2 飲み会で知る鬼上司のオフモード

忙殺とはまさに今の私の状況を表すのに相応しい言葉だ。


突然回された仕事は、予想通りかなりハードな内容。


通常業務だけでも結構な時間が必要なのに、いきなり新商品の営業をしなくてはいけなくなった私は本当に目が回りそうなほど忙しく働いた。


余計なことを考える余裕がなくなり、社内で良也やその彼女の姿を見ることが何度かあったが二人のことを鬱々と考えることすらできなかった。


早朝出社と残業の毎日。これでボーナスがアップしなかったら労働組合に訴えてやると毎日心中で叫んだ。


そんなこんなで、あっという間に1ヵ月以上が経過した。


ボロボロになりつつも何とか任された仕事をひと段落させ、課長への報告を終えた金曜日。


報告が終わってデスクに戻るとかつて無い達成感を味わった。


けれど、同時に今まで考えないで済んでいたことが久しぶりにぶり返す。


――良也は今頃、何をしてるんだろう。


三課で働いているのは分かっているのに、そんなことをふと考えてしまう。


それはそうだ。忙しさで嫌なことを忘れていただけで、まだ心の整理なんて何ひとつできていない。


そう思った瞬間、さきほどまで仕事から早く解放されて家でゆっくり休みたいと思っていたのに、なんだか家に帰って一人になるのが憂鬱になった。


「川瀬さん今日暇?」


そんなとき、小声で声を掛けてきたのは3つ先輩の上原さんだった。


奥二重のすっきりと整った顔立ちで、人なつっこい雰囲気を伴った上原さんは私が一課に配属されて3ヵ月間OJTを担当してくれた先輩だ。それを含め何かとお世話になっている存在で、仲も良い。


ただ、就業時間中に声を掛けられることは珍しい。


「今夜ですか?」


「そう今夜。一課のやつら何人かで飲む予定なんだけど、川瀬さんも来ない?」


飲み会のお誘いだった。


正直迷った。


かなり疲れていて、今すぐ返りたい気持ちもあるが、一人で家で過ごすのは嫌な事を考えてしまいそうで怖い。


私が迷っていると上原さんは重ねて誘ってきた。


「ここ最近川瀬さん超忙しそうだったじゃん。今日一段落したんでしょ? だったらお疲れさま会も兼ねて、ね」


ね、なんて可愛く言われたら断れない。


上原さんにはそんな愛嬌がある。


明日は土曜で休み。しかも久々に休日出勤しなくてすみそうだった。


だったら、今日は楽しく飲んだほうが良い気がした。


参加の旨を伝えると「よっしゃ、川瀬さんゲット!」と喜んでくれた。




飲み会の会場は会社から少し離れたチェーン居酒屋。


メンバーは私を含めて6人だったのだけれど、その中に意外な人物を見つけて私は目を丸くした。


榊課長がいたのだ。


男性ばかりの職場なので、私も公じゃない飲み会は気が向いたときしか参加していなかったけれど、私より課長の出席率のほうが悪かったはず。


そして、飲み会が始まって私は益々驚いた。


上原さんを含めた他の4人ととっても楽しげに話す課長。


表情も軟らかく、よく笑う。


普段の仏頂面とは大違い。


隣に座っていた上原さんが驚いて課長を見ている私に気がつき、可笑しそうに笑う。


「驚いた? 普段の課長からは想像できないよね?」


私は課長を見たままコクンと頷く。


普段は「鬼」と密かに言われている課長である。仕事中に声を出して笑うことなど一回も見たことがない。いや、飲みの席でもなかった気がする。


「課長はね、オンとオフの切り替えが激しいんだよ。仕事モードのときは俺たちだって気安く話しかけられないから参っちゃうよ」


そういう上原さん達はどうやら課長の内輪の人間らしい。


公の飲み会や人が多い飲み会のときは仕事モードを崩さないらしいが、仲間内で飲むときは砕けるという。


見慣れない光景をまじまじ見つめていると、私の視線に気がついたのか課長がこっちに話を振ってきた。


「なんだ、俺の顔になにかついてるか?」


「いえ、何も・・・」


はっきり言って尊敬はしていても課長は苦手だ。学生時代に厳しい女の先輩には腐るほど接してきたが、厳しい男の上司を持つのは初めてだった。だから、どう接してよいのか分からなくなることがよくある。けれども今黙り込むのがよくないことくらいはわかる。


「少人数の飲み会に参加されているのを見るのは初めてなので、普段と雰囲気が違うなぁと思って」


私は思ったことを基本的にそのまま口に出す。仕事となれば話は別だが、頭を使う駆け引きはとことん苦手。


「そういや、川瀬がこのメンバーで飲むのは初めてだな」


「じゃあ、もっと面白いものを見せてやろう」


課長の言葉にさらに声を被せてきたのは森さんだ。


歳は確か課長と同じくらいだったはずだが、お調子者で課内でよく笑いを取っている。ケアレスミスが多いらしくいつも課長に怒られている印象があった。


何をするつもりだろうと眺めていると、私は目を見開かされることになった。「なっ、恭ちゃん」とおもむろに課長に手を回してがっしりと肩を組んだのだ。


普段叱られる側と叱る側の関係だけあって異様な光景だ。


「きょ、恭ちゃん?」


目を丸くしている私を見て森さんはブイサインを作る。


「俺たち、同期なんだ」


「えっ、同期だったんですか!?」


「そう同期。元々結構仲良かったのに、こいつが昇進し過ぎて今となっては俺は虫けらのような扱いなのさ」


肩を組んだままふざけて落ち込んだ様子を見せる森さんを課長は鬱陶しそうに引きはがす。


「ふざけるな。仕事を一歩出れば好き勝手絡んでくるやつがよく言う。お前が馬鹿なミスすんのが悪いんだろうが」


「馬鹿だなんてひどぉい!」


課長にオネエ言葉で返す森さん。そこで皆がドッと湧く。


いつもの職場の雰囲気とまったく違って驚くことばかりだが、オンとオフを切り替えるのは嫌いじゃない。


何よりこの雰囲気は余計なことを考えずにいさせてくれた。


久々に気分が軽くなったと実感したとき、課長の視線がまだ私にあることに気がついた。


「川瀬は酒強いのか?」


課長は私の持っていたお猪口を指さした。


今さら何をと思ったが、考えてみれば飲みの席で近くになったことはなかった。


「そうですね。弱くはないです」


「なんでも飲めるか?」


「んー、焼酎は苦手なんですけど他は一通り飲めますよ」


「さすが一課の女!」「酒豪!」と他のメンバーから歓声が上がる。


一課の社員なら大体が私の酒の強さを知っている。公の飲み会は仕事の延長上な気がして飲む量は控えめにすることもあったけど、大学時代から結構派手に飲んでいた。私の部活には酒好きが多かった。


一方最近の女子はお酒が飲めなかったり飲まなかったりする子が多い。


その方が可愛いと好きな人も多いのかもしれないが、一課の面々はそうではないらしい。


「『私お酒飲めないんですぅ』とか言われて一杯目からソフトドリンクとかちょっと白けるよな」


と、お酒が飲めることにみんな大賛成な雰囲気だ。


課長もみんなと同じ考えのようで機嫌のよい表情をしている。


「やっぱりあれか、酒は大学時代に鍛えられたのか」


「そうですね」


「何部?」


「バレー部です」


私の答えに森さんが「はまりすぎ!」と声を立てて笑った。


「女子バレー部だろ? そんなに飲むイメージないけどな」


「いえ、うちの部活は男よりも男らしい部活だったので、女だけで一気飲みとかしょっちゅうでしたよ…」


楽しかったけど、人に話すには少し恥ずかしい過去だったので少し声のトーンを下げる。


対して「おおー」とか「さすが」と驚きとも歓声ともつかない声がまた上げる。


褒めてもらっているようなので悪い気はしなかったけれど、やっぱり自分は女らしくないのかなとマイナス思考が頭を過った。


一気に気分が落ち込みそうになったので、私は無理矢理笑顔をつくって話題を逸らした。


「皆さんは部活とか何をやってたんですか?」


聞くと全員見事に厳しい部活に所属していた。一課で働く根性は学生時代に培われているということだ。


「俺はサッカー部だったな」


「へえ、課長はサッカー部だったですか。爽やかですね」


上原さんは初めて知った情報に目を輝かせた。一方課長はげんなりと顔を歪ませた。


「爽やかどころか地獄のような練習ばっかりだったぞ」


私も地獄のような練習が多かったので共感できるところがあり、自然と口を開いていた。


「でしたら、相当強かったんじゃないですか?」


課長はしれっと返す。


「そうだな。全国ベスト8は当たり前の強豪だったからな」


そこから、皆の部活の成績の話になった。一通り質問しつくして最後に私にも質問が飛んでくる。


「で、川瀬さんは?」


「えーと、うちの部活は在学中に全国で三回優勝したことがあります」


「「マジで!」」


今まで全国一位の人は誰もいなかったので、一層驚かれた。


「超すごいじゃん!」


「てか、プロになった子いるんじゃない?」


「そうですね。先輩と同期が一人ずつ。偶にテレビとか出てますよ」


そのあと一頻り私の部活の話で盛り上がったのだが、課長から痛い質問が飛んできた。


「そんなにバレー強かったんなら川瀬もプロになれたんじゃないのか?」


確かに私はチームのエースアタッカーだった時期もあり、プロに誘われたことも何度かあった。


けれども私はその道を選ばなかった。


「いや、ほんとに学生時代のすべてをバレーに捧げてしまったので、社会人は他のことをしたくて…」


「他のことって?」


「えーと、仕事もそうですし…」


少し言いづらそうにしている私を見て悟ったのか課長は「ああ」と視線を少し遠くに投げ、何てことない事のように軽い口調で言った。


「あとは、恋愛か」


あんまり話したくない話題だったので曖昧に返事をした私だったが、実は大正解だった。


学生時代は本当に恋愛経験ゼロ。バレーが恋人状態。


私は器用じゃないので部活と恋愛の両方に情熱を注ぐことなどできなかったのだ。


でも、女であるからには憧れも持つわけで――。


大学を卒業したら、バレーはやめて普通の恋愛を精一杯するのが私の密かな夢だったのだ。


それなのに――


思考が一気に悪い方向に跳んだ。


こんなことをこの楽しい場で考えたくないと、私は違う話題を振ろうとしたのだが、


「そういえば、お前三課の杉浦と別れたらしいな」


課長が爆弾を投下してきた。


その場にいた課長以外の面々が一気に氷つくのがわかった。


今まで全員気にしつつも、ここ1ヵ月間私の前では絶対口に出さなかった話題である。


それに、今更話題に出さなくてもこれ見よがしに良也と彼女が社内でイチャイチャしていたので、説明しなくても誰にでもわかることだった。


私が黙ってしまうと、すかさず上原さんと森さんがフォローに入った。


「ちょっと課長、その話題は今はちょっと――」


「デリカシーないなぁお前は。そういうプライベートなことを女子に聞いたら今時セクハラで訴えられるんだぞ~」


苦笑いでどうにか話題を逸らそうと他のメンバーも必死だったが、何故か課長は話を逸らしてはくれない。


「別れたというより、一方的に振られたって噂だけど。杉浦を見てるとそれが正解っぽいな」


嫌な話題をズケズケと。


私は黙っていられず、少し言葉に刺を持たせた。


「課長には関係ないこと、です」


強気で言ったつもりが途中から俯き加減でもごもご声を籠らせてしまった。課長は「関係ないねぇ」と呟くと、さらに突っ込んだことを抜かす。


「まあ、直ぐに新しい女に乗り換えるような男だ。別れて良かったんじゃないのか」


部活しかやってこなかったお前は男を見る目がなかったんだな。


言い放たれた言葉には私を慰める意思などまったく感じられない。


周りの全員が完全にオロオロいてしまい、楽しい席が異様な空気に。


それでも課長は続ける。


「お前の社会人デビューは苦い経験で終わったな」


シレっと言った課長だったが、この言葉で私は我慢の限界を越えた。


俯いていた顔を上げまっすぐ課長を見据えると、ストレートに噛みついた。


「課長に私の恋愛の何が分かるっていうんですか」


私が反論することを予想していなかったのか、さっきまでオロオロしていた皆が一斉に目を剥いてこっちを見ているのが分かる。


それでも私は止まらない。


「人のプライベートなことにズケズケと。課長に私の恋愛の評価をされる覚えはありません」


「ほお」


私の言葉に課長は怯まない。まして瞳の力を強くした。


「じゃあ、杉浦と付き合って正解だったのか。噂だと乗り換えられたとか二股かけられてたとかって聞いたが、そう思ってるんならおめでたい奴だな」


「なっ」


一瞬言葉に詰まったが、元バレー部員のスーパー負けず嫌いの性格に火がついた。そうでなくても黙ってなんかいられない。


「正解も不正解もないですよ! 私はただ純粋に付き合ってただけで、本当にずっと仲も良く上手くいってたんですから!」


「上手くいっていた結果が現状じゃおかしいな」


「それは、良也――杉浦が、うっ浮気したのが悪いんです!」


「そうだな。杉浦が悪い。ただ、そうさせたのは川瀬だろ」


確かにそうだ。多忙のあまり良也と一緒にいる時間が取れず、それがダメになる原因だった。けれども、それは課長から与えられた仕事が忙し過ぎたからだ!


「課長に何がわかるっていうんですか! どんなに忙しくて1分1秒でも早く眠りたいのに必死に毎日メール打って、休みの日は疲れた体のまま会いに行って。会うたびに嬉しそうにしてたくせに――それで別れるなんて急に言われても意味がわからない! 私がまるで一人でなんでもできちゃう鋼の女みたいに言われて、私には自分は必要ないみたいに言われて、全然そんなことないのにっ。仕事が忙しすぎていろんなことに気が付く余裕なんてなかったんです!」


自分の言っている事自体がよく分からなくなってしまって、気がついたら時には頭の中のモヤモヤをすべて口に出していた。


良也のことを考えると頭がおかしくなりそうだ。


「忙しくて気がつけなかったっていうのなら、それはイコール仕事のせい。強いて言うなら仕事を振り分けている俺のせいってことか?」


「そ、そんなこと言ってません」


「いいや、そういう風に聞こえたな」


確かに頭の中ではそういったが、そんな事に細かく突っかかってくるなんて、なんて面倒な人だろう。


私が怒りで全身の血が沸騰せんばかりのときに、課長がさらに「じゃあ、こうしよう」と訳のわからないことを口にした。


「俺と川瀬が勝負して、俺が勝ったら全面的に今までの発言を謝罪する。その代わり、川瀬が負けたら自分のミス――失恋を仕事のせいにしたことを俺に謝れ」


「はっ?」


突拍子もない提案に、私を含め全員が目を丸くした。


この人はそんなに酔っぱらっているのだろうか。


しかし、私たちの視線にはお構いなしに課長はどんどん話を進めていく。


「そうだな。勝負の内容は川瀬に有利なもので構わない。例えば――バレーボールとか」

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