第二章十

「清様、どこかお具合のよろしくないところはございませんか?」

「今日は気分がいいの……夏木に触れられていると安心するわ。このまま、しばし触れていてちょうだい」

「はい……あ、また動きました」

「どうやら夏木を気に入っているようね」

「もったいのうございます……」

 姫君が母の顔で微笑み、夏木の手に自分のそれを重ねた。夏木の手は温かく、姫君は安らいだ息をついた。

 夏木が、あいている手を姫君の手に添える。

「今宵は、お傍にいても……?」

 そっと伺うと、姫君は夏木のよく知る笑顔に戻って応えてくれた。

「ええ……私の傍にいていいのは、今、お前だけ……主上にも邪魔はできない」

「嬉しゅうございます……」

 姫君は夏木と二人きりであれるならば、欠けるところのない満月のごとく満たされていた。夏木にも、甘美な痺れが走る。夏木が手を重ねて包んでいた姫君の手は優しく動き、夏木の指に絡まった。主上への怒りをあらわにしていた夏木をあやすように、緩急をつけて握り、その感覚のとりこにしてゆく。

「清様はお上手でございます……私の波打つ心を、いとも簡単にお鎮めになられます」

 夏木が酔いしれて呟くと、姫君は小さく声に出して笑った。魅惑的な声の響きに、夏木は更にとらわれる。

「分かるわ……お前は私のものだもの。お前の心が波打つときは、必ず私のためを思ってのことだと」

「清様……私は幸せ者でございます……」

 時は穏やかにすぎていった。二人は限られた時を満喫し、姫君は産み月を迎えた。

「御するするのこと、ご安産で……」

 出産に立ち合った女房が安堵と共に太政大臣に告げる。女御子だった。

「清様、よくお努めになられました……!」

 疲れきって横たわる姫君に夏木が声をかけると、姫君は閉ざしていた目をうっすらと開いて夏木を見た。姫君の面には深い疲労感だけではなく、御子を産みおおせた充足も浮かんでいる。

「御子は……?」

「お元気な女御子でございます。清様の幼い頃と生き写しのような、お美しい御子だと乳母は申しておりました」

「そう、よかった……夏木」

「はい、いかがあそばしましたか?」

 姫君が夏木に手招きをする。か細い声を聞き取るために顔を寄せると、耳に姫君の熱い息がかかった。それだけで夏木の鼓動はあやしく跳ねあがる。思わず姫君を見つめた。

 姫君は艶麗な眼差しを夏木に向けて囁く。

「これで身軽になったわ……夏木、後宮に戻るまでお前を離さない」

 後宮でも夏木は傍近くに仕えているが、主上の目があるため二人きりでいられる時間はごくわずかだ。里下がりをしている今が唯一の好機と言っていい。

「はい、清様のお心のままに……まずは薬湯をお持ちいたしましょう」

 姫君の変わらぬ心に、夏木の胸は喜びであふれる。薬湯を持ち、姫君が体を起こすのを支えながら、夏木は確かに幸せを味わっていた。


 その頃、後宮では宣耀殿の女御が懐妊のため里下がりをすることになった。相次いで淑景舎の更衣も懐妊し、里下がりをした。

 そうなると主上の寂しさは募っていった。宣耀殿の女御を仮そめに愛してみても、姫君を恋う心に偽りはなかったが、それでも主上は心を通わせることのできる女を求めずにはいられなかった。

 どこの女御更衣も、主上の御寵を得ようと女房達を着飾らせ、夜の御殿では手を尽くした。それが自分からの御寵を得るために作り上げられただけの姿だと気づくと、主上は虚しさに愕然とした。

 そこで狂いだした歯車は、止まることを知らなかった。


 太政大臣が里で育てている親王を春宮にと働きかけているのに応える見返りとして、主上は姫君の参内を求めた。そのため、産後一月ほどで姫君は後宮に戻ることとなった。

 そうして、親王の袴着は盛大に執り行われた。調度にも禄のものにも工夫を凝らし、後の世にも語り継がれるだろうと思わせた。親王はあどけないながらも高貴な面持ちで式に臨み、参列したもの達を感嘆させた。

 袴着のすぐ後に春宮の宣旨が下された。姫君の産んだ御子は次代の帝となることが確約され、姫君は感慨深く新春宮を見て、祖父母にあたる太政大臣と北の方は育ててきた新春宮の姿を落涙して喜んだ。

 里下がりの最後の夜、姫君は夏木と二人ですごしていた。

「お前といられる時は短くなってしまったけれど……我が子に春宮の宣旨が下されたのは、よかったわ」

「まことにご立派にご成長あそばして……頼もしいばかりのお姿でございました」

 春宮は姫君が後宮に参内した後を追って、宮中の昭陽舎に入ることが決まっている。今までは後宮と太政大臣家で離れて暮らしていたが、これからは距離も近く春宮を見守ることができる。春宮は「おたあさまがちかくなる」とはしゃいでいるのが愛らしかった。

「ねえ、夏木……お前の肌を見せて」

 同じ衾に共寝しながら、姫君が夏木の衣に手をかける。夏木の体が強張った。

「清様、それは……」

「お前の肌を楽しむだけよ……危ないところには触れない。いいでしょう?」

 それは、久しく遠ざかっていた悦楽だった。夏木は鋭い棘を持つ花のように美しく開花していた。

 夏木は、逆らえない。姫君に触れられるのを、渇望してきていた。もう叶わないと諦めて、願いを抑えていたものが噴出する。

「夏木……私に身を委ねて」

「はい……はい、清様……」

 姫君の手が、夏木の衣を脱がせてゆく。衣擦れの音が衾に籠もって艶めいた響きをたてる。姫君は袴の結び目に指をかけると、迷いもなくほどいた。

「……泣いているの?」

 姫君の手が夏木の肌を撫で下ろし、二の腕の内側に唇が吸い付く。強く吸った後、唇は夏木の目許に行って、絶え間なく流れる涙を舐めとった。夏木は懐かしさと悦びで、甘い蜜に漬け込まれる錯覚さえおぼえた。

「お前の肌はなめらかな陶磁器のようね……それでいて引き寄せられる熱を持っている。一度味わえば、もっと欲しくなる……」

 ──おそらく、主上も。

 その一言を呑み込んで、姫君は夏木を愛した。一時は毒に侵されることで痩せていた体も、耐性がついて肉付きが戻っていた。それに加え、ふくらみを得た胸乳は弾力があり、蠱惑的に揺れている。

「顔を見せて……夏木……」

「あ……清様……っ」

 恥じらいながらも求めずにはいられない風情の夏木がいじらしく、唇を重ねる。小粒に生え揃った前歯を舌先でなぞると、夏木から舌を差し出してきた。

 姫君は触れずにいた間を悔やんだ。こうしていれば問題はなかったのだから。夏木の体は夜の闇のなかで、ほのかに光を放っている。なまめかしく見事に育っていた。

「私の可愛い夏木……身体中に跡を残してあげるわ」

「清様……消えない跡が欲しゅうございます……」

「夏木……」

 夏木が姫君の胸許に顔を埋める。姫君は夏木をかき抱いた。

「いいわ……お前の望みだもの」

 どれほど強く吸っても、跡はやがて消えてしまう。姫君はそうと分かっていても、今は夏木の望むことに応えてやりたかった。いつか遠くはない未来に、夏木に託さなければならなくなることの重さを思うと、何をしてやっても足りない。

「あの……私も清様に口づけてもよろしゅうございますか? 跡は残しませんので……」

 夏木が上目遣いに見上げてくるのが愛くるしく、姫君は笑みを浮かべた。そうだ、今はごく限られた大切なときなのだ。与えられる悦びは全て与えてやりたい。

「ええ……お前の欲しいところに」

 姫君が許すと、夏木はおずおずと姫君の左胸に唇を寄せた。微かな感触は、けれど鮮烈で姫君の最奥がくすぐられる。

 お返しに夏木の左胸に口づけると、鼓動が早鐘打っていた。

 交わりは長く続いた。飽きることなく求めあい、夜が白む頃に抱きあいながら眠りについた。

 そして、姫君が後宮に参内する日となった。



 *



 姫君は後宮に戻った。早速、主上から夜の御殿に召される。

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