集中が途切れると途端にやる気がなくなる人だった。だから、私の模様替え趣味は願ったり叶ったりだったようだ。
自室や共有スペース、両親の寝室などの掃除は特に気にすることなく行えたのだが、問題は父の書斎であった。
父の部屋を掃除すると、エロ本だの怪しいサプリだの、果てにはビキニの下着だの。家庭の平和を壊す要因がボロボロ転がってきて嫌だった。
いつしか、父の部屋は彼自身が掃除するようになり、母も、ヒモパンだのビキニだのの洗濯を嫌がるようになって、洗濯も父が自分でするようになった。
父は、私が小学生の頃から「精力増強剤」だのそれに準ずる、「そっち系の体調を整えるサプリ」を飲んでいた。時々、飲みそこねた錠剤が床に転がっていて、何のサプリか調べた母が発狂していたから、よく覚えている。そう、服用目的は夫婦生活のためではないのだ。
そこまでして女遊びを辞めないのは、彼自身、性に倒錯するしかない程生き辛い特性の持ち主だったのだろうと今なら思える。
父は人の気持ちが判らないから頻繁に失言をしていたし(時に母と私がそのとばっちりを受けて非常に迷惑だった)気も利かないから、仕事も営業では惨憺たる有様だったようだ。
父自身、母に「ありのままの自分」を認められず厳しく英才教育を受けた人だったので、「すごい自分」という自己像から外れた「本当はさほどすごくない自分」を頑として受け入れない病的な所があった。常に「自分はすごいんだ」とアピールしていないと折れてしまう自我の脆さを抱えていたように思う。
そう、私の書いた小説『最期の最後に贈る うた』に出てくる両親は、私の両親をモデルにしている。
ちなみに、エッセイではけちょんけちょんに書いている両親だが、ともに一流大学を卒業している家柄の良いお坊ちゃん、お嬢ちゃんである。
人が歪む要因は決して、学歴だけでは無いのだろう。
母は、私がまだ幼児だった頃から、「父とは、新しい兄弟が出来る程、仲良くない」と、呪詛のように言い聞かせていた。その上、夫婦生活についての喧嘩を思春期の子供の目につく所でするような、配慮のかけた人だった。
ようするに、子供が寝静まってからタイミングを見て話しをする……といった風に、「不安を自分の中に持っておけず、すぐに誰かに話してしまう」性格の人だったのだ。だからこそ、なんでも思い立った瞬間にすぐ、喧嘩をしたし父をなじっていた。
父も父で、女遊びをやめて家族に向き合う事が出来ない人であった。それは、発達特性に加えて、彼自身の歪んだ自己愛が相互作用を起こしてそうなっていたのではないかと思う。
父は、「自分が楽しければ相手も楽しい」し、「自分に見えないものは、無いのと同じ」という、典型的なASDの特徴を持ったうえ、証拠隠蔽能力がザルだという、心底困った特性を持っていた。
私が小学校低学年の頃だっただろうか。そういうお店の女性から年賀状が来て、大激怒した母がハガキをバラバラに引き裂き、庭先で燃やしていた記憶がある。女遊びの遍歴はまさに、筋金入りと言っていいだろう。母にとって父との結婚は、心休まる夫婦関係と無縁の物だったのかも知れない。
父は私を猫かわいがりしていたが、夫婦関係を改善しなければ、母親が子供に過干渉になり悪影響を及ぼすという事が理解できなかったようだった。
そして、娘を盲目的にかわいがる割には、小学校高学年頃の成長した体を意図的に触るなどという無神経な事をした。詳細は省くが、事故ではない。カウンセラーと確認して、「虐待」に値する行為だったとだけ記したい。
「小さい頃の記憶なんて、どうせ忘れるだろう」とでも思ったのだろう。とにかく、自分の都合の良いように激しく記憶を捻じ曲げる人だった。
年を重ね、その事実が苦しくなった私が父を責めると、目を泳がせて「あ、覚えていたの」と言ったのを、今でも忘れていないし、決して許すつもりもない。
父との楽しい思い出はたくさんあったし、習い事もさせてもらっていた。家族としての仲は、ある面からみると良好だったかもしれない。しかし、その一点だけが黒い染みとなっている。そしてその一点をきっかけに、父は私を徹底的に避けるようになった。
そう、私が「その事」を無かった事にしていれば、父と娘の関係性は良好なのだ。
しかし、義姉を通じて「普通の父娘関係」を知り、子供が大きくなってゆくにつれ、だんだん自分が尊重されていなかった事実に気が付き始めると、封印していた記憶が掘り起こされて、私はもう、我慢できなくなった。
辛かった。
いつも、私が我慢しないと、家族は仲良くしてくれない。もうそんなのは、御免だった。だからすべてを父にぶちまけた。
今では、父に必要事項を連絡しても、何の返答も帰ってこないし、息子の誕生日や祝い事に関しても、精神に病を抱えた母が言い出さなければ何もしなくなった。
父は、娘と向き合う事から逃げたのだと、私は認識している。
結婚してしばらくは、夫の部屋が掃除できなかった。それは、掃除をすると家庭が壊れてしまう“何か”が出てくるのではないかと不安だったからだ。「そんな物は出てこない」と確信を得るまで、時間がかかってしまった。
今では心置きなく、すべての部屋の掃除機をかけることができる。それはなんと、幸せなことかと思うのだ。
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