報復

 視線の先には黒い瓦屋根、ベージュ色の外壁。二階建てのごく一般的な一軒家が建っている。


 約束の日。僕は華弥の家の前まで来ていたのだった。


「ここが、華弥の家か……」


 二週間ほど前に華弥のお兄さんがこの家を出て、僕はようやく華弥から家の前まで来てもいいと許可されたのである。


 女子は付き合い出しても彼氏を家に招かれないこともある、という話を耳にしていたが、僕には無縁のことだったことが証明されたらしい。招かれた時は少しホッと胸を撫で下ろしたものだ。


 しかし、今日の予定はお家デートではないので、こんなところで感心している場合ではない。


 玄関扉の前に立ち、インターホンを鳴らそうとすると、


「華弥の友達?」


 背後から聞きなれない声がして、僕は振りかえった。


 そこにはグレーのスエットを着た二十歳くらいの青年が、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。


「は、はい……」


「そう。今呼んできてあげるよ」


 青年はそう言って僕を避け、玄関扉を開けると、


「華弥、友達が来てるよ」


 と家の中に向かってそう叫ぶ。それからまた僕の方を向くと、そのまま歩み寄ってきた。


「すぐ来るから。俺と少し話そうか」


「は、はあ」


 正直、あまり気乗りはしなかった。おそらく彼が華弥の兄であることくらい、僕でも分かったからだ。


 さすがに公衆の面前で華弥に何かをすることはないだろうが、それでもあまりここに留まってほしくない。


「華弥の同級生?」


「ええ」


「この辺に住んでんの?」


「一応」


「もしかして。君が華弥の彼氏?」


 その粘着質な視線とまとわりつくような問いかけに、僕は思わず鼻白む。


「そ、それは――」


「兄さん、来ないでってお母さんに言われたでしょ!」


 華弥のお兄さんはその声に反応し、ゆっくりと振り返った。


「華弥に会いに来たんだよー。寂しがるかなって思って」


「寂しくなんかない」


「そんなこと言って。いつも同じ布団で寝ていたじゃないか」


 そう言って華弥のお兄さんは僕の方に顔を向ける。


「俺たち、仲良し兄妹なんだよねえ。毎晩身を寄せ合って眠るほどに」


 そう言う華弥のお兄さんの目には、吸い込まれそうなほどの黒い闇が映っていた。

 何もかもを吸収し、消滅させるブラックホールのような。そんな闇。


「そういうの、やめてよっ!」


 華弥が声を荒げてお兄さんの前に立つと、彼は嬉しそうにニヤリと笑い、華弥に手を伸ばす。


 華弥は足の裏に糊が付いているのではないかと思うくらいに、その場から動かない。


「行こう、華弥」


 怯える華弥の腕をとった僕は、そのまま歩き出した。


 このままあの人と一緒にいるのはなんだか危険だ。華弥の言う通り、何をするか分かったもんじゃない。


「ごめん……」


「ううん、大丈夫」


 それから僕たちは、目的地である隣町のショッピングモール内の映画館に向かって歩き出した。


 無言で歩きながらふと空を見上げる。鈍色の雲に覆われたその空は、今にも涙を滴らせようとしていた。天気予報では昼から雨が降ると言っていたっけ。


 そのまま視線をスライドさせ、隣を歩く華弥を見た。


 華弥の家が見えなくなってだいぶ経つのだが、華弥はずっと暗い表情のまま、俯いて僕の隣を歩いている。


 そんな彼女に何かできないかと思った僕は、そっと彼女の手を取り、強く握った。


 すると、華弥も僕のその手を握り返してくれ、「ありがとう」と小さな声で囁く。


「うん」


 ほんの少しでも彼女の力になれたことが、僕にとってはとてつもなく嬉しかった。


 そしてショッピングモールに着くころには、華弥もすっかり元気を取り戻し、笑顔になっていたのだった。




 映画を終え、食事やウインドウショッピングを済ませてからモールを出ると、雨がしとしとと降り出していた。


「予報通りだね……傘、持ってる?」


「折りたたみなら」


 僕がそう言って鞄を叩いてみせると、華弥はニッと笑う。


「じゃあ、相合傘をして帰ろう!」


「華弥の傘は?」


「持ってるけど、一緒に歩きたいの!」


「はいはい」


 そして僕らは一つの傘に二人並んで入って歩き出した。


「肩、濡れてないか?」


「大丈夫だよ。だって私の代わりに正直君が濡れてくれてるから」


「華弥が風邪引いたら嫌だなって思って」


「優しいなあ。君が風邪で寝込んだら、私が毎日お見舞いに行ってあげようじゃないか」


「それはいいな。風邪、引きますように」


 そんな他愛ない会話をしながら、僕たちは雨道を歩く。


 いつもと同じ雨。誰もいない道。鈍色の雲に覆われた空のせいで、まだ夕方なのにあたりはすっかり暗くなっていた。


 ふと顔上げると、正面から紺色の雨合羽を着た人が歩いてくる姿が見えた。体格的に男性だろうか。


 俯いて歩くその姿に少し薄気味悪さを感じたが、その雨合羽男は何事もなく横を通り過ぎていく。


 どう思っただろうと隣にいる華弥をちらりと見ると、華弥は青ざめた表情をしていた。


「華弥?」


 僕がそう声を掛けた時、急にコートの後ろを引っ張られ、振り返ると目の前に先ほどの紺色の雨合羽があった。


 突然のことで呆然としてしまい、その雨合羽が目の前にいる意味をすぐに理解できなかった。


 下腹部がほんのりと温かくなる。そして、鈍い痛みも感じた。


 雨合羽が僕から離れる瞬間に、痛みを感じた箇所に何か違和感を覚える。


「え……?」


 咄嗟にその部分に触れるとシャツに液体が染み出しているのが分かり、触れた手に生温かさを感じた。


 そして、その手を目の前で広げ、そこに真っ赤な液体がついていることを知る。


「正直君、血が!」


「お前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいでお前のせいで……」


 雨合羽の男が何かを呟いていた。しかし、その意味も、内容もまったく頭に入ってこない。


 刺された? なんで、僕が?


 手のひらにつく血液を呆然と見つめたまま、僕はその場に佇む。


「兄さん、なんでこんなことを!」


 ハッとして雨合羽の男の方を見ると、彼が華弥のお兄さんであることに気付いた。


「こいつがいなきゃ、華弥は俺のことだけ見ていたのに。こいつのせいで華弥がおかしくなったんだろ! だから俺は、こいつを殺して華弥の目を覚まさせてやらないといけない」


「おかしいのは兄さんでしょ! こんなことするなんて絶対におかしい! もうやめてよ! 私に関わらないでよっ!」


「おいおい華弥。そんなこと言っていいと思ってんのか? 最近、俺が躾を怠ってたせいか。じゃあ仕方ない。今から躾けてやらなきゃなあ」


 両手でナイフを握りしめ、華弥のお兄さんは華弥を目掛けて突進してくる。


 僕は咄嗟に華弥を押しのけ、彼女を回避させることは成功したが、ナイフは僕の右ももに深く突き刺さった。


 華弥のお兄さんはそのナイフを素早く抜き、僕たちから距離を取る。


 手に持っていた傘は地面に落ち、カラカラと転がった。

 僕はその場に膝をつき、身体を地面に横たえる。それから目を閉じて、ゆっくりと肩で呼吸をした。


 駆け寄る足音が聞こえ、ゆっくりと目を開けた時、真っ赤に染まる地面が視界に入った。


 腹とももから流れ出た血液が、雨に洗い流され地面に広がったのだろう。


「正直君、正直君っ!!」


 華弥の叫ぶ声が、少しずつ遠のいていく。

 出血量が多くなってきたせいで意識が朦朧としているのかもしれない。


 抱き起こしてくれた華弥の手が微かに震えていた。


 このまま気絶したら、華弥は……華弥はどうなる? ダメだ。しっかりしろよ、僕。華弥を助けなくちゃ。


「誰か! 誰か助けてください!」


 華弥のその声に反応したのか、離れたところから「どうしました?」という誰かの声が聞こえた。


 すると金物が地面に落ちる音がし、同時に紺色の物体が遠ざかっていくのをぼんやりとした視界の中でとらえる。


 また僕は何もできなかったのか。でも、これでとりあえず、華弥は大丈夫――


 そこで僕の意識は途絶えたのだった。



 ***



 すすり泣く声が聞こえ、うっすらと目を開けると、両手で顔を覆う華弥の姿が見えた。


「か、や?」


 僕がそう言うと、華弥は覆っていた両手を外し、ぐいっと僕の方に顔を近づけた。


「正直君? 正直君!」


「どう、したの」


「もう大丈夫だよ。ごめんね、私のせいで……」


 大粒の涙を流し、華弥は僕の手を握る。そして何度も「ごめんね」と呟いていた。


 そんな華弥に何かを言ってあげられることなく、僕は再びに眠りにつく。


 次に目を覚ましたら、「大丈夫だよ」って言ってあげないとな――。

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