ドーベルマン

駄犬

電話

 彼にとって電話の呼び出し音は、仄暗い洞窟から聞こえてくる不吉な前触れのようなものだ。ひたひたと近付いてきて、耳元に吹きかけられる凶兆にひたすら頭を落とす。うだつの上がらない立場にある事を自覚しているからこそ、「通話」の二文字がなかなかに押し難い。耳を塞いで狸寝入りをかますにも、あまりに長い喚起音は次第に深刻さを帯びて、ただならぬ雰囲気を醸成する。一向に止む気配のない携帯電話を彼は手に取った。


「もしもし」


 軽佻浮薄な声の調子とは程遠い、石を抱いて海中に沈み込むかのような低く、濁った発声で言葉の返りを待った。すると、


「一ノ瀬か? ひさしぶり。林田だよ」


 畏まった敬語でつらつらと彼の置かれている状況を一から説明する、切迫感と懐の寂しさから相槌を「はい」と繰り返すしかない、座持ちの悪さに辟易としてきた彼からすれば、これほど親しげな言葉遣いに接するとは思ってもみなかった。


「林田」は学生時代のクラスメイトではあったものの、名前と顔を一致させるのに数秒要する程度の間柄であり、よもや携帯電話を介した通話というやり取りに郷愁を覚えるとは彼自身、驚いていた。


「林田くん、急にどうしたの?」


 終始、受け身で会話を終わらせてきた彼にとって、このように自ら能動的に会話を引き出す担い手になる事は早々なかった事である。


「いやさ、一ノ瀬の電話番号が残っていたから、気分転換に電話してみたんだよ。繋がるとは思ってなかった」


 しおらしく声色を操る林田のさもしさ余って旧友との接触を図る心情に、彼は少なからず同調する部分があった。


「おれも林田くんの声を久しぶりに聞いて、なんか安心したよ」


 林田の機嫌に迎合する為に取り繕ったものではない。心の底から吐き出された言葉である。だからこそ、林田は次のように口述した。


「今度の日曜日、飲みに行かないか?」


 決して不自然ではない会話の流れではあったが、事事しく受け取って然るべき土壌が彼の腹のうちに形成されており、如何わしい誘いを想起させる沈黙を意図せず生んだ。


「迷惑だったか……」


 あれほど溌溂だった林田の動向に暗い影が落ち、彼は見てはいけない裏側を覗いてしまったかのような気分に駆られて、忽ち居た堪れなくなり、拙速に言葉を重ねてしまう。


「いや、全く迷惑じゃないよ。嬉しいぐらいだし、日曜日なんか持て余して仕様がないほど、暇なんだ」


 鼻息を荒くして好色めいた興奮を交えてつらつらと林田に阿る様は、旧友との繋がりが絶たれる事を嫌った、彼なりの防衛本能であった。


「なんだ、それなら良かった!」


 明るさが舞い戻り、彼は安堵の息を床に落とす。


「じゃあさ、今週の二十時頃に駅前の居酒屋で呑もうぜ。当日になったら、また連絡するから」


「わかった」


 彼は通話が切れた後も何処か落ち着かなく、立っては座りを繰り返して浮ついた心の拠り所を探っていた。

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