くちなしの姫君と銀白の龍その十三

「朱殷……! そなた、長老の言を破って……」


泉の傍で意識を失った朱殷を、年長の龍達が取り囲む。


「すぐに長老のもとへ運ぶのだ!」


「朱殷……! しかとしろ!」


「……清、が……私の子を……私は清の……」


──近くにいてやらなければ。


そう思うのに、指一本動かすこともできない。


朱殷は長老の住むところへと運ばれた。あの、一月眠りにつかされた場所だ。


こんこんと眠り続け、うっすらと目を醒ましたのは十日後だった。真っ先に長老の沈痛な表情が映った。


「朱殷……そなたは禁を破った。もう、その身は下界には耐えられまい」


「……ですが……!」


起き上がることも叶わぬなか、朱殷は必死にもがいた。そのありさまを、長老が悲しげに見ている。


「もう下界に赴くことは許さぬ」


「清は……私の子を身籠っているのです……!」


「ならぬものはならぬ。しかし……そなたの気持ちも痛いほど分かる。だから……一度だけ、許そう」


「……一度……?」


「そなたの愛するものの死が定まったときのみ下界に降りることを許す。それまでは、この室に幽閉する」


それは、極刑を宣告されたようなものだった。




***



その頃、朱殷の訪れが途絶えて姫君の心は千々に乱れていた。


やはり無理をしていたのだという確信。


逢えなくなって十日が経つ。前に朱殷が倒れたときは一月来られなかった。この度も一月は待つしかないのだろうか。いつかまた降りてきてくれるのであれば、待つこともできる。


姫君は朱殷を信じて待った。だが、一月をすぎても朱殷はこなかった。


屋敷では、裳着と入内の準備が着々と進められている。裳着は目前に控えられ、それが済めばすぐに入内のときがくる。


朱殷と無性に逢いたかった。逢って言葉を交わしたかった。どんな他愛のないことでもいい。顔を合わせて無事を認めたかった。


しかし、姫君の願いは叶わないまま裳着の日となった。


調度品の一切を唐渡りのものであつらえた、荘厳な式。姫君は固く唇を引き結んで、されるまま式を終えた。周囲のもの達は、その様子を若さと緊張ゆえのことと受けとめた。


式の間、姫君は腹の子が騒ぐのを辛く感じていた。まるで朱殷の気持ちを代弁しているかと思えて、後ろ暗かった。


今夜こそ……今夜こそは……そう念じながら、日々は残酷にすぎてゆく。いよいよ入内の前夜となり、姫君は朱殷の言葉を胸に心を決めた。


──死の定まったものしか天界に連れてゆけない。


姫君は剃刀を手に、目を閉じた。朱殷の顔が浮かぶ。銀白に輝く龍の姿も。朱殷に連れられて見た、満天の星空も。交わしてきた全てのやり取りも。克明に思い出せる。


この想いを忍んで、帝に身を捧げることなどできない。


「……朱殷……」


そうして、覚悟を決めたとき、姫君に異変が起きた。


「あ……痛っ……」


胎児が、産まれてこようとしている。


姫君は寝所で悶えた。想像を絶する痛みが波をもって迫りくる。


「……朱殷……っ」


出産には立ち合おうと言ってくれた朱殷はいない。姫君は夜一夜苦しみ、夜明け前に赤子を産み落とした。


ここでも姫君は龍と契った加護と鱗の護りを受けていた。産褥にも赤子の産声にも、誰も気づかなかった。女房達は大勢控えているにもかかわらず。本来ならば、ありえない事態だった。


「……あ……」


産声が心を洗い清める。赤子は銀白の髪をしていた。


姫君はがくがくと震える手を押さえ、剃刀で臍の緒を切った。


──残せた。二人の愛の証を。


ならば、もう思い残すことはない。


すとんと気持ちが落ち着き、震えがとまる。手にした剃刀を首筋にあてた。


あとは力を籠めて引くだけだ。


最期に、姫君が今様をくちずさむ。天界にいるはずの朱殷へと。歌い上げて、剃刀を持つ手に力を添えた。


「──待て」


その瞬間、息がとまった。僅かに剃刀が食い込んだ首筋に焼けるような痛みが走る。


けれど、そんなことはどうでもよかった。


声の方を振り返る。


「……朱殷……!」


そこに立っていたのは、間違いなく朱殷だった。つ、と歩み寄り、呆然としている姫君の手から剃刀を取る。


「死の定まったものなら天界に連れてゆける……清の死は今、定まった……」


「……あ……」


伝えたい想いは限りないのに、何も言えずにいると、朱殷が剃刀を床に置き、臥所で泣いている赤子を優しく抱き上げた。


「……一人きりで産ませてすまなかった……私が下界に降りられるのは、清の死が定まったときの一度きりと言い渡されて……」


「……逢えないかと……もう二度と逢えないかと……ならば死んで迎えにきてもらうしかないと……」


姫君がよろけながら朱殷の胸に飛び込む。天界の清涼な香りと姫君の香りが混ざり、どんな薫香でもかなわない香りがくゆりたつ。


「……待たせて、すまない。しかし、これで清と共にあれる……」


「……朱殷……もう離さないで……」


「ああ……決して離さぬ」


夜明け前の空に、銀白の龍が昇る。姫君と産まれたばかりの赤子を乗せて。





──翌朝、姫君の消えた屋敷は天と地がひっくり返ったような騒ぎとなった。京の都をくまなく探しても姫君は見つからない。様々な憶測が飛び交ったが、手がかりさえ掴めなかった。左大臣家では祈祷と嘆きで塞がり、やがて二の君が育つのを待って入内させることとなった。


天界では、姫君と朱殷が寄り添いながら泉に映るそのさまを見守っていた。


「……これでよかったのかしら……」


「……悔やむか?」


「いいえ……悔いがないから……申し訳なく思うの」


「慚愧の念を抱えるというのなら、私も共に抱えよう。清が一人で悩まぬように」


朱殷が姫君を抱きしめる。姫君に抱かれた赤子が笑った。


「ありがとう……朱殷、愛しているわ……」


「私もだ……命尽きるまで愛している」


姫君が朱殷の腕のなかで安らぐ。天界の空気は最初、鮮烈で身を切るようだったが、長老によってかけられた術で肌に馴染んでいた。


何よりも、朱殷が守ってくれる。もう二人を分かつものはない。


「朱殷……私は幸せよ……」


姫君が囁く。その返事の代わりに、朱殷は唇を重ねた。



















【完】

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