10 夢か現か混乱中

いつもの時間に目覚ましに起こされてから数秒、覚醒した脳は気分が最悪だという情報を私の全身に走らす。


「あ゛ぁぁっ」


昨日のことを思い出すと一気に体が重くなる。


夜は何度もフラッシュバックが起こって全然寝付けなかった。


何がフラッシュバックしたって?


勿論、榊課長様の理解不能な言動のアレコレだ。


会社に行きたくない…。


だって、どうやって課長と接したらよいのかわからない。


朝の支度をしながら悶々と思考する。考えすぎてドアの枠に足の小指を強か打つ。一人で痛みに悶えてやっと直立出来る状態になって、ふと我に返る。


何故私がこんな思いをしなくてはならないのか。


気まずくなるべきは課長の方であって、私が気まずくなる必要はないはずだ。


だって、急にこっ、ここ、こ、告白してきたのは、課長のほうなんだしっ!


私の方が会社に行くのに戸惑うなんておかしい。


強く一人で頷くと、もう余計なことを考えないように勢いよく顔を洗って、出社の準備を倍速でこなした。




いつものように徒歩で会社に向かう、その途中で徐々に足を運ぶ速度が落ちる。余計なことを考え始めたからだ。


それでもしっかり会社の正面までたどり着いて、普段は止まらない位置で立ち止まる。


ああ、やっぱり行きたくない。


一人でうなだれていると、突然背後から声を掛けられた。


「おはよう川瀬。こんなところで突っ立ってどうした?」


不意打ちの大声に体が一瞬跳ね上がった。


振り向いて確認すると、そこにいたのは森さんだった。


「おはようございます…」


「なんだ、いつもの元気がないな。もしかして昨日の商談…」


「いや、そこは大丈夫だと思います!」


森さんが自然と社内に入って行くので、私も話をしながらそれついていった。


今更引き返す事なんてできない。


腹を括って、森さんと一緒に一課のドアを潜った。


その瞬間――


「川瀬、昨日は無事だったか!?」


挨拶をする間も与えられず、室内にいたほぼ全員が寄ってきた。


みんな口々に昨日の商談のことを聞いてくる。


「あのエロオヤジに何もされてないか?」


「大変だっただろ、上手くいったのか?」


「セクハラされなかったか?」


次々と浴びせられる質問は、答えるタイミングを失うほど。


そして、セクハラと聞いて課長とのことを思い出してしまい、深い溜息をつく。


もちろんその行為は盛大な誤解を受けた。


「「「坂上になにかされたのか!?」」」


すごい勢いで迫られて我に返った私は慌てて否定する。


「いえいえ、何もなかったです! 確かにちょっとというかかなりエロオヤジでしたけど、自分の身は自分で守りましたから!」


私の言葉にとりあえずは安心したのか、今度はそのまま商談が上手くいきそうなのかどうかの質問攻めにあう。


S社との商談は一課にとってそれほど大きい意味があるということなのだろう。


出入り口でしばらく騒いでいると、


「出入り口で何をやってるんだ。邪魔だ」


背後から注意を受けた。


「あっ、課長おはようございます!」


課長!?


一人が挨拶すると、全員から一斉に挨拶が飛ぶ。


いつもは私もその中に混ざるのだが、変な緊張で声が出てこない。


十戒のように集まっていた皆が道をあける。


私もぎこちなく動いて道を作ったが、課長とどうやって接して良いのかがわからず、ひたすら俯いていることしかできない。


どこかに隠れる場所があるなら隠れたいがそんな場所はここにはないのだ。


道を空けられた課長が歩き出す気配がする。


わーー、どうしよう!


昨日の今日だし、変に絡まれたりしたら――


と一人で焦っている私の前を、課長は無言で通り過ぎていった。


あれ?


無視?


ノーリアクション?


それはそれでムカつく……。


通り過ぎて行って、自分の席に着いた課長は私の存在など無いものかのように通常運転で準備を始めている。


いつもと変わらず、厳しくテキパキ働く課長。


私は昨日のことで寝不足になるくらい混乱したのに、何涼しい顔して仕事に来てるんだ!


そんな私の怒りのオーラは課長の位置に届かないのか、私が外回りに出かけるまで一度も目すら合わなかった。


ソワソワにプラスしてイライラした結果、仕事は散々な内容になった。


昨日の奇跡のような交渉が嘘だったかのように、今日の営業はまったく手応えがない。


外回りを終えて、会社に戻ってきたのは夕方に差し掛かったころ。


とぼとぼ歩いて自分のデスクに着くと、その場でうなだれた。


「どうしたんだよ川瀬、そんなに落ち込んで。何か外でやらかしたの?」


私の姿を見て、心配そうに声を掛けてくれたのは左隣の席の加山さん。私より二つ先輩でとても優しい穏やかな先輩。去年結婚したばかりの新婚さん。


「いえ、特に失敗とかはないんですけど。今日は全然調子でなくって…」


うなだれたまま答えると、加山さんは労うような優しい声をかけてくれる。


「川瀬は昨日の仕事がデカかった分疲れがま溜まっているんだよ、きっと。一回なんか飲んで休憩してきたら?」


ああ、優しい加山さん。これがこの若さで結婚できる男とできない男の違いなのかもしれない、と独身男性に非常に失礼な思考を巡らす。


幸い現在課長は不在ということは帰ってきたときにチェック済み。


落ち着くために、ちょっと休憩することにする。


「自販機行ってきます」


いってらっしゃ~いと穏やかな加山さんの声に押されて、私はふらふらと一課を出た。




自販機コーナー兼休憩スペースに行くとラッキーなことに誰もいなかった。


オレンジジュースを買い、その場のベンチに腰掛ける。


昨日の疲れも含めて、どっと体が重くなる。


プルタブを開け、数口分飲み込む。口の中にオレンジの酸味と足された糖類の甘味が広がる。少しだけほっとした。


けれどもすぐに深い溜息。


考えてしまうのはもちろん課長のこと。


坂上課長から受けたセクハラの類はもうすべて昔のことのような気がして笑えてしまう。


どうして、私なんかに……。


ぼんやりとした思考のつもりがリアルに昨晩の課長とのアレコレを思い浮かべてしまい頬が熱くなる。


同時にイライラしてくる。


恋人同士でもないのに、しかも告白をお断りしたにも関わらず抱きしめてくるなんてどうかしてる。


意味がわからない。


わなわなと頭が沸騰しそうになるが、それをなんとか鎮めるためにオレンジジュースを今度はぐびぐび飲み込む。


すると少しだけ客観的になる。


課長に告白されて断った。


そう思うと不思議な気分。


S社の件で美香や同期の女子に今度の仕事は課長(と上原さん)と組むと言ったら、異様な程に羨ましがられた。


彼女達曰く「我が社随一の出世頭であり、超イケメン、クールで近寄り難いがそこがたまらなく良い!」だそうだ。


イケメンであることは否定しないけれど、正直あんまりそういう目で見たことがなくて言われてポカンとしてしまった。


確かに間違いなく尊敬できる立派な人だとは思っていたけど。


でも、同意なく“あんなこと”してくる男なんて最低でしかない!


再び個人的な感情が込み上げてくる。けれど今度はすぐに萎んで背中を丸くする。


何も悪いことなんてしていないのにこんなに混乱して仕事に支障を出しているなんて情けなくて泣けてくる。


そして私は悶々と考え過ぎて、背後から近づく人の気配にまったく気が付かなかった。


「サボリか」


!!


急に声を掛けられ、驚きすぎて一瞬腰が浮いた。


勢いよく振り返ると今の今まで脳内を占領していた男が立っていた。


「こんな時間帯に休憩スペースで何をしてるんだ」


あまりに唐突に現れた課長にどうリアクションをしていいのかが分からない。


しかし、混乱している割に頭のどこかは冷静で、課長の態度を見て憮然とする。


朝から感じていた事ではあるが、まるで昨日の事がなかったかのように接してくる。こちらが動揺しているのが馬鹿みたいだと思えるほどに。


そっちがそういう態度を取るなら、こっちもそれに従うしかない。


でも、不服な気持ちと気まずいさが隠せず、目も合わせずに素っ気なくする。


「今さっき外から戻ってきました。飲み物を買って今戻るところでした」


私は課長の顔をちらりと見ることもなく、一課に戻るべく立ち上がる。


課長は「ならさっさと戻れ」とあくまでいつものご様子。


昨日のことは本当に何だったんだろうかと深い溜息が意図せず口から漏れた。


もしかしたら課長はあの時酔っ払っていて、今となっては記憶に残っていないのかもしれない。


そうでなければ、私が酔いと疲れで見た悪趣味な夢だったのかも。


そうだ、そうに違いない。


一人で自分の都合の良いように結論づけて、一課のドアノブに手をかけようとした瞬間――


「お前、朝から意識し過ぎ。全部顔に出てる」


少し笑いを含んだような、甘い声が耳元で囁かれた。


課長の声に身体の動きが完全停止。思考も停止。そして私が考える力を取り戻したとき、既に課長はドアを開けて颯爽と自分のデスクに向かって歩いて行くところだった。


私は唖然とドアの前に立ち尽くしていた。


顔と耳が熱くて仕方ない。


どうやら夢ではなかったらしい。

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