、夏澄さん、
「はい、これ。私が個人で作った部活のアルバム」
田中先生はそう言って、私に小さなアルバムを渡してきた。
ほとんど部室に顔を出さないこの不良先生は、自分の手柄みたいな顔をしてアルバムを見ていた。
中身は私と夏澄さんが撮った写真だろうに。
口には出さないけど。来年も先生とは一応付き合っていくことになるのだし、あれこれ言うと面倒なことになりそうだ。
……そう考えて、私は今まで夏澄さんに甘えていたのだと気がついた。
冷たい態度をとっていたのは、彼女の表情の変化が見たかったからだ。でも、それが許されていたのは、私が何を言っても怒らないでいてくれたから。
そういうところが好きで、嫌いで、私はそれに甘えていた。
「ありがとうございます」
色んなことを飲み込んで、一言だけ先生に言葉を返した。
アルバムをめくってみると、あの日私たちが撮った写真がいくつも貼られていた。
友達と写る彼女。私に笑顔を向けている彼女。校舎をバックにした彼女。
私に向けてくれる笑顔と、別の人に向ける笑顔。
それが違うのだと気づいたのは、写真として切り取られた彼女を見たからだ。私の瞳にはある種のフィルタのようなものがかかっていて、彼女の笑顔は全部同じに見えてしまう。
だけど、カメラはどこまでも客観的だ。
だから夏澄さんのそのままを写し出してくれている。
具体的に言葉にするのは難しいけれど、夏澄さんが私に向ける笑みは柔らかい。ちゃんと私のことが好きなんだってわかる顔をしている。
なのにそれに気づかなかったのは、私が多分人の好意から目を背けて、それを信じようとしてこなかったせいなんだろう。
「綺麗に写ってんね」
「……そうですね」
「いやー。野坂に頼んだ甲斐があったよ。これとかすごい綺麗じゃん」
先生は夏澄さんが写った写真を指差した。
「それは私が撮ったやつです」
「あれ、そうなんだ。大湊も手伝ってたのか。道理で野坂の写りがいいわけだ」
「それは、どういう?」
「大湊って、野坂のこと大好きでしょ」
「え」
田中先生はそう言って笑った。
子供みたいな笑みに、私は言葉が詰まるのを感じた。
確かにその通りだけど、ほとんど部室に来ない先生がなぜそんなことを知っているのか。
「滅多にここに来ないから、余計にわかんの。いやー。年頃の子の感情は移ろいやすいもんだ」
うんうんと先生は頷いている。
釈然としないけれど、先生は確信を持って言っているらしい。
私は小さく息を吐いた。
「そうですね。先輩のことは——」
言葉の途中で、部室の扉が開く。姿を現したのは、夏澄さんだった。
「あ、野坂だ。おっす。はい、これ」
「ありがとうございます」
どうやら、先生が夏澄さんのことを呼んだらしい。
夏澄さんは先生からアルバムを受け取って、私に笑いかけた。
一瞬固まったけれど、慌てて笑い返す。自然に笑えたことに安堵するが、田中先生に見られているのを思い出してすぐに真顔に戻る。
くすりと、先生が笑った気がした。
「よし。野坂にも渡したし、職員室戻るわ」
「他の部員には渡さなくていいんですか?」
「いやー。あんたら以外全員幽霊だしね。一応赤本にはさっき渡したから。あ、帰るときは鍵閉めといてね」
「はい。お疲れ様です」
「うーい。またなー」
先生はひらひらと手を振って、部室を去っていく。気を遣って二人にしてくれたというより、いつも通りの適当さが出ているだけなんだろう。
「あの人、よくあれで教師やれますね」
「あはは……まあ、ちゃんとしてる時はしてるから。……これからどうする?」
「今日はもう、帰りましょう」
「ん、わかった」
二人で部室の外に出る。
夏澄さんはいつの間にか鍵をもらってきたのか、手際よく施錠をしていた。
何となく話す空気にならなくて、私たちは無言で廊下を歩く。
校舎を出て、校門の外に出ると、なぜだか寄る辺ないような心地になった。
三学期。この時期はもう、三年生はほとんど学校に来なくなっている。夏澄さんも例外ではなく、用事がなければ学校には来なくなっている。
呼べば来るとわかっていても、どうしてか私は彼女を呼ぶことはできなかった。
彼女の気持ちを確かめるために口にした、私のものになれますかという言葉。あれのおかげでまた一歩夏澄さんに近づけて、でも。
私のものでなくていい。
本当は、きっと。夏澄さんを私のものにしたいわけじゃないのだ。
独占したいとは思っている。だけど私たちの関係性は、もっと別のものでなければならない。
「先輩は、もうすぐ卒業ですね」
街を歩き出して、ようやく自然に口が開いた。
隣を歩く夏澄さんは、そっと私に顔を向けてくる。
「うん。……寂しい?」
「別に、そういうのはないですけど」
「私は寂しいよ。毎日の当たり前が、当たり前じゃなくなるのは」
たった一年。
私たちの間に横たわる時間の差は、ごくわずかなものだ。
私が高校一年生なら、夏澄さんは二年。
私が二年なら、三年。
でも。
私が三年生になった途端、夏澄さんとの一年だけの差がひどく深くて大きいものに感じる。
同じ立場になるのに一年待たなければならないというだけで、今生の別れでもするかのように心が苦しくなる。
夏澄さんも同じであることに安堵するが、安堵は現実を変えてくれない。
どうあれ私たちは、離れ離れになる。
「どうせ、毎日会うじゃないですか」
「それはそうだけど、もう天乃と登校できないし」
「先輩は、私と登校したいんですか?」
「うん。天乃はそうじゃないの?」
「私はどっちでも……」
言いかけて、止める。
私たちは言葉を介さずとも、ある程度は分かり合える。だけどその場その場の感情を互いに読み合うことができたとしても、心の奥にある感情までは読み取れない。
夏澄さんはいつも私の気持ちを読んでくれている。
だけど私が夏澄さんのことを好きだってことも、独占したいということも、肌と肌で触れ合うまではきっとわかっていなかった。
私もそうだ。
写真を見て、セーターをもらって、彼女の肌に触れて。
そうしてようやく、彼女が私に向けてくれている感情の輪郭を、ぼんやりと理解することができた。
それが具体的に何色で、どんな形をしていて、中に何が詰まっているかまでは、まだわからない。
ただその感情の向かう先、方向性が私と同じということだけは確かだ。
……私たちは、好きと好きの温度と輪郭が同じだ。
陳腐な言葉にするのなら。
愛し合っている、ということになる。
「いえ。私も、先輩と登校したい、です」
「……天乃」
「先輩。……夏澄さん」
「うん」
「一つだけ、確かめさせてください」
いつも通りの帰り道。
いつもは止まらない場所で、私たちは止まった。
人通りの少ない往来。太陽はまだ中天から滑り落ちておらず、眩く私たちを照らしている。
私は深呼吸をした。
真冬の冷たい空気が肺胞を満たす。ピリッとするような冷たさが、私の緊張を少しずつ解きほぐしてくれた。
だけど体は、ぶるりと震える。
心と体は時々、噛み合わないことがある。一つのように思えて、必ずしもそうではないのかもしれない。
二つがいつも同じ動きをしていたのなら、私はもっと楽に生きられていたかもしれないけれど。
だけど、ちぐはぐでどうしようもないのが私だ。
「私たちは一度関係をリセットしました。ただの先輩と後輩に戻って、それで、異なる形で結ばれて。……聞かせてください。夏澄さんは私と、何になってくれますか? 何になれますか?」
「……家族」
夏澄さんは予想通りの答えを返してくる。
わかっていた。
自分の体の最も深いところに触れられて、少しばかり溢れ出した心をその細い指に伝えて。
伝えた分だけ彼女からも心を伝えられて。
そうした触れ合いの行く末に、今の私たちが目指す関係を、これまでの答えを導き出した。
その答えは彼女と一致していたらしい。
「姉妹じゃないんですよね」
「違うよ。急に変えたって、思うかもだけど」
「いいです、そんなの。姉妹じゃない。ただの先輩と後輩でもない。家族になりたいって……なれるって、先輩は思ってるんですね」
「うん。天乃となら、なれると思う」
「そうですか」
私もあれから、夏澄さんとなら家族になれると思うようになった。
だけど、本当にそうなんだろうか。
私の頭には未だ、生まれた時から一緒だった家族がいなくなった時の悲しみが残っている。
一度家族を解体しておきながら、自分はまた好きな人と一緒になって、平然と家族を再構成するという身勝手に対する怒りも。
私たちが外部から与えられたのは、姉妹という形をした家族の関係だ。
だけど私たちはそれを一度捨てた。
そして、今は。
お父さんもお義母さんも関係なく、ゼロから私たちで家族という関係を作ろうとしている。
本当の家族になってほしいと、今なら言えると思う。
「私も、先輩とならって思います。……でも、本当にそうなんでしょうか。私は先輩と、ずっと一緒にいたい。でも。私たちは結局、他人です。全部わかり合うのは無理です。全部分かり合えなかったら、また。家族が崩れてしまうかもしれない」
「大丈夫だよ」
「どうして、そう言えるんですか」
「今まで二人で過ごしてきた時間が、証明になってるから」
「なんですか、それ」
確かに夏澄さんとは、二年近く一緒に時を過ごしてきた。
でも。
「私たちの関係は、曖昧だったじゃないですか。姉妹って不純物を混ぜられて、道を見失って。私たちが大事にしてきた時間も距離も、一度崩れたんです」
「でも、天乃がちゃんと岐路に戻してくれた。そのおかげで新しい道が見つかった。……天乃がいれば、迷ってもちゃんと私たちが本当に行きたい道に行けるって信じてる」
「他力本願ですか」
「天乃が迷ったら、今度は私が手を引くから」
私たちの関係には、まだ色がない。だから外部から与えられた色に染まって、本当に必要な色にならなくなってしまうことがある。
私たちは迷って濁ってしまった。だけど確かに、その中で本当の気持ちを見つけた。
二人だけで過ごしていたら、私は夏澄さんが好きだってことに気づかなかった。彼女もきっと、同じだ。
一度姉妹としてあろうとしたからこそ、私たちは姉妹になれないということに気づいたのだ。そして、互いのことが好きであり、姉妹ではない家族になりたいとわかった。
迷った時間も無駄ではなかったとは、思う。
「だから、二人で。二人の未来を探っていきたい。また今回みたいに暴走して、迷惑かけるかもだけど、でも。私はそれでも、二人で家族になりたい」
私の手をとって、彼女は言った。
その言葉に迷いはない。
だけど、不安はあるようだった。その瞳はひどく揺れている。
きっと、私がどう答えるか不安なのだ。
でも、夏澄さんだって私がなんて言うかわかっているはずだと思う。
いつも私は彼女に甘えて、素直な言葉を口にしないから。わかっていても不安になるのは仕方ないと思うけれど。
「わかりました。じゃあ、今日から夏澄さんは私のものじゃありません」
「……うん」
「家族に、なりましょう。二人で、家族を目指しましょう」
「うん!」
夏澄さんは子供みたいに笑って、私に抱きついてきた。
いつもとは比べ物にならないくらい乱暴で、力強い抱擁。
私は微かに痛みを感じながら、彼女を抱き返した。
「きっと、何度も失敗しますよ。絶対すぐ幸せになんてなれません。家族がいいものとも、まだ思えませんから」
「わかってる。でも、天乃から家族になろうって言ってくれたことが本当に嬉しいから」
「そう、ですか。……ごめんなさい」
「うん? 何が?」
「素直じゃなくて、です」
「いいよ。そういう天乃も、好きだから」
夏澄さんはそう言って、私にしがみつくみたいに抱きついてくる。
体がぐいぐい押し付けられて、少し暑かった。
でも、嫌じゃない。
夏澄さんとの触れ合いはいつだって、嫌じゃない。
だから私も、押し付けるみたいに彼女を抱きしめた。
関係性が変わっても、感触は変わらない。それでも少しだけ、心が軽くなったような気がした。
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