いつか失われるもの

 その日の朝、クラウスはいつものように湖のほとりに座り、その周囲の景色を眺めていた。


 そろそろ戻ろうかと立ち上がり、歩き始めたところで、丘の上へと向かって走る一人の亜人の姿を見つけた。

 まだ夜が明けて、それ程時間も経っていない。

 亜人たちが鍛錬のために丘の上にやってくるような時間では無かった。

 走る亜人の表情からは、切羽詰まったような必死さが感じられる。

 彼らに何かがあったのかもしれない。

 クラウスは、声を上げてその亜人を呼び止める。


「どうした? 何かあったのか?」

「クラウス! 良かった! 助けてください!」

「何があった?」


 その亜人は息を切らしながらも、必死で言葉を口にする。


「集落が巨大な獣に襲われているんです! 今皆が必死で応戦しています、どうか助けてください!」

「わかった。お前はこのまま丘の上まで行って、アディメイムを呼んできてくれ」

「わかりました!」


 亜人はクラウスに頷きを返し、丘のほうへと走り去っていく。

 クラウスもまた、亜人の走り去ったのとは逆方向へ向かって走り出す。


 亜人たちの集落にはすぐにたどり着いた。

 その集落の入口の前には、一匹の巨大な獣の姿があった。

 亜人たちは槍や剣を手にして、その獣を遠巻きにしている。

 対する獣は、その亜人たちを威嚇するように唸り声を上げていた。


 その獣の姿には見覚えがあった。

 その獣の肩の高さは、クラウスの身長の一・五倍程、その姿は狼に似ており、額には人の腕程もある一本の角が生えている。

 クラウスがこの世界に来て最初に戦った巨大な獣……あれと同種の獣なのだろう。


 そうしている間に、獣が動きを見せた。

 獣は跳躍して、武器を手に牽制している亜人たちに向かって飛び掛かり、前足を振るう。

 一人の亜人がその爪に引き裂かれそうになったところに、別の亜人が飛び込んで来た。

 その攻撃によって二人の亜人が吹き飛ばされ、地面に転がる。


 倒れた二人のうちの一人はすぐに起き上がったが、もう一人は倒れたままだ。

 倒れた亜人から流れ出る血が草を濡らし、赤く染め上げるのが見えた。


 獣は亜人たちが突き出してきた槍を避け、後方へと飛び退すさり、再び距離を取った。

 その隙に、クラウスは倒れた亜人の元へと駆け寄る。


「ネシュル! ネシュル!」


 獣の前足で薙ぎ払われ、倒れているのはネシュルだった。

 その傍らでバズが必死にその名を呼んでいる。


 クラウスは倒れたネシュルのもとへと駆け寄った。

 ネシュルは苦痛に顔を歪めながら、手で腹を押さえている。

 その腹部は獣の爪で大きく引き裂かれ、内臓が零れ出てしまっていた。


 一目で致命傷であることが分かる。

 クドゥリサルの魔術でも、この傷を癒すのは無理なのではないか。


 クラウスは屈んでネシュルの顔を覗き込んだ。


「ネシュル」


 クラウスがその名を呼ぶと、ネシュルは一瞬目を見開き、それから安堵したように微笑んだ。


「……来てくれたんですね。良かった……もう、大丈夫だ……」

「ああ、後は任せておけ」


 クラウスはそう言ってネシュルに向かって頷いて見せた。

 そして、おそらくネシュルの物なのだろう、傍らに落ちていた剣を拾い上げて立ち上がり、獣の元へと近付いていく。


「下がっていろ」


 獣の周囲を囲み、槍を突き出して牽制していた者たちに、声を掛ける。

 亜人たちはクラウスの言葉に従い、後ろに下がって距離を取った。


 獣の上げる唸り声が、重く低い音に変わる。

 クラウスは立ち止まり、唸る獣の姿を見た。


 この獣のせいで、ネシュルは今まさに死に行こうとしている。

 だがクラウスの心に、この獣に対する怒りや憎しみといった感情は無い。

 彼の心には、ただ悲しみだけがあった。


 戦士が戦いの中で命を落とすのは当然のことだ。

 お互いが命を賭けて戦いに臨み、敗れた片方が死ぬ。

 その場で自身に近しい者が敗れ、死に行こうとしているからと言って、相手を恨んだりするのはお門違いだと、クラウスはそう思っていた。


 クラウスは目の前の獣をじっと見る。

 もしも彼らとの関係性が逆であったならどうなっていたろうかと、そんな考えが頭をよぎる。

 もし目の前の獣を幼い頃に拾い、自身の手で育てていたなら……自分は何を思うのだろうか?


 同種の獣と戦ったのはいつだったか?

 アディメイムに出会うよりも前だった事を考えると、もう六十年以上前のことになる。


 その時は、生きるか死ぬかのギリギリの勝負をした。

 死の恐怖を感じながら、その獣と戦った。


 だが今は、この獣を目の前にしても恐怖を感じたりはしていない。

 対峙しただけで分かる。

 今のクラウスであれば、この獣を傷一つ負う事も無く容易に倒せる。

 この獣を恐れることは、もう無いのだろう。


 毎日毎晩、アディメイムと打ち合ってきた。

 アディメイムに比べれば、どんな相手も取るに足らない相手に思えてしまう。

 目の前の獣のような、かつて生死を懸けて戦った相手と同種の存在であったとしてもだ。


 恨みは無い。

 戦いたいわけでも無い。

 だが、逃がすわけにもいかない。

 逃がせば再び自身に近しい誰かが、この獣の手で傷付けられることになる。


「……すまんな」


 呟くように謝罪の言葉を口にした。

 恨みも憎しみも無い。

 それどころか、目の前の獣に対して、哀れみすら覚えている。


 獣が吠え声を上げ、飛び掛かって来た。

 跳躍しながら、クラウスの身を引き裂こうと、その前足を振り上げる。


 クラウスは前進して、その獣の顎の下へと潜り込んだ。

 獣はその動きを追うことが出来ずに標的を見失い、振り下ろした爪は空を切る。

 獣が着地し、その動きが止まった瞬間、クラウスは剣を振るって獣の喉を半ばまで切り裂いていた。


 獣は驚いたように斜め後方へと跳び退すさるが、着地と同時によろめいて、その場に崩れ落ち、横たわる。

 そしてガバゴボと血の泡を噴き出しながら、しばらく足をじたばたと動かしていたが、その動きもすぐに止まる。


 クラウスはその様子をじっと見ていた。


 倒れた獣と目が合った。

 徐々に命の光が消えていくその目には、恐怖と諦めの感情が宿っているように見えた。


 後ろから、亜人たちの歓声が聞こえてくる。

 それをクラウスは、ただ聞いていた。

 戦いには勝利したが、亜人たちと共にそれを喜ぶ気にはなれなかった。


 今この手で奪った命に対する憐れみ、そして身近な存在を失おうとしている事に対する悲しみの感情が、その心を満たしている。


 クラウスは倒れたネシュルの元へと歩いていった。

 ネシュルが横たわっている周囲の地面は流れ出た大量の血を吸い込み、黒く染まっている。

 ネシュルの目は虚ろで、もう意識もほとんど無いようだ。

 その傍らで、バズが涙を流しながら、その名を呼んでいる。


 二者がお互いの命を掛けて戦う。

 当然、敗れればその先には死が待っている。

 それが戦いの……戦士のことわりなのだ。

 ネシュルもまた、そのことわりのっとって死に行こうとしている。


 毎日顔を合わせ、言葉を交わす者達。

 彼らは皆、いずれ年老いて死んでいく……それに対する覚悟は出来ている。


 最初はその覚悟も出来ていなかった。

 ティルヤが死んだ夜、クラウスは一人涙を流した。

 彼らが年を取り、老いていくに従って、じきに会えなくなってしまうのだという事に対する覚悟……諦めとも呼べるそれを、クラウスは意識するようになっていた。


 ネシュルもいずれは年老いて死に、会えなくなる時が来る。

 だが、それはずっと先のことだと、そう思っていた。


 何故そんな風に思っていたのだろうか?

 彼らもまた戦士なのだ。

 自分自身の手で、彼らを戦士として鍛えてきた。

 戦士が戦いの中で死ぬのが当然のことであるならば、彼らもまたいつ死んでもおかしくないではないか。

 その事実を無視していた。

 彼らが居なくなるのはずっと先の事なのだと、勝手にそう思い込んでいた。


「クラウス! ネシュルを! ネシュルを助けてください!」


 バズのその嘆願の言葉に、クラウスは何も答えることが出来なかった。

 助けてやりたいが、クラウスには何もできない。

 じきにアディメイムもここに来るだろう。

 だがクドゥリサルの魔術でも、この傷は治せないのではないか。


「クラウス! お願いします、ネシュルを……」


 何も答えることの出来ないクラウスに、バズは尚も縋りつくように懇願し続ける。

 だが、どれだけ懇願されようとも、クラウスには死に行くネシュルを見送る以外には何もできなかった。


「アディメイム!」


 誰かの声が聞こえた。

 視線を上げると、アディメイムがやってくるのが見えた。

 その手には一本の剣を握っている。

 その剣はクドゥリサルでは無かった。

 丘の上の洞窟に置いてある三本の剣のうちの一本だ。


 近付いてきたアディメイムは笑みを浮かべ、クラウスの肩を叩いた。

 それからネシュルの横に屈んで、その顔を覗き込む。

 そしてバズに向かって安心させるかのように、優しく微笑んで見せた。

 それから、手にしていた剣をネシュルの手に握らせる。


「おおぉッ!?」


 その瞬間に起こった出来事を目にしたクラウスは、驚きのあまり間抜けな声を発してしまっていた。

 ほんの数秒で、ネシュルの腹部にあった傷が消えていた。

 まるで不死のさまよい人であるかのように。


「おい、これは……どうなってんだ?」


 クラウスの問いかけにアディメイムは楽しげに笑い、クラウスの肩を叩く。


 ついさっきまで意識もほとんど無くなっていた筈のネシュルが、目をパチパチとしばたいていた。

 彼自身、何が起こったのかわかっていないのだろう。

 上体を起こしたのちに、呆然とした表情で周囲を見回している。

 クラウスもまた、しばらく呆然としていたが、やがてその思考が目の前で起こった現実に追いついてきた。


「フフッ、フハハッ」


 気づけば、声を出して笑っていた。

 突然の喪失を、受け入れる以外に無いと思っていた。

 もう失ってしまうのだと思っていたもの……それを一瞬で取り戻していた。

 どうやら、失う覚悟をするのはまだ先で大丈夫なようだ。



 いや……



 ふと気づき、笑みが消える。

 高揚していた感情が急激に冷めていく。


「そうか……そうだよな」


 クラウスは小さく頭を振り、呟きを漏らす。


 今日は生き延びた。

 だが明日また何かが起こり、ネシュルは死んでしまうかもしれない。

 年老いて死ぬことの無いクラウスやアディメイムでさえも、決して死なないとは言い切れない。


 彼らは、いついなくなってもおかしくはないのだ。

 戦士であるならば尚更のこと。

 ついさっき、そう教えられたばかりではないか。

 何故、彼らと共に過ごせる時間がまだ十分に残っているなどと考えたのだろうか?


 覚悟をしなければならない。

 彼らは皆、明日には居なくなっているかもしれないのだから。


 クラウスは歓喜に沸く亜人たちを見た。

 バズはネシュルを抱きしめ、涙を流して喜んでいる。


 彼らとの別れの時は出来るだけ先であって欲しい。

 だがもし明日それが来るのだとしても、後悔の無いように過ごしたいと、そう思う。


 彼らがただ生きてそこにいるという事が、当たり前などでは無いのだと、そう改めて認識させられる。




 後になって、アディメイムが教えてくれた。

 ネシュルの命を救ったのは、アディメイムの持つ三本の剣のうちの一本が持つ力なのだそうだ。

 レシュヌーイという名のその剣は、不敗の剣などと言う別名で呼ばれていたらしい。

 それを手にした者の負った傷をたちどころに治してしまう力をもっているという事だった。


 その力は不死のさまよい人である二人には意味のない物だったが、亜人たちにとってはまさに奇跡のような力だ。

 その剣の力で、ネシュルは死なずに済んだのだ。





 亜人たちの集落が獣に襲われた、その二日後。


 ネシュルは何事も無かったかのように、いつも通りに丘の上にやってきた。

 見たところ、その動作に以前と変わったところは無い。

 大怪我をした後遺症なども無さそうだった。


 ネシュルがクラウスとアディメイムの元までやって来た。

 近くで見ても、今迄と変わりなく元気そうに見える。


「先日は助けていただき、ありがとうございました」

「ああ、いいさ。体はもう大丈夫なのか?」

「はい、おかげさまで」


 ネシュルは笑みを浮かべ、感謝の言葉を口にする。

 それにクラウスとアディメイムは笑みを返して応える。

 ネシュルが浮かべている笑顔を見て、クラウスは先日の光景を思い出す。


 獣に傷を負わされ、まさに死に行こうとしている中で、ネシュルは笑みを浮かべていた。

 あの瞬間の彼は、あの場で死ぬことを受け入れていたように思う。


 それは戦士としては当然の覚悟だと、クラウスはそう思っている。

 ネシュルのその覚悟もまた、戦士として賞賛するべきものなのだろう。

 だがそれについて考えるときに真っ先に彼の胸を満たすのは、深い悲しみと喪失感だった。


「クラウス? どうかしましたか?」

「ああ……いや、何でもない。ここに来たって事は、今日からまた鍛錬に参加するのか?」

「はい、そのつもりです」 

「そうか。あまり無理はするなよ。体調がおかしくなったらすぐに休め」

「はい、ありがとうございます」


 ネシュルは笑顔で答え、他の亜人達の元へと戻って行く。


 クラウスはいつもと同じように、亜人たちが鍛錬する様子を見守る。

 彼らがこの先何事もなく時を過ごし、天寿を全う出来るようにと願いながら。

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