第17話

 朝の四時だというのに、狂ったかのように、ひぐらしが自己主張する。言っておくが、まだ陽は暮れていない。鶏程度の時間感覚も持ち合わせていないひぐらしどもめ。日中は日中でセミがうるさいので、昼寝もようようできない。夜は八時には寝てしまうせのんはまだ夢の中だ。きっと五時になってどこからともなく寺の鐘が聞こえてくる頃には目覚めるに違いない。せのんが目覚めるまでの一時間で今日の服装と、決闘の内容、せのんの世話について考えなければ。

 風子かこはジャージで来いと言ったが、僕は学校指定のジャージひとつしか持ちえていない。運動部に入る気もなく、学校に「置きジャージ」している連中もいるくらいだ。体育が二日続きの時はそのまま着て、次の体育までの数日間で洗濯している。今は水泳の授業で、ジャージは使わない。だからこそ、僕が持つ唯一のTシャツがせのんのパジャマ代わりになっている訳だ。夏の季節だから洗えばすぐに乾くが、せのんが目覚めてから約束の九時までに乾くかと言われれば怪しい。かと言って、夏服のポロシャツも二枚しか持っていない。ひとつは昨日の一件で、土まみれ、鼻血まみれで、漂白中だ。万が一、汚れが落ちなかったら、残るポロシャツは一枚だけ。そのポロシャツを決闘に着ていくには勇気が要る。

 そこで男らしく、上は裸ジャージ、下は若者らしくハーフパンツという格好になる。裸ジャージは、気持ち悪い。筋肉もろくについていない僕が着ているという点と、一応有名なスポーツブランド品ではあるが速乾性重視のためにザラザラした裏地が肌を刺激する点だ。しかしながら、下着のランニング一枚にハーフパンツでは誰かさんにしか見えないし、貧相な上半身も晒したくない。だからこその、ブカブカのジャージであるのに。必要なときに使えないなんて。くそ。結局、ジャージの下に、ランニング一枚というのは僕の美学に反するので、仕方なしに裸ジャージを決め込む。こんなとき、幽霊部員でもやっていれば、運動部の背中に堂々と学校名が書いてあるジャージを切られたのにと残念でな、ない。

 次に決闘の内容は、風子と話し合い決めることにする。一方が勝手に決めたのでは、フェアでない。

 最後に決闘の間、せのんをどうするかだ。幸福屋の店主には、休みの日にまで預けにくるなと釘をさされている。ということはだ。「預け」るのではなく、同じ空間にいて、せのんを見てもらうのならいいのではないか。交友を深めるために、一緒に川原でエンジョイしましょうとか何とか言えばどうにかならないでもない気がする。あの狡猾、いや、聡明な店主にこのようなとんちがきくかどうかわからないが、試してみる価値はあるだろう。

「芋煮でもするのか」

 そうか。このあたりでは、「川原でエンジョイ」=「芋煮」なのだ。関西出身である店主は噂には聞いたことがあるが、実際には見たことがないから是非参加したいと乗り気だ。決闘は九時からの約束だから、昼までには終わるだろう。その後で芋煮パーティーを開けば何も問題はない。せのんも芋煮と聞いて、目を輝かせている。せのんが芋煮に使う食材がわかるというので、スーパーが開くのを待って買い物に行き、鍋やら食器やらと一緒に持っていくと店主が言う。自分もいくらかお金を払うと言ったら、懐中時計の五千円から出すそうだ。懐中時計を買って、おまけにせのんがついてきて、おいしい芋煮にまでありつけるというのだから胸がじんとした。お金を払って、買う「幸福」とはことことかと思う。

 市中を西から逆「く」の字に流れる川。この川のせいで、北側の区からまっすぐ南に下りてくる地下鉄が川に沿うようにして、屈折する。だから、南北の移動には便利なのだが、市営地下鉄はバスに比べ、短い区間では割高で東西の移動には適さない。そのうち、地下鉄の東西線ができると聞いたが本当かどうかわからないので、とりあえずはバスに乗ろうと思う。

 川原へと下りる階段を探し、心地いい音をたて行く。橋から見下ろす川は、二重カルデラ湖ほどの深さはないにしろ、落ちたら海までノンストップで流されるのではないかと危惧するほどの高さと幅がある。だから、いつも橋を渡るとき、せのんと手を繋ぎ、道路側を歩かせている。僕がビート板を使ってではあるが、泳げるようになったのはもしものことを考えてだ。僕の今の偏差値は五十そこそこで、六十がとれたら運がいいほうだが、せのんのためなら偏差値九十だってとれる。何故なら、これはせのんの神たる者の義務だからだ。

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