・0-8 第8話 「俺は、後悔しないって決めている」

 立花 源九郎としての日々。

 それは、田中 賢二にとっては夢のようであり、充実で満ち足りた日々であり、思い出すたびに苦く苦しい気持ちにさせられる記憶だった。


 忘れたいわけではない。

 その記憶は賢二にとって、自分が思い描き、かなえることができた夢の記憶だからだ。

 そしてなにより、賢二の殺陣たての演技を、大勢の人々が見て、好きになって、今でもファンだと言ってくれるような人もいるのだ。


 だが、思い出したいわけでもない。

 その記憶を思い起こせば、否応もなく賢二は、自分がもうただの田中 賢二でしかないことを思い知らされてしまうからだ。


 田中 賢二という1人の人間が、夢から覚めて、元の田中 賢二に戻っただけ。

 ただ、それだけのことだ。


 賢二が、立花 源九郎になるために費やした10年以上もの時間。

 それが無意味になったわけでは、決してない。


 ただ、賢二はもう2度と、その[夢]を見ることができない、それだけのことなのだ。


 左手に残った麻痺(まひ)によって役者としての生命を断たれた賢二は、以来、職業を転々としながら、つつましく暮らしている。

 最初はなんとか麻痺まひを直して役者として復帰しようと努力もしてみたが、症状はほとんど改善せず、時間が経つごとに人々の記憶から立花 源九郎は薄くなり消えていき、いつしか賢二も、すべては過去になったのだと思うようになっている。


 そんな賢二には、決めていることがある。

 それは、「後悔しない」ということだった。


 未練なら、いくらでもある。

 せっかくつかんだ夢のような時間を、もっとずっと続けていたかったし、もっとたくさんの作品を世に残し、自分が鍛え抜いた殺陣たての技術を、自分が生きたのだという証をこの世に残したかった。


 だが、それをいくら悔やんだところで、どうにもなるものではない。

 そうやって後悔し続けていては、日々はつまらなくなり、賢二は残された一生をずっと、顔をうつむけて暮らしていくことしかできなくなってしまう。


(俺は、後悔しないって決めている)


 暗く沈み込みそうになった気持ちを振り払うと、賢二は、次々と注文し、酒も思う存分、楽しんだ。

 一通りの焼鳥は食べたし、酒も、気になっていた泡盛を注文して、その強い酒をのどに流し込んだ。


 それから、店員に自分のことを覚えていてくれた礼にと、立花 源九郎としてのサインもしてやった。

 店員個人のものと、店に飾るためのもの。

 色紙しきしなどはなかったが店で元々使っていたマーカーはあったので、それで、店員のためにはその私物であるスマホカバーに、店のためには、店員が飾ってくれていた立花 源九郎のポスターに、賢二は慣れた手つきでサインを書いた。


 賢二が立花 源九郎であったころに、熱心に練習し、そしてたくさんの人にサインを書いて送ったおかげだろうか。

 アルコールが入っていたのにも関わらず、賢二は立花 源九郎のサインをすらすらと形よく書くことができた。


 賢二は自分の心に負った傷のことを、そうしているうちに忘れ去ることができた。

 アルコールがすっかり回ったころにはもうずっと上機嫌で、店員やたまたま居合わせた客たちから、撮影時の秘話や役者たちだけの内輪話などをして、盛り上がった。


 賢二は結局、その焼鳥屋[鳥王]で3時間ほども食べて飲んで、日当の9000円をしっかりと全額使い果たしていた。

 いや、正確には9000円では足りないほどだったのだが、サインの礼にと、店側が値引きをしてくれたのだ。


 その日の賢二は、「楽しかった」という記憶しか持ち帰らなかった


────────────────────────────────────────


「ああ……、幸せだなぁ」


 鳥王を後にし、酔っぱらって少しふらついた足取りになりながら、賢二は黒々とした夜空を見上げていた。


 ここは都心部ではなかったが、数階建てのマンションやアパート、雑居ビルなどが立ち並んでいるほどには発展している街だったので、夜でも明かりが途絶えることはない。

 建物の窓からは遅くまで起きている人がいることを示す明かりがれているし、看板やネオンサインもあり、街灯もいくつもついている。


 周囲が明るいせいか、夜空を見上げても星は少しも見えない。

 ただ、建物によって切り取られた漆黒しっこくが、そこまでも深く、遠くまで広がっているのが見えるだけだ。


 賢二は今、夜空を見上げながら思わずつぶやいてしまったように、幸福な気持ちだった。


 新しく見つけたお店は、本当に美味しいお店で、そこで賢二は心行くまで食事と酒を楽しむことができた。

 そしてそこには昔の賢二のことを知っていて、ファンだったと言ってくれる人までいて、その人だけではなくたまたま店に居合わせていた人たちも賢二のことに興味を持ってくれて、賢二を暖かく迎え入れてくれた。


 これほど嬉しくて楽しいことが、他にあるだろうか。


「あれ……、なんで……? 」


 しかし賢二は、自身のまなじりから小さな一滴ひとしずくの涙がこぼれ落ちたことに気がついた。


 それは、たったの一滴ひとしずくだけ。

 それ以上に出てくることはない、ほんのわずかに、賢二の心の中からあふれ出してしまったものだった。


「後悔しないって、そう決めているけどよ……」


 念のため服のそでで自身の顔をごしごしとこすると、賢二は上を向いたまま歩き続けながら、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。


「やっぱ、つれぇわ……」


 その言葉は、深くどこまでも続く闇のような夜空に、吸い込まれるように消えて行った。


 後悔しないと決めてはいても、賢二には、どうしても克服できない悔いがある。

 それは、立花 源九郎としての最後の作品となってしまった、源九郎が主演の映画を完成させることができなくなってしまったことだ。


 いや、正確には、その映画は完成している。

 早川 光明という、源九郎の共演者だった役者が代わりに主役となって、シナリオをいち部書き変えて最後まで撮影が実施されたからだ。


 しかし、賢二としては、最後まで自分が主役でありたかった。

 自分が必死に身に着けた殺陣たての技術のすべてを、出し切りたかったのだ。


 その、克服できない後悔。

 それは賢二の心の奥底に、重いよどみとなって、あり続けている。

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