第15話
六時間目と七時間目の数学の時間は、蒸し暑い教室でやけに肌の黒い男性教諭が初歩的な計算ミスを連発し、数学はできないが珠算の一級と暗算の二級を持っている僕を持ってして「こいつ、大丈夫か」と思わせた。実際、無事ではなかったらしく、とある運動部の顧問を務める男性教諭は、先月行なわれた高総体の県大会にて、一日中外に居ることを事前に知りながら、日焼け止めを塗らずかような事態に陥ったらしい。皮膚科の医者に怒られたと嘆いたが、当たり前である。どうしても皮膚がんで死にたいのなら、話は別だが。SHRと掃除を終え、僕は幸福屋へ向かう。
「少年は数学ができなくて、どうやって医者になるつもりなのか」
昼休み以降の怒り、恐怖、疑念を幸福屋の店主に聞かせた感想だ。
「いえ、特別、医者になりたいという訳ではなく、看護師でも、薬剤師でも、検査技師でも、医療従事者なら何でもいいのです」
「教科書を丸暗記すれば偏差値六十なんて簡単にとれるぞ。まずは全教科の平均偏差値を六十以上にしてから、そういう戯言を言え」
僕はただ今、反抗期の真っ最中だと自覚している。大人に逆らいたくて仕方無い。
「そもそも医学部の先生方には理系、文系という枠組みは無意味だという意見も」
「生物、化学、物理。何ひとつ理解せずに、医者になるというのか。ばかげている。医師として働いていた僕が言うのだから、これは信用できる話だ。少年の言う先生方が言うのは、医学部は辞書を丸々一冊覚えるような勉強が必要だから、文系の知識を体系化して覚える能力も必要だという意味だ。理系科目を勉強しなくてもいいという意味では断じてない」
至極まっとうな意見だと思う。
「知り合いの医学生にも同じこと、言われるのでしょうね」
「せのんの神を名乗るなら、勉強くらいしろ」
僕は言われて、うなだれる。やはり、僕の努力が足りないということなのか。せのんが動かない僕を心配して、顔を覗き込む。
「僕は、せのんの父親失格だ」
せのんが、泣く。せのんが、僕を叩く。店主に殴られる。
「本気で言っているのか。
血の味がする。鼻血が止まらない。頬が熱を持ち、痺れる。せのんの泣き声が大きくなる。でも、遠い。遠い場所で起きていることのようだ。
「どうしたら、そんな無責任なことが言える? お前、昨日の涙は何だった? 本当はこれっぽちも理解していなかったのか」
僕は絞り出すように言う。
「僕には、無理です」
「何故、言い切れる。お前が本気出し始めたのなんて、つい数年前のことだろう。ちょっとがんばってみて、できないってガキかお前は。何を拗ねる必要がある。お前には目指すところがある。せのんを幸せにできるのは、お前だけだ。だから、死ぬほど勉強しろ。死ぬほど勉強しても本当に死ぬやつは稀だ。むしろ自分で死にに行くくらいの気持ちでいろ」
土の道の上に大の字に寝転ぶ僕の額を、せのんがてのひらで叩く。
「せーや君はせのんのパパじゃないの?」
嗚咽に肩を振るわせる、せのん。僕は首を振る。
「パパだよ。せのんのパパ」
しゃがむせのんは崩れるように、僕に覆い被さる。僕はせのんを抱きしめる。
「せのん。せのん、ごめん。こんな僕でもいい? 許してくれるかな」
せのんは「いいよ」と何度も言う。店主からけがの手当てをしてもらい、約束の時間が間近であることに気付き、せのんを背負い幸福屋を後にする。鼻血は未だ止まらず脱脂綿を詰め込んでいるので、呼吸しづらくてたまらない。せのんはと言うと、完璧に僕のことを許せた訳でもなく、ぺちぺちと僕の頭を叩いている。
「せのん、せーや君のこと、嫌いになるよ」
「せのんに嫌われたら、僕は死にたくなる」
つばを飲み込む音がする。
「やだ。せのんがせーや君のこと、嫌いになるのやだよ」
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