第33話

 十二月二日。ある人にとってはただの平日で、私にとっては何よりも大事な日だ。


 そう。今日は天乃の誕生日なのだ。

 この日のために編んでいたセーターはもう完成していて、後は渡すだけである。


 去年は普通に買った財布をプレゼントするだけだから緊張しなかったけれど、今日はひどく緊張している。


 だって、セーターは私の心を彼女に伝える一番の手段だから。

 これが通じなかったら他にどうやって心を伝えればいいんだろうってなる。


 だが、緊張していてもしなきゃいけないことは同じなのだ。だから頑張って心を鎮めようとするけれど、うまくいかない。


「先輩。まだ終わらないんですか?」


 ダイニングのソファから天乃の声が聞こえる。

 私は一度水を止めた。


「ん、もうちょっとで終わるから。くつろいでて」


 夕飯を終えた私は、使い終わった食器を洗っていた。天乃は手伝うと言ってくれたけれど、流石に誕生日の人に皿洗いをさせるのもどうかと思ったから一人でしている。


 しかし、間違いだったかもしれない。

 今日は天乃のリクエストでカニクリームコロッケを作ったけれど、意外に洗い物が多い。


 そのせいで時間がかかっているから、天乃は退屈そうにしていた。

 ううむ。


 退屈させるくらいなら手伝って貰えばよかったかな。

 でも、せっかくの誕生日だし。


「……よし、終わり」


 あれこれ考えていると、いつの間にか皿を洗い終わっていた。

 私は手を拭いてから、天乃の方まで歩いた。


 寝転がってくつろいでいた天乃がソファの右端に座ったから、私は左端に座った。


「もっと寄ったらどうですか」

「いいの?」

「駄目だったら、提案してませんから」

「それじゃ、お言葉に甘えて」


 私は少しずつ彼女に近づいていく。

 手と手が触れ合いそうな距離まで近づいてみるけれど、天乃は特に反応を見せない。


 それならと思い、彼女の手に触れる。

 手の甲の硬さを感じる。天乃の体温は遠く、その温もりを求めて指と指を絡ませると、天乃は私に顔を向けてくる。


 当たり前だけれど、瞳の距離も近い。

 揺れることなく私を映す瞳に、感情が星々のようにいくつも浮かんでいるのが見える。


 綺麗な瞳だ。

 じっとその瞳を見つめると、天乃は微かに視線を逸らした。


「夕飯、どうだった?」

「美味しかったです」

「そっか。それならよかった。……ピザとかじゃなくてよかったの?」

「どうせ、週末の誕生日会の時に食べますから」


 平日はお母さんたちも忙しいから、天乃の誕生日は土曜に祝われることになっている。


 今日も二人は仕事でいない。

 だから私たちはこうして、夜の家に二人きりでいる。

 カーテンは完全に閉め切られていて、外から光が差し込むこともない。


 夏の夜とは違う不思議な静けさとか寂しさが、冬の夜にはある気がする。

 天乃は私と繋いでいない方の手でスマホを操作している。


 左手を遊ばせながら、右手で彼女の感触を確かめてみる。見た目ではわからない私との違いが、触れるとよくわかる。


 汗をかいた手のしっとりとした感触。私とは形が違う、綺麗に切り揃えられた爪。深くその皮膚に指を沈めてみると、しなやかな感触が伝わってくる。


 一人の人間から得られるものは、時々驚いてしまうくらい多種多様だ。

 触れれば柔らかさや硬さが伝わってきて、言葉を交わせば感情が伝わってくる。


 でも、その人にはきっとその人だけの、誰にも触れさせない深淵があって。

 だけどこうして一緒のソファに座って触れ合えば、どうしようもなく伝わってくるものがあって。


 触れられるようで触れられない。わかるようでわからない。それでもやっぱり、愛おしい。


 天乃から得られるものに、沈みたくなるくらいには。

 私は天乃のことが、好きだ。


「先輩の顔、写真で見るとなんか変ですね」

「私の写真、見てたの?」

「はい。見てください。これなんて、馬鹿みたいな顔です」


 天乃はそう言って、写真を見せてくる。

 教壇に立った私の姿は、いつもとそう変わらない。


 そんなに馬鹿みたいだろうか。

 ううむ。


「先輩に送られてきたこの写真も、変な笑顔です」

「天乃に撮ってもらった写真だ。……そんなに私の笑顔、変?」

「なんか、違和感あります。写真だからかもですけど。……ちょっと笑って見てもらえます?」

「ん、いいよ」


 天乃が私に目を向けてきたから、にこりと笑ってみせる。

 天乃の前なら、私はいつだって笑うことができる。


 普段から笑顔でいるように心がけてはいるけれど、天乃と一緒にいると気はいつも以上によく笑える。


 それはやっぱり、天乃のことが好きだからなんだろう。

 だけど、ただ好きってわけじゃなくて。

 私は天乃に、恋をしている。


「なんか、違います」

「うん?」

「……先輩の今の顔は、こう、もにょってします」

「んー。皆に向ける笑顔と天乃に向ける笑顔は、違うからね。天乃は特別」

「なんなんですか、それ」


 天乃は微かに顔を赤くしている。

 人の好意に照れるのは、いつもの天乃だ。そういうところは前と変わっていないけれど、最近は前より赤面しなくなっている気がする。


 もっと私の感情を、天乃に正しく伝えられればいいのに、と思う。

 伝わらない感情は結局、自分の中で燻るだけになってしまう。

 相手に伝わって初めて、感情は透明になる気がする。


「私の何が特別なんですか、先輩」

「全部。天乃のことが好きだから、天乃は特別」

「……わかんないです。先輩は、馬鹿なんですか」

「否定はしないけど」

「してくださいよ、ばか。……私みたいな人間が好きなんて、おかしいんです。そもそも、私のものになるとか、私にキスする、とか。なんなんですか、先輩は」

「何って言われても。私は天乃と過ごす毎日が好きで、天乃の真剣な顔が好きで、いつも笑顔が見たいって思ってるってだけ。それが普通じゃないなら、しょうがないよ」


 確かに私のものになれと言われて、はいなりますと即答するのはおかしいんだろう。


 でも私は天乃になら全てを委ねてもいいと思っている。

 天乃ならそこまで酷いことはしないだろうし、何より彼女は、私がはいと言うことを望んでいた、と思う。


 天乃が私との関係にどこまでのことを望んでいるのかはわからない。

 私とどうなりたいのか、どうなれるのか。


 わからない。わからない、けど。

 私たちは姉妹らしく振る舞うのをやめた。


 姉妹として距離を詰めるのをやめて、先輩後輩に戻った。そして、再び他人として距離を近づけて、キスをして手を繋いでいる。


 それが私たちの答えだったらいいと思う。

 私と天乃が目指しているものが、キスの先にあればいい。


「先輩は変です」

「わかってる」

「変態。異常者。私は、先輩のことなんて。先輩のことなんて、好き……にはなれないです」

「うん」


 天乃は私の手を強く握って、こっちを見つめてくる。

 好きにはなれない。


 そう言いながらも、手を強く握ってくる。

 ……それが天乃の素直な感情の発露だったら、いいと思う。


「……キスしてもいい?」

「なんで、今」

「んー。なんでだろね。不思議だね」

「先輩は、適当です」


 天乃は嫌です、とは言わない。

 キスに対して他に何かを言うことなく、ただ私の目を見つめている。

 頷いてくれるわけがないとわかっていたから、私はそっと彼女に顔を寄せた。


 ゆっくりと彼女に口づけをする。柔らかな感触は前と変わらないけれど、目を開けていると彼女の瞳がよく見える。


 揺れるその瞳に映る私は、どんな顔をしているのだろう。どんな色なんだろう。


 天乃は私をどう見ているのか。

 確かめることはできないから、軽く彼女の唇を吸ってみる。


 静かな部屋の中に、舌打ちにも似たリップ音が響く。肌と肌が触れ合う音というのはどこか不思議だ。


 自分一人でも生み出せる音なのに、二人で生み出した音は、一人の音よりずっと深くて脳に響きやすいような気がする。


「先輩。舌、出してください」


 言葉通り彼女の唇に舌を差し入れると、軽く噛まれた。

 反射的に引っ込めそうになった舌を歯で挟まれて、そのまま彼女の舌で絡められる。


「好き。天乃、好き」


 熱に浮かされたようにその言葉を口にしても、天乃の心に響く気配はない。

 天乃は何も言わずに、私と深くキスをしてくる。

 その瞳に浮かぶ感情は、さっきとは違うもののように見える。


 だけど感情には触れられない。伝えようとしてくれないなら、掴むこともできない。だから私は喘ぐように、彼女の舌の動きを追った。

 それでも彼女の感情を完璧に理解することは、できなかった。

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