第3話 致死の遺伝子
病院で拳銃を持ち出す日が来るとは思わなかったし、そんな日は来て欲しくなかった。
児童保護局が強制執行を行うのは、児童虐待の事例だけとは限らない。
「院長、あなたは有名政治家や大企業の幹部の依頼を受け、遺伝子検査の結果を改ざんしていた。その結果、本来ならば防げるはずの重篤な遺伝疾患を発病する子どもが現れている。そういうことでよろしいですね?」
「改ざんの事実は認めますが、遺伝疾患の保因者だからと生殖を禁止するのは基本的人権の侵害でしょう! 私が医師になった頃には、そのような言説は冗談でも認められなかった!!」
「それはまあ、時代が違いますからね。あなた方年配の医療関係者が国民医療費を湯水のごとく使ったあげくこの国は財政破綻して、それで極右政権が今も与党となっている。そして、日本国民は民主的なプロセスでかつて優生思想と呼ばれた価値観を受け入れた。その上でまだ文句を仰いますか?」
「そ、そんな……」
都内の病院で遺伝子検査データの改ざんや収賄が行われているとの匿名の告発を受け、俺と部下たちは他の班と協力して当該病院に立ち入り調査を行っていた。
児童保護局の作業着に身を包んだ数十名の職員が拳銃をちらつかせると医療スタッフたちはその場で両手を挙げ、証拠隠滅を防ぐため全員を屋外に退去させると、俺は院内に隠れていた院長への尋問に移っていた。
「これは私の推測も含まれますが、あなたは優生思想に反対して遺伝子検査の結果を改ざんしたのではなく、ただ単に有名政治家や大企業の幹部から多額の賄賂を受け取るために犯罪に手を染めたのでしょう。本当に児童保護法が間違っていると思うのなら、自らが政治家となり法改正を訴えればいい。だが、あなたは私腹を肥やすことを優先した」
「そう言われても、私たちだって生活が苦しいんだ! 病院の院長になってようやく子ども2人を医者にできるような世の中で、少しぐらい利益を得て何が悪い! それに遺伝疾患が根絶されれば、私たちの仕事は余計に」
院長が醜い欲望を口にし終える前に、俺は拳銃を抜くと院長の頭部を撃ち抜いた。
『児童保護法』違反の中でも今回の事例は極刑に値する犯罪であり、こういった場合は裁判費用の軽減の観点からその場で犯人を射殺することが推奨されている。
屋外に退去させられていた医療スタッフは全員が警察へと連行され、遺伝子検査データの改ざんに関与していた者は今後処罰を受けることとなる。
院長が射殺されたと聞けば大多数の関係者はさっさと口を割るだろうが、こうでもしないとかつてのような高給を得られない医療関係者の苦難には同情できないこともなかった。
院長を射殺した翌週、俺は知人の医師から呼び出されて区営バスで彼が勤務する病院へと向かった。
俺は高卒で児童保護局の職員になったが、高崎は都外の公立医科大学に進学して医師となった。
高崎は医学生の頃、俺とは別の方向性で『児童保護法』の理念に貢献したいと話していて、今では臨床検査科を兼任する小児科の医師として働いていた。
俺は保護した児童の心身の精査を高崎のいる病院の小児科によく依頼しているし、高崎が勤務する臨床検査科から送られた遺伝子検査のデータをもとに生殖禁止令を告知しに行くことも多い。
妻と結婚した時、俺と妻の遺伝子検査を請け負ってくれたのも高崎で、彼から2人とも検査結果に問題はなかったと聞かされた時はとても嬉しかった。
妻が妊娠した時は高崎にも電話でその旨を伝えていたが、本業は小児科医である彼が妊婦である妻を診察することはないので、俺は何の用事なのだろうと不思議に思いながら高崎の職場を訪れた。
「まずこれを見てくれ。この遺伝子配列は君のデータで、検査した当時は何の問題もなかった」
「ああ、もちろんそうだよな。で、これが?」
高崎は以前見せられた遺伝子検査の結果を電子カルテに表示して俺に再び見せ、俺はこの何が問題なのかと不安に思って尋ねた。
「まだ研究段階のデータだが、君が持っているこの遺伝子は東南アジア諸国の一部の男性にだけ突然変異的に発生するもので、膵癌の発症に強く関与しているとされている。この遺伝子を保持している男性は40歳までに必ず膵癌を発症して死に至るということが海外のデータで確かめられているが、この疾患はかなり珍しいY染色体の遺伝疾患で、君は遺伝子をY染色体上に持っている」
「よく分からないんだけど、要するに俺は膵癌で死ぬのか?」
医学に関しては素人だったが、医学の進歩により様々な悪性腫瘍が長期間生存可能となる中で、膵癌だけは未だに生命予後の大幅な改善に成功していないという話はニュースで知っていた。
X染色体やY染色体といった言葉もよく分かっていない俺に対し、高崎は紙に図を描いて説明し始めた。
「君は男性だから性染色体はXY、君の奥さんは女性だから性染色体はXXだ。奥さんのお腹の中にいる子どもが男の子だったら君からはY染色体を受け継ぎ、奥さんからはX染色体を受け継ぐから必ずこの遺伝疾患を発症する。一方、子どもが女の子だったら両親からX染色体を受け継ぐから、この遺伝疾患を発症することも保因者となることもない。……そして、君の奥さんのお腹にいる子どもの羊水検査のデータがここにある」
子どもの羊水検査の結果は現在報告待ちとなっていたが、この病院で羊水検査も請け負っていたらしい高崎は俺の子どもの染色体検査の結果と遺伝子検査のデータを電子カルテ上に表示した。
そこには「XY:男性」との表記があり、先ほど高崎が示した遺伝疾患の原因遺伝子も表示されていた。
「だから……君はあと10年の間には膵癌を発症して死に至るし、君の子どもも同じ運命をたどることになる。この疾患はいずれ重篤な遺伝疾患として指定されるだろうから、この事実が公になれば君は不妊手術を受けさせられるし、君の子どもも同じ苦難に遭う。それを避けるには、君たちが一家でこの国を出るしかない。今の日本ほど優生思想が一般化した国はそれほど多くないから、どうにか生き延びる方法を探すんだ。実は、俺に避難する先のあてがある。そこなら……」
「いや、そんなことはできない。俺はこれまで児童保護法の理念を徹底させるために働いてきたから、その俺が児童保護法に反した行いに手を染めることはできない。子どもを置いて死んでしまうのも孫が生まれる可能性がなくなったのも残念だが、俺が父親から受け継いだ致死の遺伝子は息子の代で断ち切らないといけないんだ。今から帰って、妻に全てを伝えるよ」
冷静を装って高崎にそう言うと、俺は早足で病院を出た。
この事実を妻にどう伝えればいいのか苦しみながら、俺は自宅に帰るべく再び区営バスに乗り込んだ。
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