8 夜の誘いに真っ向勝負
「あの、あっ、お手洗いですか?」
女性用トイレを出て右手に男性用トイレがある。
きっとトイレに用があるのだと心中で決めつけて聞いたのだが、
「いや、川瀬さんを待っていたんだ。ちょっと話があって」
爽やかな笑顔で言っているつもりなのだろうが、チョイ悪、いや超悪オヤジの顔になっている。
「こんなところまでいらっしゃらなくても、直ぐに戻りましたのに。さあ、お話なら座敷に戻って座りながら――」
「わかってるんでしょ?」
笑顔でその場を切り抜けて座敷に戻ろうとした私の腕を坂上課長は自然な動作で掴んだ。
「あの、どうされたんですか?」
「ほらほら、誤魔化さない。君も立派な大人の女性だろ」
格好つけて言っているつもりなのだろうが、その甘いマスクは私には逆効果。
恐すぎるっ。
ただ、逆らうことのできない私は坂上課長に誘導されるがままに、座敷からさらに離れた廊下の死角に連れ込まれてしまった。
「この後二人で飲み直さない?」
予想通りの誘い文句。
飲み直すだけならまだ良いが、私を見つめる瞳にはその他の欲望があるようにしか見えない。
この物好き!
私なんかほっとけば良いのに!
「いえ、お誘いは嬉しいのですが、上に怒られてしまいます」
「会社の人は関係ないじゃないか」
「いえ、でも、明日もお互い仕事ですし」
「大丈夫、どんな時間になってもちゃんと家には送ってあげるよ」
どんな時間って何時のことだ!
「僕、君のことがすごく気に入っちゃってさ。去年までそちらから来た女性社員さんとまったく雰囲気が違って真面目で一生懸命な感じすごくイイ。新鮮」
「おっ恐れ入ります」
「だから、今夜は僕と――ねっ?」
今の台詞には確実に飲み以上のことを暗示させられた。
ゾクゾクゾクと全身に鳥肌が立つ。
もう、いい。
このままお行儀よく流され続けてたまるか!
私は決意を固めて、正面から坂上課長の目を真っ直ぐ見据えた。
「今夜とおっしゃいました?」
「うん。言ったよ」
「それはお酒を飲む以上の行為をお望みということでしょうか?」
「はは、ストレートに聞くね。んー、そうだな君が望めばどこまでもってとこかな」
「でしたら、やはりお断りさせていただきます」
「はっ?」
坂上さんは目を丸くして固まった。
そして、みるみる眉間に皺が寄り、不機嫌な顔になる。
「それはないんじゃないのかい。俺は君にとっての大事なお客さまだろ。俺のご機嫌一つで今回の商談の成功が左右されるってわかってる?」
「もちろん存じております」
「じゃあ――」
坂上課長は壁際に立つ私の後ろに手をついて、かなり顔を近づけた状態で見つめてきた。
負けてたまるか。
「だからこそお断りさせていただきたいのです」
「はっ?」
2度目の間の抜けた声。
「今回の私のプレゼンいかがでした?」
「何、急に仕事の話? まぁ、良かったよ。最近の若い女の子にはない能力を感じたよ」
「恐れ入ります」とお褒めの言葉にお礼を添えて私は続ける。
「私は今回の仕事にかつてないやり甲斐を感じました。そして達成感も。それは坂上課長のおかげです」
「俺の?」
「こんなことを私が申し上げるのも恐れ多いことですが、坂上課長は非常に頭の切れる方だと思います。プレゼン中の真剣な表情や鋭いご質問、理解力の高さはかつて私が接したお客様の中で一番だと感じました」
相手が黙っているうちに話を進める。
「私は女ですがこの仕事が好きです。プライドも持ってます。そんな私が今夜坂上課長とご一緒したら、私は来年この場に来れません」
「……何でさ? 会社にバレなきゃ――」
「バレるバレないは問題ではありません。私が坂上課長をお客様ではなく男性と認識してしまっては、私はS社にはもう来れません。私の中で甘えが生じてしまうから。それはプライドが許しません」
「………」
「毎年当社との商談は坂上課長が担当して下さっていると伺っています。私は来年も坂上課長とは今日と同じ立場でお会いしたいです」
「契約が無効になっても?」
「ええ。契約不成立は私の能力不足としか言いようがありません。会社に頭を下げてまた勉強し直します」
「それじゃあ、来年の君にこの仕事は回ってこないんじゃないかな」
「我が社の営業部は実力主義です。今回駄目だった私が今後結果を出せば、可能性は低くとも回って来るチャンスはあるでしょう」
目の前の男の顔から表情が消える。
でも、もう引き返せない。
「私、今の仕事が好きなんです。仕事で対峙するいい男には女としての魅力よりもビジネスワーカーとしての魅力を見て貰いたいんです。おいしい食事や夜のお相手よりも次の商談に誘われたいんです」
言いたいことを言い切る。視線はそのまま真っ直ぐ坂上課長に注ぐ。
途端相手は私から目を逸らして深い溜息をついた。
強気な態度を取った直後だというのに、あっという間に不安になった。
言ったことは本心だ。
坂上課長は商談相手として、仕事をする男としてとても尊敬できる人だと感じた。
そんな人に女だからといって身体を預けるかどうかで契約を判断されるのは、例え契約が成立したとしても許せない。相手も自分のこともだ。
坂上課長は逸らした視線を私に戻すと、壁についていた手を離して距離を取った。
「負けました。お手上げだ。すごいな君は」
坂上課長は両手を上げてリアルな降参のポーズをとる。
「参ったな。そんな風に言われたら君にちょっかいも出せないし、契約をしないわけにもいかないじゃないか」
坂上課長は苦笑を浮かべていた。けれどもそれは徐々に自然な笑顔に変わる。
「こんなにしっかりと自分の意見が主張ができて、仕事に誇りを持ってる女子社員は見たことないな。夜のお誘いではなくて、転職のお誘いをしたくなってしまった」
「恐れ入りますが、それじゃ商談は出来ません」
勢い余って出た返事に坂上課長は一層笑顔を深くした。
そのタイミングで、聞き慣れた方の課長の声が廊下の方からしてきた。
「あっれ、いない。おかしいな。坂上課長と川瀬はどこ行ったんだ」
「あっ、すいません課長ここにいます! 坂上課長とお仕事の話で盛り上がってしまって…」
そう言ってすかさず死角から飛び出すと、課長が眉間に皺を寄せてこちらを振り向く。
「そんなところで…。立ち話なんて失礼だろ。申し訳ありません」
後ろから坂上課長も出てきたらしく、課長は頭を下げた。
「いえ、とんでもない。意欲的な話が聞けてとても有意義な時間でしたよ。本当に部下に恵まれてる榊さんが羨ましい」
坂上課長の言葉に「恐れ入ります」と課長はさらに深く頭を下げた。
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