象る

「確かに美味しそうだ」


 一ノ瀬は、林田が注文した焼き鳥の香ばしい匂いに目を瞑る。しゃくしゃくと頬張る咀嚼音でビールを呷る一ノ瀬の貧乏性も、居酒屋に於いてはそれさえ乙だ。


「そういえば、最近話題のあの人しってる?」


 林田から出し抜けに問われると、ペダルを漕ぎ出すように頭は回転を始めて、それらしいネットニュースの見出しを回視する。


「人気ラーメン店、店主の買春」


「秋に活躍するトップス、ベスト五」


「介護士による凶行。昼間の惨劇」


「スロウリー監督が「冬の大三角形」をリメイク」


 無造作に頭の中で浮かび上がった上記の題目の全てに、林田が上げる話題の人は含まれていないような気がする。


「誰だろう……」


 一ノ瀬は見え透いた薄っぺらい思案の素振りによって、林田の知的好奇心を殊更に煽った。そんな軽薄な唆しに林田はまんまと乗っかり、お淑やかに唇を閉じたまま口角を上げる柔和な笑顔とは裏腹に、口内では唾液が糸を引いて二チャリと音を立てる。だがしかし、いつまで経っても答えを出す気配のない一ノ瀬の長物な思案に対して、林田は痺れを切らした。


「ドーベルマンだよ」


 その名前を口に出した瞬間、ろくに日光を浴びていないであろう、一ノ瀬の青白い顔が仄かに赤みを帯びた。


「林田君、それはおれも知ってるよ」


 馬鹿にするなと言わんばかりに一ノ瀬は鼻の穴を広げて腕を組んだ。


「大人気だよなあ」


 よだれた昼間の毛布のように気怠げで、どこか太平楽なその口の動きは、テーブルの上に頬杖をつけば憂いとなり、両手を捏ねて熱を込めれば歓喜がしたためられる。左右どちらに傾くか、微妙な案配にある林田の機微を一ノ瀬は蔑ろにして声を弾ませる。


「良いよねぇ、ドーベルマン。おれは彼の大ファンだ。社会の滓どもを片っ端から懲らしめる彼の正義感は惚れ惚れするね」


 顔色を伺うばかりであった一ノ瀬が、嬉々としてそう語り、ドーベルマンへの傾倒を披露する。


「確かに、尋常ならざる力を持っているみたいだ」


 林田は携帯電話をポケットから取り出して、画面を注視する。


「でもさ、こんな力があったら、君だって同じ事をするんじゃないか?」


「それはないよ、絶対に」


 一ノ瀬は頭を横に振り、天地がひっくり返っても起こり得ない事象だと、林田の考えを否定する。


「どうして?」


「だって、おれは彼じゃないから」


 頑然に一線を引き、他人の土俵にあがるまいとする一ノ瀬の姿勢へ、林田は炯々たる眼差しを向けた。それはまるで、一ノ瀬も知らない心の内を見透かすような、慧眼めいた眼差しである。


「それは間違ってるよ、一ノ瀬」


 そこに言葉も合わせてしまえば、ごみごみとした居酒屋の一角は、いつ禅問答を始めてもおかしくない、荘厳な雰囲気を醸す伽藍の修行場へと早変わりする。


「人は簡単に変わる。力さえあれば、簡単に変わるんだよ」


 林田は握り込んだ右手に一ノ瀬の注視を求めた。何が飛び出すか想像もつかない。不意に湧く好奇心から首を伸ばそうとすれば、玉手箱の教訓を思い出し、おずおずと距離を設ける。


「それが仮に善かれ悪しかれ、身につけてしまえば基本となるんだ」


 広げた手のひらには、逆さの五芒星に翼の生えた銀色のブローチが置かれていた。

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