Space(スペース)

化野生姜

プロローグ

「底なし」

 もうもうと湯気の立ちのぼるバスルーム。

 ひととおりシャワーを浴びるとエリカは湯船へと浸かった。


 ゆるりと伸ばされる足。

 温度がじわじわと全身に広がり体の強ばりが次第にほぐれていく。


 仕事の介護業務から解放されるひととき。

 まとわりつくような夏の熱気と日々の疲労感を忘れられる時間。


(あー…これがずっと続けば良いのにな)


 口まで湯に顔を浸しながら、思わずそう考えてしまうエリカ。

 

 みれば伸ばした膝や腕には青あざや擦り傷があり、どれも介助相手から抵抗を受けたり、きついシフトによる疲れで出来た打撲痕ばかり。


(これでも給料も仕事量もマシになったって先輩は言うけれどさ、関わる職員が疲れて傷だらけになる時点で問題ありだと思うけど…?)


 エリカが働いているのは片田舎にある地方施設。


 都会では職員の負担を減らすため複数人で介助をしたりお年寄りの認知機能や体力をサポートする設備も充実していると聞くが、ここでは市から出される補助金も足りないうえに少ない人数でやりくりしなければならず、苦労が尽きないのが現状だった。


(…それとも、私がこの仕事に向いていないとか?でも、他の求人を探すにしても今更だし、何より田舎はできる職種だって限られてくるしなあ)


 いつしか将来の不安にばかり考えがいっていることに気がつき、エリカは慌てて首を振る。


(いかん、いかん。ようやく取れた休み…仕事の事は考えないようにしないと)


 体が資本である以上、自分のメンテが最優先。


 そうして気分を変えようと両手を伸ばしかけたとき、エリカは自分の足がふいに軽くなったことに気がつく。


(…え?)


 驚くまもなく、反動で前のめりになる身体。

 顔が浸かった先は深い水底。


(なにこれ…!)


 消えた風呂床。

 水中の奥に行くほど暗く、底がまるで見通せない。


(やだ、息ができない。苦しい…!)


 半ば、パニックになりつつもエリカは同時に気づく。


 水中に何かが無数に開いた。

 は網のような形状で等間隔に並び、ゆっくりと開閉を繰り返す。

 虹のように複数の色を持つ、並ぶ網の群れ。


(綺麗…)


 ふと、エリカは子供の頃に見た花火を思い出した。


 大河の上で広がる、いくえもの花火。

 目の前で展開する虹色に輝く網の動きはその光景にどこか似ていた。


(すごいな)


 自分がどこにいるかも忘れ、目の前で展開する光景に見惚れるエリカ。

 そして、網があと数メートルまで近づいたところで…気づく。


 眼前に迫る網状の生物群。

 それらが持つ虹色の輝きは無数に並ぶ鋸状の歯が反射したものであった。


(…あ!)


 高層マンションのワンルーム。


 一室のバスルームの扉が気温差によって外側へと開く。

 漏れ出る蒸気にまぎれ、奥に見えるのは水の張られた湯船。


 その湯船は今や赤く濁り…

 浮かんだエリカの生首の目は驚くように見開かれていた。

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