くちなしの姫君と銀白の龍その十一
それからは長すぎる十日間があった。もう文も交わせない。一日がすぎるのが遅く辛い。
朱殷は泉に張りつくようにして姫君を見続けていた。姫君の表情には翳りがあって胸が痛む。それでも見ているより他にできることはない。
「朱殷……病み上がりの体で力を使っては……」
「そうだ、そなたは邪気によって生死をさまよったばかりだ。いくら長老に治癒の術を施されたとはいえ……許されてすぐに下界に降りてさえいるのだろう」
同胞の龍達は朱殷の身を案じて絶えず声をかけたが、朱殷は聞き入れなかった。
「愛するものが孤独に耐えているのです……せめて見守りたい」
「朱殷……気持ちは察するが、十日に一度下界に降りるのだろう? 力は温存しておいた方がいい」
「……長老から聞いたのですか」
泉から顔を上げて睨めつける。思うようにできない苛立ちで体が栗のいがになったようだった。誰にでも構わず棘をあらわにし、体内でも暴れる。同胞の龍は悲しげに朱殷を眺めた。
「長老が言わずとも、そなたの無理な行動は天界に広まっている。知らぬものはいないだろう。森に籠もる父君はどうだか分からぬが、そなたが自分と同じく人を愛したと知れば……心を痛めるのではないか。喪う悲痛を誰よりも感じているゆえに」
「……父は関係ありませぬ」
言い捨てて、朱殷は泉に眼差しを戻した。姫君が几帳の奥に身をひそめ、朱殷の鱗を両手に乗せて見つめていた。日射しが届かないそこでは、鱗は沈黙するかのごとく鈍い輝きを放っている。
──鱗一枚で何の慰めになる?
朱殷は自嘲した。寂しがっている、心細くなっているときに肩を抱いてやることもできない。
「……清……」
朱殷は泉に映る姫君に呼びかけた。けれど声は伝わらない。
姫君は、それでも龍と契った加護を受けていた。
朱殷が倒れる前、毎夜屋敷のものが眠りに落とされていても怪訝に思われることはなかった。
月のものがなくなっても傍近く仕える女房達に気取られずに済んでいた。
姫君自身もまだ気づいていないが、胎内には朱殷の胤が息づいていたのだ。
姫君はやがて悪阻でそれを知るだろう。それはもう少し先の話だ。
今はただ、十日が経つのをやり過ごしていた。
──そうして、約束の十日後が訪れた。朱殷は日が沈むや、すぐに下界へと降りた。まだ人が眠りにつくには早くとも、強引に。
姫君が周囲の異変を知り、渡殿に出る。日が沈んだばかりの空に目を凝らすと、銀白の光がまたたき、近づいてくるのが見えた。
姫君は大きく息を吸うと、今様を歌いだした。初めて逢ったとき、滋養に満ちた甘露だと朱殷が言っていた。少しでも朱殷を労りたかった。
姫君の歌声が朱殷を甘く微かに苦い悦楽へと導く。引き返す道のない二人だけの世界は浄土なのか、それとも──。
「……清……!」
朱殷が庭に降り立ち、もどかしく人に変化して姫君へと腕を伸ばす。姫君は迷いなく朱殷の胸に駆け込んだ。引き離されていた半分同士が一つになる。その形がいびつなものでも構わない。一つでさえあれるのならば、どのような恐ろしいものになってしまっても怖くない。龍と通じ、人の世を裏切る慚愧の念にも捕らわれない。
「朱殷……逢いたくて狂いそうだった……」
姫君が涙をたたえながら言うと、朱殷は抱きしめる腕に力を籠めた。苦しいほどの抱擁。なのに、苦しさのなかで呼吸を思い出す。この十日間、ずっと息を詰めていた。一人きりでは寂しくて切なくて息もうまくできなかった。
「清……私もだ。触れられないときは拷問のようだった……天界の泉に映る清は悲しそうなのに、何もしてやれなかった」
「でも……こんなに早いときにきて大丈夫なの? 邪気は……」
「大丈夫だ……それより清が欲しい……情念がこみ上げて果てがない。欲しくて、ただそれだけで気がふれそうだ」
囁きかけると、姫君の白い頬が上気する。うなじがほのかに染まった。
姫君に否やはなかった。朱殷が姫君を抱き上げ、臥所に降ろす。向かい合って、互いの衣を脱がした。
「……跡があるわ……」
姫君が朱殷の左胸にある桜色の口接けの跡を見いだして、そっと触れる。朱殷はそこから昂る痺れと熱が広がってゆくのを感じた。
「ああ……この跡は消えない。私の命がある限り」
「私の手首の跡も……?」
「……そうだ。清が生きている限り証しとして……」
「……よかった……逢えない間、何度も唇を寄せていたわ……あのときを思い出して……忘れないように」
「清……」
朱殷は姫君の手首を取り、跡の上に舌先を這わせた。甘い。そして姫君の涙の潮の味がした。
扇情的な動作と舌先の赤さに、姫君はくらりと視界がめぐる。朱殷は姫君の反応を見て、愉しそうに手首を吸った。
「朱殷たら……」
朱殷の調子に巻き込まれた姫君が、お返しといわんばかりに朱殷の左胸に口接ける。たどたどしく跡を舐め、水音が鳴る。姫君は思いがけない音の生々しさで羞恥に耳まで赤くしながら跡を吸った。
「……これで、より鮮やかに残るだろう」
姫君のいじらしい可愛さを満足げに見ていた朱殷が、姫君の頬に手を添えて顔を上げさせる。唇を重ねるとき、朱殷の暁の瞳はいつも力強さを増す。どんなに凍てついた地でも融かして芽吹きを促す力。それが姫君だけに向けられると、胸がけざやかに脈動する。息を忘れそうな胸の喘ぎに思考がさらわれる。
口接けは深く、交じわりは濃厚だった。朱殷は貪欲に姫君を求めて、姫君の香りが移るほど抱いた。姫君はそそがれる快楽に意識を持っていかれないよう、朱殷の背にしがみついて爪をたてた。体の奥から爪先まで疼きが広まり、壊れそうだった。
同時に、繋がる悦びで涙がこみ上げる。目のふちにたまったそれを、朱殷が何度となく舐めとった。
「……清……辛いか?」
姫君の、しっとりと汗に濡れた額髪をかきあげて吐息がかかる近さで朱殷が問いかける。声は低く、一人ではおさめられない熱を孕んでいて、どのような囁きでも睦言になる。
「……違うの……私に朱殷が刻まれる……朱殷に染め上げられてゆくのが……嬉しくて」
「清……私は清のためなら何にでもなろう。一人の男にも、清を導くものにも。くちなわとも鬼とも呼ばれていい……」
「ならば……私だけの朱殷になって……」
「……ああ。私は既に清だけのものだ」
「……あなたは私だけのもの……私はあなただけのものになりたい……」
切望だった。後宮に入内すれば叶わなくなる望み。朱殷以外のものに身を任せるなど、もう考えられない。
二人は一瞬さえ惜しんで愛しあった。けれど朝は容赦なくやってくる。渡殿で別れを嘆きながら寄り添い、鳥が鳴きだすのを聞いても、朱殷はなかなか龍へと変化できなかった。
「朱殷……もう行かなければ……また邪気に……」
「分かっているが……別れればまた十日も逢えなくなる。この身が下界のものであればよかったのに……」
「朱殷……私はあなたが天界の龍だったからこそ夜空を共に楽しむこともできたわ……また私を乗せて翔けて……」
「約束しよう……清の望むことなら、叶う限り全てを」
「ありがとう……さあ、もう行って。夜が白むわ……」
「清……十日後に」
朱殷の体が白煙に包まれる。かき消えたかと思うと庭に龍の姿があらわれる。胸が握り潰されそうな痛みと苦しさは共有する感情だ。
ためらいを隠さずに、ひどくゆっくりと朱殷が空へと向かう。
姫君は胸許で両手を組み合わせて見守っていた。朱殷が見えなくなるまで渡殿に立って、交わした愛を思い返して。
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