第5話 その鵺退治
そう思った瞬間、俺の懐に押し込まれていた紙片の束がパラパラと宙に浮かんで虚空に散った。月の光を反射しながら紙片はどんどんとその数を増し、バサバサと音をたて、目の前で涎を滴らせる獣に貼り付きその全体を覆い始める。
獣は呻きながら紙片を払おうともがくが、その圧倒的な紙数に次第に張り子のように白く包み込まれ、動きが緩慢となっていく。
そして、祝詞を唱える低い声が響いていることに気がついた。
そして、月の光が今や白く染まった黒獣と俺の姿を浮き立たせたのと同じように、月の光は鷹一郎が纏う白い狩衣をその光の中に隠していたことに気づく。鷹一郎は俺のすぐ側にいた。
ー
祝詞の終わりに空気がふつりと揺れて世界が共振し、鷹一郎の狩衣の長い袖の下から放たれた白い剣光は弧を描いて美しく
本当に一瞬のことだった。
鷹一郎は俺のすぐ傍に音もなくふわりと着地し、刀を鞘に終って俺を涼しげに見下ろす。ようやく息が、つけた。
先ほどまでの恐怖に満ちた時間はいつのまにか溶け落ち、静かな月の明かりが滔々と降り落ちている。
「怖かったですか?」
その呟きには、わずかな誂いが混ざっていた。
「怖ぇに決まってるだろ馬鹿。それから……生臭ぇ」
「風は止めてしまいましたからね。でももう大丈夫ですよ」
一体何が大丈夫なんだ、そう呟こうとした時、タタという足音が近づき、ペロリと何かが頬を舐めた。思わず体がびくりと硬直したが、その何かはゴロゴロと喉を鳴らしながらペロペロと頬を舐め続けている。
「なんだ、こりゃぁ」
僅かに体を起こして改めて眺めると、そこには奇妙な生き物がいた。
体長は思っていたのより少し小さく2メートル弱ほど。鼠のような顔。狸のような体には短い
その何だか妙に間の抜けた姿に、先程までの恐ろしさは既に失せていた。
「……こいつは何だ。化け物なのか?」
「通常よりは大きそうですが、恐らくジャコウネコというものですね。レグゲート商会で見たことがあります」
レグゲート商会というのは神津港の外国人居留区で商売をやってる異人の商会だ。鷹一郎は外国の呪物といった妙なものを仕入れたと聞けば、足繁く買い付けに行っている。
「そうするとこれは外国の化け物なのか?」
「いいえ、変な姿ですが今は化け物ではありませんよ。動物です、ネコの仲間。恐らく輸入されてきたものが野生化したのでしょう」
「ネコ?」
虎模様、狸の体、体躯は犬より大きく、寧ろまさに虎狼狸というにふさわしい姿をしている。コレラも黒船とともに来たのだから、こいつも同じように海を渡ってきた、のだろうか。
鷹一郎が獣に向かって手をのばすとその獣はひょいと飛び退きグルルと唸る。鷹一郎は酷く残念そうな顔をした。
ようやくすっかり体を起こす。するとそのジャコウネコとやらは、丁度鷹一郎の真反対から体を俺に擦り付けてきた。仕草は猫というより犬のような。
「おや酷い。呪を解いて差し上げたのに」
「呪?」
「何だかよくわかりませんが、悪いものが憑いていました」
「結局やっぱり『何だかよくわからない』のか。そいつがここの県庁舎に病をもたらしたのか?」
鷹一郎は月の光を照り返す銅板葺きの屋根を眺め、かつての鵺に目を落とす。
「どちらかというと逆じゃないでしょうか」
「逆?」
「ええ。この子は変わった姿でしょう? だから化け物だと思われて化け物になったのです。人より生じた『忌むべきもの』という思念がまとわりついて、あの黒い霧と化したのでしょう。結局この子は人を襲っていません。病をもたらしたのも人の悪意なのでしょうね。この子もさぞ気持ち悪かったでしょう」
確かに妙にでかい奇妙な姿。俺はさっきまでの闇を纏った巨大な姿が未だ目に焼き付いている。それが県庁舎の屋根上なんぞにいるのを遠目に見れば化け物に見えなくもないだろう。けれども近くにいれば妙に愛嬌がある。
そして俺の胸や周囲に散らばる生ゴミの残りをもぐもぐと食べ始めた。鷹一郎はやれやれと腰に手を当てる。
「これは助けたのが哲佐君だと思ってますね。餌付けまでされている。腑に落ちません」
「こいつにすりゃ、お前の匂いのする紙の上からぶっ叩かれたんだ。お前に突然殴られたと思っても仕方ないんじゃないか」
「実際殴り飛ばしはしましたけどねぇ。けれども困りました。私が頼まれたのは化け物退治ですから、このまま野放しにするわけにはいきません。うちの神社ならともかくここに居座るならば、予定通り切るしかないのです」
「ま、待て。大丈夫だよ。俺が連れて行くから、な」
そういえば鷹一郎の仕事は県庁舎に現れる化け物の退治、か。退治というからにはその存在を失せさせなければならない。
いつもやり込められている分、困った鷹一郎を見るのは気分がよかった。けれどもせっかく体を張ったのに、無為に殺されてしまうのは忍びない。それに明るい満月の下でよく見るとなんだか大人しそうで、人を襲うようには思わない。もともと鵺自体も人を襲ったりはしないのだ。
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