くちなしの姫君と銀白の龍その九

朱殷は長く続く回廊を、身を引きずるようにして歩いた。


建物は外部も内部も白く、回廊は顔が映りそうなほど見事に磨きあげられている。


昔から、ここを歩くたびに自分の銀白が建物の白さに溶け込んでしまいそうな錯覚を感じていた。心身を消耗している今、なおさらに呑まれそうだ。


歩くのが辛い。早くたどり着いて欲しいと願う気持ちと、たどり着いて何を宣告されるかを恐れて永遠に着かなければいいという願いが交錯する。


「……っ」


足の重さに耐えかねて膝から崩れ落ちる。もうこのまま白い世界に同化させられてしまいそうだ。


「……清……」


思い浮かぶのは、自分をひたすらに想って信じてくれている可憐な姫君の顔だ。雪解けの後に花開く笑みを見たいのに、昨夜の心配そうに朱殷を見つめる不安そうな顔ばかりが脳裡にこびりついている。


朱殷は回廊の途中で倒れた。姫君を想いながら、意識が遠のく。視界が狭まり、血の気が引いてゆく。砂嵐の音が耳を塞ぐ。


* * *


「……清……!」


そうして目を醒ましたとき、純白の寝台に寝かされていた。回廊の硬く冷たい感触から、柔らかく温かい感触に変わっていて戸惑う。この建物には何度か訪れたが、記憶にない場所だった。清廉な空気に満ちているそこでは、体内に凝った邪気がゆっくりと融けてゆく。特殊な場所なのだということは分かった。


「目が醒めたか」


聞き覚えのある声に、はっとして視線を巡らせる。寝台の斜め向こうで、出窓の前に佇むものがいた。


「……長老……これは……」


かしこまり、即座に身を起こそうとする。頭がくらりとして、体は鉛を詰められたようだった。


「お前はしばしこの場で休みなさい。邪気を浄化しなければならない」


「ですが……」


「お前は下界にあるものを愛してしまった……それは咎めまい。しかし、下界の邪気を甘く見すぎた」


寝台の柔らかさを思わせる声には、抗えない厳かさがある。事実を突きつけられ、朱殷には何も言い返せない。


──今日はまだ、文を送っていない……。


ぼんやりと、そう思う。姫君の物憂げな顔が浮かぶ。自分の鱗を両手に押し包んだ姫君の消え入りそうな姿。


「回復するまで、この部屋から出ることは許さぬ。また、下界に降りるのは十日に一度を限度とする」


「そのような……! せめて、清に逢って話を……」


「ならぬ。お前の身は限界に達した。しばらくは起き上がることも叶わぬよう術を施した。……休みなさい」


長老が枕元に歩み寄ってくる。手をかざし、朱殷の目蓋にあてると、途端に眠気が朱殷を見舞った。


まだ言いたいことがあるのに、猛烈で静かな睡魔に打ち克てない。胸の泉に水が満ちあふれる。


「……眠れ。この場での眠りがお前を癒す」


長老は始めから、そのつもりだったのだと眠りに引き込まれながら悟る。道の途中で倒れることも計算済みだったのだろうと。


「……さ、や……」


深い眠りに捕らわれる寸前、朱殷はそれだけを口にした。


その後、朱殷は長老の術によって眠り続けた。時折意識が浮上するが、意思は定まらず、すぐに眠りへと引き戻される。時間の感覚は完全に失っていた。


その眠りは、夢を見ることさえ許さない堅牢なものだった。せめて姫君との夢を見られればよかったのかもしれない。だが、夢でも姫君を見てしまえば、朱殷は動かない体に鞭打って下界に降りようとしただろう。


眠りは朱殷の体を癒したが、心に救いはなかった。


眠り続けて何日間がすぎたか。次第に意識が鮮やかになるときが訪れるようになった。ほんのひとときだが、朱殷は姫君のことを想った。いきなり逢瀬を絶たれ、姫君はどうしているだろうか。心変わりをされたと嘆いてはいないか。


朱殷は動かない体を呪った。動けば下界に降りる。そうして、力を使って姫君と二人きりになり、かき抱いて想いのままに愛する。分かりきっていたからこそ長老は術をかけたのだ。


歯噛みしている間に、睡魔が身を乗っ取る。朱殷は絶望しながら意識を沈められていった。


──人間の時間でちょうど一月が経った頃、朱殷は目覚めを迎えた。水泡が弾けるように目を醒まし、起き上がる。体は軽く、胸を塞ぐ凝りもなくなっていて、朱殷は深く呼吸をした。時間の感覚が掴めないまま、姫君に逢いに行かなければと思う。


「ようやく癒えたか」


気づくと、長老が室内にいた。


「長老、私はどれだけ眠っていたのですか」


眠らされていたのですか。


朱殷は長老を睨みつけていたかもしれない。焦れて、胸の奥が爆発しそうだ。長老はそれに対して構わず悠然としていた。


「下界の時で一月ほどになる」


「一月……!?」


朱殷は寝台から出て、立ち上がった。もう目眩もない。完全に復活していると思い上がった。


「朱殷、忘れてはならぬぞ。下界に降りるのは十日に一度が限度だと。お前の父とて堪えたのだ。住む世界の違うものを愛するということには、それだけ枷が生じる。……お前の母もまた堪えた。だからこそ想いを全うできたのだ」


「長老……」


「夜を待って降りるがよい。……文はいけない。たとえ短い時間といえど、昼間の下界に降りてはいけない」


朱殷は頷くしかなかった。倒れたとき、長老が手を差し伸べなければ野垂れ死んでいた。


「ならばよい……もう行きなさい」


「は……」


頭を垂れて礼をして、扉に向かう。重厚なそれを開けると、寝かされていた部屋は長い回廊の突き当たりだったのだと分かる。


逸る想いに任せて回廊を走り、建物の外に出る。真っ先に泉へと行った。


念じると、焦がれに焦がれた姫君の姿が映し出された。


姫君は几帳の奥に籠もり、朱殷がもたらした文と鱗を見つめていた。息をつき、左手首を見おろす。朱殷がつけた桜色の跡に、そっと口接けていた。


唇が微かに動く。朱殷、と呼ばれたのが分かった。姫君の頬に、涙が一筋つたい落ちた。

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