第17話

「ねえ、來羽」

「なんですか、夏澄さん」

「ファーストキスって、どんな感じだった?」

「いや、え。こんなとこで聞く?」


 日曜日。私は來羽と一緒にフリーマーケットに来ていた。年に何度か開かれるこのフリマに、私は高校一年の頃から出店をしている。


 天乃と一緒に来たこともあるけれど、今日は來羽を誘ったのだ。

 一緒に風呂に入ったあの一件以来、私たちの関係はぎくしゃくするように——なっていない。


 少なくとも天乃は以前と変わらず私と付かず離れず一定の距離をとっていて、私も彼女に合わせることで平静を装っていた。


 でも少し、彼女が私に本気でキスしてこようとしてきた理由が気になっていた。


 そもそもあれは本当に、本気だったんだろうか。

 私が止めることを最初からわかっていてやってきたのでは。


 じゃあ、彼女が言った妹じゃなかったらという言葉は。

 妹じゃなかったら、なんなのか。


 何をしていたのか。

 ううむ。


「そういうのが気になるお年頃なんだよ」

「んー。まあ、いいけどさ。そんな面白いもんじゃなかったよ? ただなんとなくキスするなーって雰囲気になったから、ちゅっとしたってだけ」

「……楽しかった?」

「別に? ああ、こんなもんなんだーって、妙に冷静だったなー」

「そういうものなんだ」

「ま、私はね。他の子がどうかは知らないけど」


 私はまだファーストキスを済ませていない。彼氏なんてできたこともないし、告白されたことだって一度もない。


 ファーストキスに夢を持っているわけではないけれど、実際話を聞くと思ったよりつまらなそうだ。


 キスと言っても唇と唇を合わせるだけの作業なのだから、当然かもしれないけれど。


 じゃああの日、天乃とそれをしてもよかった?

 それは、違う気がする。


 絶対天乃は、キスなんてしたら後悔していただろう。だから……というのは、言い訳なんだろうか。


 だったら、私の気持ち的には?

 いや、考えすぎかも。


 彼女が私のことを恋愛対象としてキスしてこようとしたならともかく、そうではないんだし。結局あの時は、キスしなくて正解だったのだろう。


「じゃあ來羽は友達とキスできる?」

「え? んー、まあ、できるんじゃない。試す?」

「私はまだしたことないから、パス」

「夏澄って彼氏いないんだっけ」

「いないよ。できたことない」

「灰色の青春だ」

「かもね。でも、この三年間結構楽しかったから、私的には大満足かなー」

「ふーん」


 最初の一年は、何かと來羽と一緒にいることが多かった。あの頃も毎日それなりに楽しかったけれど、心の底から楽しいと思うようになったのは二年生からだ。


 私たちの代に入った部員は私以外全員幽霊で、きっと来年入ってくる子たちもそうだって思っていた。


 でも、天乃は違った。手芸なんて全然できないのに毎日部室に来て、私に色々教えてほしいと言ってきていた。その真剣な瞳に、真面目な態度に、いつしか私は心を動かされるようになっていった。


 いつの間にか天乃は私の中で大きくなっていた。

 天乃は大好きな後輩だ。卒業しても連絡を取り合って、時々遊ぶくらいの仲であり続けたいと思っていた。


 だから彼女と家族になれると知った時、嬉しかった。

 天乃ともっと仲良くなれると思った。前々から妹のように可愛がっていたけれど、これからは本当の姉妹としてもっと長い時間を一緒にいられるのだと思った。


 今でもその気持ちは変わっていない。

 だけど、天乃はどうなんだろう。


 わからない。もっと天乃のことを知りたい。何を考えて、何が好きで、何がしたいのか。もっと、もっと知りたいと思う。


「これ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」

「あ、はい。どうぞ——」


 お客さんだと思い、私は顔を上げた。

 そこには、今一番見たいと思っていた人の姿があった。


「天乃?」

「こんにちは。赤本先輩、野坂先輩。奇遇ですね」

「おー、天乃ちゃん。ほんと偶然。どうしたの今日は」

「この近くにたまたま遊びに来ていたので、ついでに寄ろうと思いまして」

「そうなんだ。まあそんな凄いものは置いてないけど、見てって見てって」

「全部私が作ったものなんだけどね」


 來羽はまるで全部自分が作ったみたいにドヤ顔をしている。

 天乃はしゃがみ込んで、小さなセーターを手に取った。


「これは?」

「子供用のセーターだね。一番売れてるよ」

「そうですか」


 天乃はいくつかの商品を手に取っては元に戻すという作業をしばらく続けていた。やがてそれを見ているのに飽きたのか、來羽があくびをしながら立ち上がった。


「ちょっと喉乾いたから、なんか買ってくるわ。二人もなんかいる?」

「私は、いいや」

「私も大丈夫です」

「そか。じゃ、行ってくるね」


 手を振って來羽を見送ると、天乃は彼女が座っていた場所に腰をかけた。

 周囲のざわめきが、少し遠くなる。


 それなりに人が集まるフリマだから往来は激しいけれど、今はそれよりも天乃の方に意識が集中していた。


 天乃は私をじっと見つめている。

 私も、天乃を見た。


「前に来た時も、セーターを売っていましたね」

「うん。これが一番、人に寄り添える編み物だから」

「どういうことですか?」

「んー。セーターは人が着るものでしょ? 体が大きくなるまではずっと使ってもらえる。その子供が成長するまで、寄り添える。だからセーター編むの、結構好きなんだ」

「……なるほど」


 天乃はいつもと違って、キモいとかウザいとか言ってこない。でも別に、私の言葉に感銘を受けたとかそういうのじゃなさそうだ。


 他にもっと大きなことを考えていて、いつも通りのことを言う余裕がないだけに見える。


 なんとなく手持ち無沙汰になって手をいじっていると、不意に天乃の手が膝を叩いてきた。


 目を丸くしていると、爪を立てられる。

 天乃も暇なのかな、と思って彼女の手を握ってみる。


 天乃は何も言わず私を見つめる。こうしてほしかったんだと思うには、天乃の表情は変わらなすぎる。


 手を繋げて嬉しいです、なんて言われてもちょっと困るけど。

 いや、しかし。


 私を純粋に慕ってくれる天乃というのも、それはそれで可愛いのかもしれない。慕ってよ、とは言わないけど。


「今日は、赤本先輩なんですね」


 彼女はぽつり、と言う。

 手を繋ぐ力は、いつもと比べると不自然なくらいに弱々しかった。


「ちょっと話したいことがあってね。それに、私も一応部長だから、部員とは交流しないと」

「……これは仮定の話です」


 私は首を傾げた。


「たとえば私が本当に、心の底から先輩のことをお姉ちゃんと思えるようになったとして。その時先輩は、私に何をしてくれるんですか。私は何をしていいんですか」


 黒い瞳に溶けそうになる。


「……それは」


 考えてみれば、姉妹になったら天乃に何ができるんだろう。

 漠然ともっと仲良くなれると思っていたけれど、具体的にはと言われると困る。


 この前みたいに一緒に風呂に入って、外では手を繋いで歩いたりして、それで。それで……行き着く先は、どこなんだろう。


 私たちはもう、ただの先輩後輩ではいられない。

 姉妹という関係性を追加されていた私たちは、いつ割れるかわからない薄氷の道を歩き始めている。


 その先に何があるかもわからないのに。

 これからどうなるのかも、わからないのに。


 ただの先輩後輩だった頃、こんなに背中がちりちりするような焦りがあっただろうか。私たちはなんになれるとか、どこに行くのかとか、考えただろうか。


 考えなかった。

 ただ、高校を卒業して大人になっても、それなりに仲良くしていられるんだと確信はしていたと思う。


 今はどうなんだろう。

 たとえば、三年後。天乃と仲良くしている自分の姿を想像できるだろうか。


 かつては鮮明に想像できたそれが、今はぼやけている。

 なんでだろう。

 姉妹になって、もっと仲良くなれるって、思ってたはずなのに。


「なんでも、していいよ。姉妹として、天乃が望むことがあるんだったら、なんでもいい」

「……困るくせに。どうせ止めるくせに、そういうことを言ってしまうんですね」


 天乃は笑う。


「姉妹になりたいなら、もっと強引に手を引いたらどうですか。私に何も無駄なことを考えさせず、他の可能性なんて全部、忘れさせればいいんです。……全部先輩で上書きしてくれたら、先輩のことを多少は好きになれるかもしれないです」

「……うん。天乃が望むなら、頑張るよ」

「別に、望んではいません。……でも。せいぜい私から目を離さないことです。私たちは手を繋いで歩くくらい仲がいい姉妹らしいですから、ね」


 そう言って、彼女はぷいとそっぽを向いた。

 それでも離されない手が、私に何かを伝えてくれている気がした。

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