第一章の一
*
御簾の奥深く、張り巡らされた几帳の陰に身を横たえながら、左大臣の姫君は趣向を凝らした文を物憂げに握り潰し、寵愛している女童を呼び寄せた。
文は兵部卿の宮が何度となく伝手を頼ってもたらしてきているものだった。
それをうんざりしたように反故にする眼差しは十四歳という少女のあどけなさを微塵も感じさせない冷たいものだった。
「夏木」
「はい、大君様……夏木はこちらに」
「私と二人きりの時は名前で呼んでいいと許しているでしょう?」
「はい……清様」
夏木がこころもち頬を染めて応じると、名前で呼ばれた姫君はうっとりとした微笑みを浮かべた。
「そうよ……いい子ね。もっと近くに来て、よく顔を見せて」
「はい……」
夏木は衣擦れの音をさらさらと立てながら、そっと姫君の吐息さえ感じられるところまで進み出た。その動作はためらいがちなようでいて物慣れていた。
姫君は夏木の産毛だった桃のような頬を、白くひんやりとした指で撫で、ふと微笑みを深めた。
「お前の肌は指が吸いつくようね……ねえ、今のお前のお気に入りは何?」
問いかけながら顔を寄せて頬ずりする。夏木が微かに肩を揺らして反応するのを楽しむように。
「はい、あの……お庭に咲いている紫のお花が……吸うと蜜が甘くて……」
「花の蜜?」
「はい……大人の方々からは、もう十二歳にもなって、いつ裳着をしてもおかしくない齢なのだから、子供じみたことはやめなさいと言われたのですが……」
「お前はそのままでいいのよ……夏木」
姫君が夏木の耳に唇を寄せて甘い声で囁きかける。熱をもって湿った吐息が夏木をくすぐった。
「ねえ……その花を一枝持っておいで。ここなら誰も見咎めないわ。二人だけで花を楽しみましょう?」
「清様に花を吸わせるなど……」
「夏木、お前のお気に入りを私には教えてくれないの?」
姫君が夏木の頬を手のひらに包みながら、つと顔を離して見つめる。姫君の瞳は薄暗い几帳の奥で濡れたように輝きを放っていた。
「いえ、そのような……清様がお喜びになることでしたら、この夏木は……」
「そうね、そんなお前は可愛いわ。私の心に添ってくれる。……では、すぐに戻っておいで?」
「はい……すぐにお持ちいたします」
「ええ。……待たせないでちょうだい?」
悪戯を持ちかける笑みを姫君が見せると、夏木は少しはにかみながら顔をほころばせて頷いた。それは姫君の共犯者としての表情だった。
「では、行ってまいります」
もはや迷いもなく立ち上がり、姫君の笑みに見送られながら庭へと向かう。
夏木は急いで自分の心に応えようとしてくれるだろうと姫君は分かっている。
「楽しみだわ……夏木」
こぼれた呟きは姫君の瞳を玉虫色に見せた。
二人、向き合いながら吸う蜜の甘さは、二人だけの時間をどれほど甘くさせるだろうか。
しばし遠ざかる足音を聞きながら、姫君は禁断の蜜に思いを馳せた。
*
その頃、内裏の宿直所では、まさに男達による姫君についての噂がされていた。
大納言を父にもつ十八歳の少将と、左大臣を父にもつ同じく十八歳の宰相の中将、それと上達部により、姫君のつれなさに嘆きの声をあげるものもあった。
浮き名で知られた衛門督が「私など繁く文を送っているのですがね、全く相手にされていないのですよ。くちなしの姫君はまことにお心が堅いようだ。女房などに頼らず、もっと特別な伝手を使わなければならないのでしょうかね」と宰相の中将に目をやりながら愚痴をこぼすと、少将が控えめな声音で剣呑なことを言いだした。
「くちなわの喰らう姫とも言われているようですが」
しかし、姫君の兄たる宰相の中将は憤る様子もなく鼻で笑いながら口許を隠していた扇を閉じた。
「くちなわにでもならなければ、あのお方は喰らえないよ。まあ、秋には裳着を済ませて入内することになっているからね。真相は主上だけが知るのだろうね」
「入内いたしましたら中宮の宣下はすぐですか」
「少将は不満かい? お似合いの年頃だ。後宮には然るべき后もまだいない。主上とてお楽しみにしてあらせられる。さながら贅を尽くした雛人形のような好一対になられるだろう」
宰相の中将は、未来はすでに決したといわんばかりに話す。その目は人を見下してさえいる。姉を更衣にもつ少将は、妬ましさから、ならば自分がくちなわになろうかと思った。
姫君を掠め奪い、その全てを手にしたら左大臣はどれだけ悔しがるか。憤怒をあらわに鬼の形相になるだろう。そうだ、化けの皮を剥がしてやればいい。自分は我がものとした姫君と地獄に堕ちて恋を得る。──だが、それに足る姫君なのだろうか?
生まれながらにして全てを与えられた姫君。
少将の姉、更衣とて妃であることに間違いはない。ただ、妃の背後に立って支える父の地位がひと刻み足りない大納言であるがゆえに后ならぬ妃にとどまり、更衣としての順当な寵愛にとどまる。
姉は主上が即位してすぐに入内した。そしてずっと、それなりに扱われるだけだ。おそらく更衣として後宮に飼い殺しにされるのだろう。後見人たる父は歳をとり、才覚もなく、これ以上の出世は望めない。
それに対して、左大臣家の姫君は三位の位を最初から得て、主上と唯一無二の一対としていずれ中宮になると誰もが思っている。
それは影と光、日陰に根を張ったがゆえにか弱く細く寒さに震えるようにして立つものと、陽光を十分に浴びて咲き誇り実りを得るものとの違いだ。
どちらも元はといえば一人の女でしかないというのに、出生の違いだけで女の生涯はこんなにも違う。
自分だとて似たようなものだ。大納言を父としてもつことで、それなりの位を甘んじて受けるしかない。どこまで昇りつめられるかは生まれで決まる。
ならば──その光り輝くものを略奪したらどうだろう?
天と地をひっくり返し、夜の闇のなかで日向にあるべきものを摘み取る。
鬱屈を抱えた少将は、人生の意趣返しとして、復讐として妄想しはじめた。
どれほど可憐なものを蹂躙することになるのか、考えただけで後ろ暗い興奮を覚える。誰からも著しく求められたことのないものが、誰からも可愛がられている仔猫を誰も見ていないところで打つように。
「くちなしのお方はさぞやお美しいのでしょうね。中将殿は兄上でいらっしゃるのですから、その美貌はご存知でしょう?」
僅かに身を乗り出して、少将は探りを入れてみた。けれど、宰相の中将はつまらないものを見るようにして首を横に振った。
「妹はたいそう人見知りなさる方でね。父にさえお姿を見せようとはせずに奥ゆかしくしておいでになっているよ」
──自分をまともな話し相手とも見ないこの男からでは情報は引き出せないのか。
少将は内心で歯噛みしながら、別の手を探した。何か強力な伝手となるものが欲しかった。
そこで、宰相の中将はふと思いついた感じで少将にとって重大な一言を発してしまった。
「けれど、女童のうちの一人をいたくお気に召していてね。夏木という名まで与えて傍から離さずに使っている」
「なつき……」
「そう、よく懐くように〝なつき〟と名付けたとか」
一介の女童には誰も心を留めはしない。話題はすぐに変わってしまったが、少将には深く心に残った。
──その女童ならば、知っている。
少将の乳母には三人の子が存在する。そのうちの末子が、確かに何処かへと宮仕えに出て、〝なつき〟と呼ばれているという記憶があった。
*
その夜は、冷たい雨が降っていた。
「夏木、もっと傍に寄りなさい……お前が風邪を患ってしまうわ」
褥の隅に横たわっている夏木を、姫君が肩を抱いて引き寄せる。夏木のむき出しになった肩はなめらかで、いくぶん冷えていた。
それを温めるように綿入れの衾に誘い込み、夏木の頭を抱きしめる。夏木は少し息を詰めた後、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。
「清様の香り……」
「お前が一番好きな香りよ。……そうでしょう?」
「はい……大臣様が清様の入内にと様々なお香を調じさせておいでになりますけれども、この香りに勝るものはありません。清様だけの香りです」
可愛いことを言う夏木に愛おしさが増して、姫君は夏木の頭を優しく撫でながら額に口づけた。
「今はお前だけに与える香りよ……朝までこうしていてあげる。お前にこの香りをつけてあげるわ」
「嬉しいです……でも、女房の方々に……」
夏木が姫君の腕のなかで身じろぎする。姫君は、構わず夏木の腰を抱いて手を滑らせた。
「あのような雀どものことなど気に病むことはないのよ。お前には私がいる。それでは不安?」
「もったいないことです……私には、清様だけが……初めてお目見えする前から、素晴らしいご主人様にお仕えすることになるのだと、母から聞かされてまいりました」
夏木が懐かしむように言うと、姫君もまた初めて夏木を知ったときのことを思い出した。
頃は桜の季節。あのときも今夜と同じく冷たい雨が降っていた。朝から降り続く雨に、女房達は「まったく花散らしの雨だこと。もっとささやかに降れば桜はより色濃く美しくなりましょうものを」と御簾の陰から庭を眺めていた。
そのような雨のなか、夏木は庭に出ていったのだ。
姫君は、乳母からもたらされた一枝の桜をもって彼女の存在を知った。
乳母は「泥まみれになって大君様のもとに向かおうとする女童を見咎めましたの。聞くと、大君様がこの美しい桜をご覧になれないのは悲しいことだから雨で散る前に、と」と説明した。女童は無理に背伸びをして転んだらしい。
姫君は庭に興味などなかったが、その桜はなにゆえにか優しいものに見えた。その女童について訊くと、年が明けてすぐの頃から宮仕えに出てきたそうだった。
桜を手にとると、雨の水滴で手が濡れた。だが煩わしいことだとは思わなかった。雨に濡れそぼりながら精一杯に腕を伸ばす少女の姿が、脳裡に浮かんだ。
それから、姫君は桜の女童に意識を向けるようになった。知るために几帳の奥から出ることさえした。
どの女童が桜を贈ったのかは直感ですぐに分かった。その少女は、宮仕えに出るにはあまりにも純粋であるがゆえに不器用だった。
女房達から言いつけられた雑用に「はい」と答えながら洗練からは程遠い所作で取り組む。がむしゃらとでも表現するべきか。その「はい」という声には緊張がこもり、けれど大きな声でも甲高い声でもなく、姫君の耳にはくすぐったいような好ましさが感じられた。
ひと月ほど様子を見た姫君は、御髪洗いの折りに暇潰しにみせかけて女童を呼び寄せた。
女童は、それまで雲の上の人だった姫君の前に出た瞬間、つぶらな瞳をまっすぐに向けて見つめてきた。
そして、言ったのだ。
「私は、こんなにも素晴らしいお方にお仕えできているのですね」
その一言はそれだけで完結しており、小さな少女はただ満たされていた。
──この女童は、私が存在することだけで、真実幸せなのだ。
それまで、誰に対しても関心をもったことも好ましく思ったこともなかった姫君の胸の内に、初めて少女が灯った。
そうして、姫君が女童と出逢ってしばらくした日のこと──。
姫君は寝所に女童を呼び寄せた。
いきなり最奥の場に呼ばれた女童は恐々としながら姫君の待つところへと向かった。
紙燭の心許ない灯りを頼りに、夜の屋敷内を歩く。
何度か道に迷いそうになりながらも辿り着くと、臥所に横たわる姫君が浮かびあがる。
「あの……お待たせしてしまい、申し訳ございません……」
か細い声は、自分のものではないようだと女童は思った。空気が自らの声によって震えることさえ怖いのに、猫のようにどこか甘えている響きがあることを自覚して驚く。
「待ち侘びたわ……こちらへ。そんなに離れていては内緒話もできないわ」
「内緒話……?」
「いいから、いらっしゃい。鬼のように取って喰らうことはないわ……それとも、私は鬼に見えて?」
「とんでもございません! 大君様はお美しくあられて……」
「まだ遠いわ……もっと、こなたへ」
女童はいざなわれるままに、躊躇いながら近づいてゆく。それにつれて、姫君の香りが染み込んでくるようだった。ふわりとして心地よい感覚は、さながら雲の上を歩いているかと覚えさせて、その夢見心地の表情は姫君にとって愛くるしくうつった。
夜の闇のなかでも美しい姫君に女童はすっかり魅せられていた。姫君は何かを企んでいるのか、女童が昼間にたまさか見かけるときには、いつも何も面白くなどないといった表情をしているのに、今は姫君自身無自覚のまま悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「あの……ご用事は……」
「ええ……お前は可愛いから、名をあげる。──夏木」
「なつき……? 大君様、なにゆえ……」
女童が唐突なことに目を白黒させている。姫君はくすりと笑った。
「だから、可愛いからよ。……よく懐くように、夏木と名付けるわ」
「大君様……そのような、私……」
「嫌なの?」
「いいえ、いいえ……幸せで……夢のようです。大君様は遠い世のお方……なのに、これほど近くに置いて頂けて、名まで……私はもう、懐いております」
顔を真っ赤にしながら、たどたどしく話す女童──夏木に、姫君は笑みを深め手を伸ばして頬に触れた。姫君の手はひんやりとしていて、夏木の紅潮した肌を優しくおさめた。
「もう一つあるのだけれど、名を与えただけでこれほど喜ぶのだもの。大丈夫かしら?」
「もう一つ……?」
期待と畏れ多さが入り交じった眼差しを、姫君はまっすぐに受けとめて頷いた。頬にかかる手はそのままだ。夏木は体中から沸き上がってくる喜びに今や瞳を輝かせていた。
姫君は声をひそめて囁いた。
「二人きりのときに私の名を呼ぶ権利をあげる。清子……清、よ」
「大君様、私のようなものに……!」
「構わないわ。私がお前に呼ばれたいのだもの。……ねえ、夏木」
「……はい……」
「ほら、呼んで」
姫君が楽しそうに促す。姫君の手の冷たさで引いた火照りが、再び夏木を襲った。耳まで赤くしながら、それでも応えようとする。
「あ、あの……あ……清、様……」
「ええ……夏木」
「……清様……」
「なあに、夏木?」
姫君が目を細めて問い返すと、夏木はうつむきがちになりながらも言い募った。
「……清様……は素晴らしいお方です。とてもお美しくて、良い香りがして……でも、つまらなさそうなお顔をいつもしていらして……だから、私は……清様……に、今お見せ下さっているような笑顔になって頂けるようにお仕えしたいです……」
「夏木……ずっと見ていたの?」
「滅多に拝見できませんでしたけれど、お顔が見られた日は嬉しくて……けれど、大君……清様はお楽しくなさそうで……気になっておりました」
面映ゆい表情で夏木が話す。姫君は内心で感嘆していた。夏木もずっと見ていたのだ。
「では、これからはずっと一緒よ、夏木……私を楽しませて……お前の全てで」
「はい、頑張ります……清様……」
「ええ、夏木……お前は何ともいじらしい……」
そして姫君は夏木に顔を近づけた。初めての口づけは桜のように淡くありながら、桜吹雪のようにけざやかだった。
「……清様?」
ふと気づくと、夏木が不思議そうに姫君を見つめていた。
どうやら動きを止めて思い出にふけってしまっていたらしい。
夏木の眼差しはあのときから何も変わらない。ひたすらにまっすぐで、曇りない。
姫君はそれを見て微笑み、夏木の額髪をかきあげて撫でた。
「私にはお前だけが心に染み入る……それは変わらない真実というものだわ」
そして返事を待たずに夏木の唇を吸った。柔らかいそれを甘噛みして湿らせてゆく。
「……ん、あ……」
手のひらを平らな左胸にあてると、とくとくと速まる鼓動が感じられた。温かい。
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