両雄、並び立つ

はるのそらと

第1話 冷たい雨

 雨が降っている。

 春先の冷たい雨は、蕾を大きくした桜の開花を留まらせ、やってくる春を追い返す。こんな日は、自室で温かいブラックコーヒーを片手に、雨音に耳を傾けながら、のんびりと朝の目覚めから覚醒するのがいい。

 しかし、現実はそううまくいかない。

 雨が降っている。冷たいと思った雨の感覚は、もうない。

 石のように重い体。上体を起こすこともできず、目に映るのはコンクリートに落ちる無数の水滴と紫煙しえんのようにたゆたいながら流れる赤い血。

 歯を鳴らし、両手両足を震わせていたのがいつのまにか止まっている。

 しくじった。

 流れ出る赤は、命そのもの。徐々に消えゆく生を実感しながら、最後まで残るのは感情らしい、と冷静に分析する自分がいる。

 そうでもしないと、自分が死にかけているという事実を理解できない。

 そう、今僕は死に向かっている。

 砂時計の砂のように、こぼれる命を掴むことはできない。

 誰にも見つからず、看取られることなく死ぬ。そこに一抹の空しさを感じても後悔はしないよう生きてきた。そういう危険がある仕事だ。最初から覚悟はしていた。

 ただ、あの穏形おんぎょう

 あれの存在だけは、伝えなくてはならない。

 まだ、死ねない。

 立ち上がろうと、手に力を込めてみたが、まるで他人の体のようにぴくりとも動かない。

 こんなことなら、三上みかみさんの助言に従っていればよかった。一抹の後悔がわき上がる。だが、こんな状況にでもならなければ、そう思わなかっただろう。後悔は先には立たないのだから。

 ここで終わるのか。

 街灯に明かりがついた。電球が切れかけているのか、チカチカと点滅を繰り返す。緊急事態を知らせる信号のようだが、受け取る相手は果たしているのだろうか。降り続ける雨でぐっしょりと濡れてしまったイヤホン型の端末は、もはや使い物にならない。

 せめて、雨さえ降っていなかったら。己の血で文字をつづることもできたかもしれない。いや、そんな時間は残されているだろうか。

 どうにかして遺せないか。

 しかし、考える時間はない。こうしている間にも、意識は徐々に遠のく。

 そのときだ。

 ――ようやく。ようやく好機が巡ってきた。

 幻聴でなければ、年若い男の声が聞こえた。もう、目は機能していない。

 ――長かった。本当に気が狂いそうになるくらい、このときを待っていた。

 嫌な予感がした。瀕死の状態で道端に横たわっている男にかける言葉ではない。

 ――不幸な男だ。だが、その体。俺がうまく使ってやる。

 やだ、やめろ。

 そう思っても、声は出ず、体は動かない。

 そこでテレビの電源が切れたように、プツンと意識が途絶えた。

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