第28話

 ブレザーを着ると、秋って感じがする。

 吹く風も段々と冷たくなってきて、空も高く見える。


 この時期に肥えるのは馬だけじゃなくて、人も同じだと思う。

 たい焼き、焼き芋、肉まん、おでん。

 あったかいものが恋しくなる季節になってきたなぁ。


「何笑ってるんですか、先輩」


 夏と変わらない冷たい声が横から聞こえてくる。


「うん? あったかいものが美味しい季節になったなーって思って」

「それで笑うって、不審者ですよ。一人でにこにこしないでください」

「一人じゃないよ。隣に天乃がいるから」

「……隣に人がいるのに、先輩は一人で勝手に笑うんじゃないですか」

「んー……。勝手な笑顔なのかな。見てみて?」


 天乃の方を向いて、にこりと笑ってみせる。

 天乃はぷい、とそっぽを向いた。


 秋のある日。私たちは今日、部活をせずに街を歩いていた。肩を並べて歩いてはいるけれど、いつもと違って手は繋いでいない。


 私たちの間には拳一個分の距離がある。

 これが本来の先輩後輩の距離であり、今までがおかしかったのだとも言える。


 天乃の言葉の通り、私たちは一度全てをリセットすることにした。家族になる前の距離に戻り、こうして先輩後輩として話をすることにも少しずつ慣れてきている。


 でもこういう距離がもどかしいと思っている自分もいる。


 付かず離れず。

 それがかつての私たちの関係だったはずなのに。


「……もう、いいです。今日はどうするんですか。先輩が決めてください」

「天乃とこの辺り歩くのももうマンネリかもだし、今日は行ったことないところに行ってみようか」

「……行ったことないところ?」

「そ。ちょっと天乃の力を借りて、したいことがあって」

「そうですか。じゃあ、いいです。行きましょう」


 天乃は私を見つめながら、手の甲と手の甲を触れ合わせてくる。

 姉妹っぽいことをしていた頃の名残を感じる。だけど、今の私たちは前と同じように過ごすことにしている。


 先輩としての私は、天乃の手は握らない。

 それが私たちの特別な距離感であり、大事にしてきたものだったから。


 天乃には何か抱えているものがあって、それはきっと私と似たようなもので。それがわかっていたから、私は無理に天乃に近づこうとしなかった。


 知らないことだらけでも、彼女のことが好きなのは間違いなかった。

 だけど家族になって、私は暴走してしまった。


 天乃と家族として仲良くなりたい。家族をもう失いたくない。そういう気持ちが強すぎた。


 私たちは家族である前に、先輩と後輩なのだ。

 わかっていたはずなのに、わかっていなかった。


「……先輩」

「なあに、天乃」

「なんでも、ないです」


 手を繋ぎたいのだろうか。

 でも、そういうことを言うのは天乃じゃない。


 じゃあどうして手の甲が触れ合ったのか。

 その理由を確かめないまま、私は天乃と一緒に歩いた。





「先輩って、馬鹿ですよね」

「どうしたの、いきなり」

「いきなりじゃないですよ。こんな寒くなってきた時期にスワンに乗ろうとする人間は馬鹿以外の何者でもありませんから」

「でも、付き合ってくれてるよね」

「そりゃあ、ここまで来て手ぶらで帰るってのもおかしいじゃないですか」


 公園の池でボートに乗るというのは、ただの先輩と後輩がすることなのか。

 わからないけれど、今日の私はなんとなくそんな気分だった。


 このちょっと間が抜けているというか、馬鹿げている感じがまたいいのだ。

 寒いけど。


「先輩もちゃんと漕いでくださいよ」

「一応頑張ってるよ。天乃には負けるけど」

「息切らすくらい頑張ってください」

「えー。もっとゆっくりしようよ」

「嫌です。せっかく乗ったんですから、誰より早く漕ぎますよ」

「すごい負けん気だねぇ」


 きこきこペダルを漕ぐ学生二人。

 カップルだったら楽しいのかもしれないけれど、ただの先輩後輩だと何かがおかしい気がする。


 池の上には冷たい風が吹いていて、足を動かしていても少し寒い。

 しかも天乃は早く漕ぐことに集中しているから、何も話さなくなってしまった。


「……天乃」


 名前を呼んでも答えない。すごい集中力だ。

 天乃のこういう真剣なところは、いつも変わらない。


 与えられた家族という関係に一番振り回されていたのは、私なのかもしれない。

 だけどそのおかげで、気づいたこともある。


「好きだよ、天乃」


 一度近づいて、また離れて、それでも。

 私はやっぱり、天乃のことが好きなのだ。家族になりたいという気持ちは変わらない。


 いつだって天乃の笑顔が見たい。

 手を繋ぐのも、ハグするのも楽しい。

 天乃になら自分の全部をさらけ出したっていい。


 裸を彼女に見られるのなんて、恥ずかしくないと思っていた。でも前に二人で全裸になったとき、どうしようもなく心臓がどきどきしたのは。


 きっとただの好きだけじゃない理由があったからで。

 そういう気持ちを、いつから抱いていたんだろう。


 最初は多分違った。天乃に向ける想いが変わったのは、良くも悪くも彼女との距離を、接し方を変えたからだ。


 この気持ちが恋なのか、もっと別の何かなのか。

 わからないなんて、そんなの。

 自分につき続けた嘘でしかないんだろう。


「こっち見て。……ううん。やっぱり見なくて、いい」


 風が全部攫ってくれればいいと思う。

 私が天乃を呼ぶ声も、私が天乃に触れた感触も。


 私は小さく息を吐いて、天乃の頬にキスをした。

 音を立てていたペダルが徐々に静かになって、風が止む。

 唇を離した時にはもう、天乃の顔はこっちを向いていた。


「せん、ぱい?」

「いつも言ってるよね、私の余裕が気に入らないって。……だから、ほら。余裕なくしてみようと思って」

「今、やるんですか」

「思い立ったが吉日ってことで」


 天乃は漕ぐのをやめて、私に体を少し近づけてくる。


「先輩。今の私たちは先輩と後輩です」

「わかってるよ」

「わかっていて、やったんですね」

「……うん。キモいって言われるの、わかってるけど」

「わかってないですよ、何も」


 止まっていた風がまた吹き始めて、髪が揺れた。天乃の長い髪が私の顔にかかって、思わず目を瞑る。


 くすぐったさがなくなった後に訪れたのは、柔らかな感触。

 溶けるように熱くて、でも心地いい水の塊のようなものが、唇に触れている。


 目を開けたら私は多分、今までとはまた違った道を歩くことになる。姉妹の道から岐路に戻って、今度はどこへ行くのか。


 考えは頭を巡り、唇にくっついた柔らかさは血液と共に全身に循環していく。


 全神経が唇に集中して、他の感覚全てを失いそうだった。

 それでも。


「全部先輩のせいです。先輩が手を引いたから、可能性が生まれたんです。先輩が可能性を潰せないから、こうなるんです。……先輩の、ばか」


 現実は一秒ごとに姿を変える。

 だから目を開けるタイミングが少し遅れただけで、そこにあった現実を正しく認識することができなくなる。


 目を開けると、天乃の顔があった。

 キスしたって言われても納得できるけれど、してないって言われてもきっと、心から納得はできないんだろうって距離。


 その距離の向こうに、真っ赤になった天乃の顔がある。

 風が吹いていなければ、天乃の吐息をちゃんと感じられたかもしれない。


 その強い熱が彼女の唇から伝えられていると、確信できたかもしれない。

 風が吹いていたから、誤魔化しが効く。頭の中でどうとでも理由をつけられる。


 キスしたの?

 そう聞いても、きっと天乃は答えない。


「先輩、顔真っ赤です。あっついですよ」


 天乃は私の頬に触れながら言う。

 先輩と後輩。


 リセットされて元通りになったはずの私たちの距離が、崩れた。

 だから私も彼女の頬に手を伸ばして、そっと触れた。

 熱い。あまりにも熱くて、指先からどろりと溶けてしまいそうなくらい。


「天乃も、熱いよ」

「気のせいです。もしそうだとしても、先輩の方が赤いし熱いからノーカンです」

「そういうもの?」

「そういうものです」


 天乃は挑戦的な顔で私を見ている。

 こういう顔、久しぶりに見たかもしれない。


「キスしたって言ったら、どうします?」


 どっちだと思うって、聞かないんだ。

 天乃は私がいつも余裕だと思っている。天乃がいなくても浮かべられる表情ばかり見せていると思い込んでいる。


 でもそれは違う。違うけれど、信じてもらうのは難しい。

 私の感情を信じていないから、天乃はいつも私の余裕を崩そうとするのだろう。


 天乃。

 天乃は私のこと、どう思っているんだろう。


 嫌われてはいないと思う。それなりに仲がいいと思う。

 でも、好かれているかどうかはまた別問題だ。


「……冗談です。先輩にキスなんて、するわけないじゃないですか」

「私は、いいよ」

「……先輩?」

「本当にキスされてたとしても、いい」

「……馬鹿なこと言わないでください。そういうところがキモキモなんですよ、先輩は」


 天乃はそう言って、私の頬を引っ張ってくる。

 その顔はまだ赤い。


 彼女が恥ずかしがっている理由は、なんだろう。本当にキスしたからなのか。私が変なことをしたからなのか。


 それとも。

 聞けばわかることなのに、聞けない。


 私たちはその後、無言でボートを漕いだ。

 風はいつの間にか、止んでいた。

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