第十話 至と四畳半シミュレータ
一日のうちでもナースチェンカの挙動には
至は物理演算によるシミュレーションによりナースチェンカの学習を行っている。つまりパソコンの中にバーチャルな空間があり、そこで六体のナースチェンカが生活を送っている。その中で適応度の高い個体がナースチェンカの自我として人形に宿る。
もちろん六体の人形を作ることができればそれに越した事はない。しかしコストの問題や、ハード面での修正が必要になったときのことを考えれば、当分はバーチャルな空間でアルゴリズムを走らせる方が都合がよい。
バーチャルなアンドロイドをデザインすると言っても、実際に製作可能なものでなければ意味がない。コストと技術という二つの制約のもとで実際に作ってみて、データを取る必要があった。そこで実際に製作されたプロトタイプが人形のナースチェンカなのだ。
先ほどからずっとナースチェンカは
二年ほど前、ヒデさんと知り合うとすぐに豊を紹介された。いとこが高性能なパソコンを持っている人を探してるんだけど、会ってやってくれないか? という具合だ。豊は天文学に興味があるのだが、当時はまだゼミや専門的な科目は履修できないでいた。それでも天文部に所属しており、その時の豊は自分の趣味の為にハイスペックなパソコンを探していたのだ。
しばらくするとドアをノックする音が聞こえる。至が返事をする間もなくドアが開き、原付のヘルメットを手に抱えて豊が入ってきた。
「至くん、久しぶり」
豊はわりとおしゃれで――せいぜいインドアな至からすればという程度だが――ウィンドブレーカーに下はスリムなジーンズ、赤のスニーカーといういでたちだ。
「おい、靴脱げといつも言ってるだろ……」
「あれ、なんか随分変わったね」
豊はガレージを見渡す。豊が最後に来たのは汀が来る前だった。ロフトが増え、しかも黄色いカーテンだ。それに床はガムテープで区切られていて、かつて無造作に並べられていたダンボールは至の領域へと押しやられていた。
「そう。いま、妹も住んでるから、もういきなりドア開けたりすんなよ」
「ああ、例のね。へえ、ほんとに住んでるんだ」
豊は至のもとまで歩いてきて画面を覗き込む。ナースチェンカは相変わらず痙攣している。「ナースチェンカも久しぶり。
「今日はなに?」
豊はポケットからUSBメモリを取り出した。
「この前のソフト、まだ入ってる?」
「
「それ。それのデータベースを作るためにレティクル座ゼータ連星系の軌道計算をして欲しいと思ったんだけど……」
「それは例えば、太陽系の水金地火木土天海冥の全部の惑星の軌道を計算しろというのと同じようなこと?」
「恒星もだね。太陽系っていうと太陽固定で考えてしまうけど、連星系だからさ。でも惑星の数は六つ、主な衛星を含めると十二なんだ。あと、ちなみに冥王星は惑星じゃない」
「いや、そんなこと出来ないよ。この前の観測衛星のスイングバイがどうっていうのとはわけが違うよ」
「出来ないの? なゆたが言うには、この四畳半シミュレータなら一日あれば出来るって」
至のパソコンは、なにも四畳半をシミュレートしているわけではないのだが、六つのアンドロイドが生活をしている部屋をシミュレートしているという説明を受け、豊は勝手にそう呼んだ。
「二日もかかるんじゃ無理だって。深夜料金タイムだけ走らせて三日か、それ以上だよ」
「できるんじゃん」
「だいたい、星の軌道なんてNASAとかどっかにデータがあるんじゃないの? いや、それ以前に、
「ゼータ・レティクルの惑星は地球からじゃ見えないんだよ。三十八光年離れてるんだ」
「見えないならどうやって惑星の存在を確認したの? 見えない星の軌道をどうやって計算するんだ?」
至が好奇心を見せると、豊は
「知りたいでしょ? 資料も添付してあるからさ。まあ、とりあえずこれ差してみてよ」
豊はUSBメモリを差し出した。至は言われるままにUSBポートにそれを差し込んだ。パソコンがそれをすぐに読み込む。
「なんでまた実行ファイルなんだよ」
「だめなの?」
「そんな三日も四日もってんなら自分のパソコンで何するのか気になるさ」
「作ったのなゆただから、技術的なことはなゆたに聞いてもらいたい」
「そう、なゆたには前科があるからさ。なんでなゆた連れてこないんだよ」
「まだ学校から帰ってなかったから。――そんな嫌な顔しないでさ、今日はプレゼンみたいなものだからさ。とりあえず、そのHTMLの資料見て、何しようとしてるかだけ知ってよ。きっと興味持つって。オカルト研究部と天文部の共同プロジェクトなんだ」
「自作パソコン同好会も巻き込めばいいじゃないか」
「だから、そう言わないでさ」
豊はそのプロジェクトの全容を話してくれた。
レティクル座のゼータ連星系は地球から三十八光年離れている。恒星、つまり太陽であるレティクル座ゼータは地球からでも確認できるが、それを周回する惑星を見ることは出来ない。地球から確認することも出来ないゼータ連星系の六つの惑星の軌道をどうして計算できるのかというと、ゼータ連星系の惑星セルポを訪れ、そして十年間生活をし、帰ってきた地球人がいるのだという。
資料によれば、レティクル座ゼータ連星系の惑星セルポにはイーブ人という知的生命体が文明を築いている。ロズウェル事件として知られている一九四七年のUFO墜落事件。この時に生きたまま回収された宇宙人がイーブ人で、彼の協力により交換留学が実現したのだという。
「この八人が、三十八光年を往復したって言うの? 五十年くらいの間に?」
「それがなにか?」
「物理学科の学生がそれを言っちゃうの?」
「至くん、常識にとらわれてはいけないと思うよ」
大真面目なのか、冗談めかしているのかよくわからないが、とにかく豊は楽しそうな顔でそれを言った。
「いや、いいよ。それは分かったけど、これ、辻褄が合わなかったりしたらどうするの? これ、だってさ、太陽系と違って、系の重心が太陽じゃないじゃん。複雑な動きするんでしょ? 惑星セルポでは日が落ちないって書いてあるけど、そんな動きが想像できない。仮にうまい軌道を導き出したとしても、ハビタブルゾーンを維持できていなかったら、このオカルトなリーク自体を否定しかねないよ」
「まあ……、それはそれで天文部としては収穫だよ。それに沈まない太陽に関しては、ここ数十年間は沈んでいないという意味かもしれない」
「なるほど……。でも、CIAに目をつけられたりしないの?」
「ボディーガードをつけるからそのへんは安心して。――今からバイトあるからさ、実行は保留にしてくれてもいいから、これ読んどいてよ」
中腰でディスプレイを覗き込んでいた豊が引き上げようと立ち上がると、そこへちょうど汀が帰って来た。ドアが開き、冷たい風が吹き込んでくる。
「ただいま」
「おお、例の妹さんだね。おかえりなさい、お邪魔してます」
「こんにちは。椅子ありますよ。お出ししましょうか?」
「いや、もう帰るんでお構いなく。至くん、分からないところはメールして。――妹さんにもボディーガードを手配しておくから」
ヘルメットをかぶりながら豊は出て行った。至は特に構いもせずに資料に目を向けている。ディスプレイにはゼータ・レティクルの想像図が映し出されている。
「え、ボディーガードって……、なんの話ですか? あれ、至さんも宇宙好きなんですか?」
今度は汀がやってきてディスプレイを覗き込む。机に手をついてかがんだ汀の周りにはまだ外の冷気がまとわりついているようだった。
「今の豊が天文部なんだ。それで星の軌道を計算してくれって言うんだけど……、これアメリカ国防総省の機密資料らしいんだよね」
「これって、どっちが太陽なんですか?」
「同じくらいの質量の太陽が二つあるんだ。そう珍しいことではないらしいよ。それで、ここのセルポっていう星に高度な文明を持った知的生命体がいるって言うんだ。UFOに乗って地球にまでやって来たらしい」
「ふふっ」汀は笑った。「ちょっとスクロールしてもいいですか?」
汀は至からマウスを受け取るとホイールをくるくると回した。ゼータ連星系の全体図から、わりと専門的な単語の混じった説明が並ぶ。
実に恒星系の四分の一が複数の太陽を持っているらしい。とはいえ、地球人からすれば不思議な感覚だ。どんな動きをするのだろうとか、地上から空を見上げたときの様子を考えると確かに興味がわいてくる。軌道を計算してから、天体シミュレーションソフト
「でもこの星、あまり奇麗じゃないですね。こんなところに生き物がいるの?」
「常識にとらわれてはいけないと思うよ」
資料には、水はあるが海洋と呼べるようなものは無いと書いてある。少なくとも地球では、生命誕生のプロセスに海洋が大きく関わっている。しかし、イーブ人は他の天体から移住してきたのだそうだ。だれかの創作だとしても設定が細かく、よく出来ている。
すぐに飽きたらしい汀が買い物に出かけると言って着替えに行くと、ナースチェンカが痙攣をやめて活発に動きだした。
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