さようならレトリート

 固く湿った石質の建造物が、巨大な生物の消化器官めいた滲出物にまみれたものに変化することを想像できるかしら。

 アンリ殿下を背負った私はイェホ・ウンディの神殿を駆け抜けながら、刻一刻とそのように神殿内部が変わっていくことを感じていたわ。生き物のハラワタを、下から上へ駆け上っていく気分だわ。さぞかし、邪神にとっては不快なことでしょう。体の底まで入っていたはずのごちそうが、猛烈な勢いで口へ向かって逆流しているようなものですもの。

 踏みしめる石畳が繊毛せんもうに覆われた粘膜に変わり、立ち上がって私の前に立ちはだかる。

「キェエイ!」

 両腕を使えない私はアンリ殿下を背負ったまま跳躍、伸び上がっておいすがる粘膜の襞を足刀で刈り取る。

 元は石であるはずの粘膜は蹴りつけるとぐねりと撓み、そのまま縮み上がって地面に戻っていった。

「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・」

 息が苦しい。吸う空気が重く湿っていて、肺の中にまとわりつくみたいだわ。鉄心の術を使い続けて丸数日、私の心身は緊張の限界を超えており、呼吸の途切れるのに併せて、鉄心は宿り、または消えを繰り返している。

 本当なら呼吸を整えて、鉄心のニンジャとしての自分を維持しなければいけないのでしょう。けれど、そんな暇さえなく、私は走り続けている。

 迫り来る邪神の脅威から一刻も早く抜け出さねばならない。アンリ殿下のお身体がこの空間に耐えられているのは奇跡的なことであるのを私は知っている。こうして背中に温もりを感じている中にも、彼の生命がじわじわと蝕まれ、失われていっているのがわかってしまう。

 そんな焦りもあってか、私はその時まで聖霊銀のリボンを腕に巻き付けたままだったことを忘れていた。私は逸る気持ちを抑えて足を止める。足の下からは、遠ざかったはずの邪神の気配が迫り、どんどんと石から肉へと変化していた。

「すぅ〜・・・・・・はぁ〜・・・・・・」

 足を止めたからには呼吸を整えるべきよね。深呼吸を繰り返しながら、私はリボンを引き延ばして、背中に追っているアンリ殿下ごと身体に巻き付けた。

「あと少しの辛抱ですわ。アンリ様」

 手足を引き寄せ、リボンで結び合わせる。・・・・・・ちょっと密着させすぎかしら。なんだか違う意味でドキドキしちゃう。

「すぅ〜はぁ〜・・・・・・よし」

 呼吸を整え、殿下がしっかりと身体に固定されたのを確認した私は、ほんの少し、しかし確実に回復した体力を動員する。韋駄天の術を瞬間的に使い、爆発的な加速を得るのだ。私が加速して石の床を踏み砕くとまもなく、邪神の力が波及して床が触手に覆われた。

 一、二、三・・・・・・と心臓の鼓動を数え、二十一回目の鼓動と同時に韋駄天を解く。追いかける邪神の気配を後方に置き去りにできたと思うわ。

 そのまま走り続けて、廊下の角を曲がった途端、今度はあの忌まわしい鹿面の魔人が待ちかまえていた。

「ゔぉぉぉぉぉっ!」

「恋路の邪魔よっ!」

 絶叫と同時に迫る二股の槍を前蹴りで弾く。木で出来た柄が折れ砕けて飛び散り、穂先がひゅん、と音を立てて宙を舞った。

「キェエイ!」

 私は目の前に浮かんだ穂先を蹴り出した。穂先は矢のように飛んで魔人の喉笛に突き刺さる。

「ゔぉっ・・・・・・!」

 か細い断末魔を上げて倒れた魔人を飛び越えて、神殿の出口へ向けてまた走り出す。

「はぁ、はぁ・・・・・・ああ、何っ!?」

「ゔぉぐ!」

 無意識に私は駆け出しながらも後ろを振り返った。・・・・・・振り返ってしまったのだ。

 そして見た。邪神の気配が浸食して石の空間が臓物めいて変化する中に取り残された魔人が、食虫植物の腹に落ちた羽虫のように粘膜に絡み取られ、瞬く間に生きたまま貪り食われていたのだ。

 信奉者だろうが、供物だろうが、眷属だろうが関係ない。邪神の貪欲な本性が露わにされている。

 やはりあの、最初に私に語りかけていた見せかけの優しさに屈服しなかったのは、正しい判断だったと確信して、私はすぐ近くにあるはずの出口に向けて疾走する。

 けれど、その先もまだまだ脱出までの道のりはつづくのだけれど・・・・・・。


 

 走る。走る。走る。肌に感じる空気の質感が微妙に変わるのがわかる。外部から大気の流れ込む事でできるわずかな変化、でもそれだけあればニンジャの方向感覚は確実にそちらへ向けて逃走することができるわ。

 私の足取りが変化したことをイェホ・ウンディも察知したのでしょう。迫り来る気配と神殿の変化が加速して、私の背後を襲う。天井や角の石材がこぼれた、と見るや、それはすぐさま変化して触手や牙に変わって飛び上がり、私や、私の背中にいるアンリ殿下に飛びかかってくるのだ。

 私はそれを右に左に、舞うようにゆるく跳躍して避けた。もっと素早くかわすこともできるけど、あまり速すぎてはアンリ殿下に毒だわ。こればかりは心苦しい。でも、それもあと少しの辛抱。

 時に蝶のように。また、時には蜂のように。私は周囲から飛びかかる毒牙をすり抜けて駆けた。我ながら不思議なことに、舞い跳ねるたびに私の胸は高揚して、こんこんと勇気と力が湧いてくるの。肌の一枚上を掠めるような、執拗な攻撃さえ、自信を持ってかわすことが出来るわ。きっと、背中に眠るアンリ殿下が私に力を与えてくれているんだわ。

 外の空気が徐々に濃くなっていく神殿の通路を舞い踊る。踊りながら、力強く駆け抜けていくと、曲がり込んだ先にはもう外の景色が見えた。

「どうやら、パーティは終わりのようね。イェホ・ウンディ」


 

 つぶやけば、怒れる邪神の噴気に満ちた爪牙そうが刀槍とうそうめいて突き出される。私はこれを紙一重のターンで避けると、その衝撃で私と殿下を結んでいるリボンが緩んだ。

 けれども私は全く焦らない。今やはじめに感じた邪神の強大な力への恐れはない。緩んだリボンの一端を掴み、織り目を読んで素早く操る。

 解けかけたリボンはすぐさま締め直され、私と殿下は再び一体となったわ。堅く結んだリボンの中で殿下は未だ穏やかな眠りの中にいるみたいで安心したわ。お身体の弱いアンリ殿下のこと、きっとこんな激しいダンスを共に踊ることはないでしょう。そう思うとほんの少しだけ、寂しいわ。

 けれども私たちには穏やかな交わりの中で、静かに手を取り合う時こそふさわしいわ。邪神の内懐うちふところではそれは難しいわね。

 通路の端から端へと身を躍らせながら、私は通路の出口へと飛び出す。外といってもそこは邪神の領域だけど、虎口の外には違いない。そこでは魔人のにえにされかけていたところを救い出した男女が、青白い顔のまま神殿の出口を見ていた。

「ああっ!」

 男女のどちらとも言えない声が聞こえた。

 飛び出た私はすり鉢状の広場に着地する。転がり落ちて、アンリ殿下を落とさないように気を配りながら声を張り上げた。

「神殿の裏へ向かって走りなさい! そこに、ここを出る扉があるわ!」

「ひいっ!」

 今度は明らかに女性の方が恐怖の悲鳴を上げて、私の背後を見た。

 神殿の出口、といっても大人の男が三人も並べば窮屈になるような建物の開口部から、見上げるような長さと太さの腕が、飛び出していたのだ。

 節くれて、鮫のような荒っぽい肌をした青白く巨大な腕が、二の腕の半ばまで抜き出してこちらへと手を伸ばしている。鉤爪の先には腐った肉が詰まっていて、振り上げる度にぼたぼたとこぼれて辺りを汚していた。

「うっ! イェホ・ウンディ・・・・・・!」

「わぁぁぁぁでぇぇぇぃぃん!」

 怒りの声にびりびりと神殿に葺かれた粘板岩スレートが震えて辺りに舞い散り、神の腕が矮小な人の命を求めて空をかき回していた。

「キェエイ!」

 広場に折り重なっている魔人たちのむくろに混ざっている、その風変わりで怪しげな二股の槍や剣をひっつかみ、しゃにむに振り回される邪神の腕へ向けて投げた。

 投げ矢めいた軌道で飛んだそれが邪神の腕にざっくりと突き刺さると、その衝撃に邪神の腕が震えた。

 途端、邪神の腕の肌に無数の目玉と口が浮かび上がった。おぞましい様相に慄くまもなく、無数の目玉がこちらを見る。見るや、襲いかかる殺意に私は本能的に飛び退いた。

 すると一瞬先まで私が立っていた場所に、無数の目玉から細い光線が発射された。光線が着弾すると地面が小さく爆発する。これは邪神の権能として名高い邪眼だわ。

 私は逃がした男女を追いかけるように飛び、続けざまに放たれる邪眼の光線を避けた。邪神は神殿の奥深くから腕だけを伸ばしているから、神殿を回り込めば届くことはないわ。

「わぁぁぁぁでぇぇぇぃぃん! わぁぁぁぁでぃぃぃん!」

 怒れる邪神の恨めしげな叫び声が響く中、私は逃がした男女を引き連れ、自分がこの空間に入り込む事が出来た魔法陣にたどり着いた。

 魔法陣はここにやってきた時と同様に、向こうとこちらを繋いでいてくれた。けど、いつまで機能しているかは分からない。さっさと退散するに限るわ。

「さぁ飛び込んで!」

「で、でも・・・・・・」

 躊躇する男女に構っている暇はない。私はリボンを解いて背中に括っていたアンリ殿下を下ろし、胸に抱き上げる。

「ほらほら、さっさと入った入った!」

「うぅ、わ、わかった・・・・・・うわぁ!」

「きゃあっ!」

 半ば蹴り入れるように急きたてて男女を魔法陣の中へ送り出す。二人は陣の内部に出来た揺らぎの中に飛び込むと、その姿は霞がかって消えた。

「さぁ、ようやく帰れますわ・・・・・・あら」

 腕に抱いたアンリ殿下の瞼が、微かに震えているのが見える。これは神経が覚醒を迎えつつある証拠だわ。

 急いで殿下を捜索しているユーガ殿にお引き渡ししなくちゃいけないわ。もちろん、私の姿を見せるわけにはいかない。

 私は魔法陣に入る前に、もう一度神殿の方へ振り向いた。そこでは未だ、邪神の怒れる叫び声が轟いていた。

「それではごきげんよう。イェホ・ウンディ。いずれまた見える事もございましょう。なにせ、私はウラーラ・スプリングガルドですもの」

 はたして私の言葉は、かの邪神に聞こえたかしら。

 ともかく。私は眠れる殿下を抱いて、円陣の中へと飛び込んだ。

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