第4話

リコッタside


 冷気すら感じるような月光が全てを照らす。

 全身から汗が噴き出しているが、骨まで冷え切ったように体は震えている。足に感じる灼熱の感覚は、切り離されたように現実味がない。目からも口からも体液が流れているのを感じながら、目の前の人物を見上げる。

 満月を吸収したような輝きを放つ金の髪。底知れぬ海色の瞳。最高級の白磁のような肌。美しく整った唇はただ引き結ばれ、その表情からは何の感情も読み取れない。

 溢れ出る謝罪も命乞いも、彼女には寸毫ほどの変化ももたらさなかった。あるいは既に言葉は意味を失い、ただの叫びとなっていたのかもしれない。

 死そのものを実体化したような姿を前に、意識は暗闇に呑まれていった。



◆ ◆ ◆



 昏い天蓋が視界を覆う。

 喉の奥で暴れるものが自分の鼓動だと気付くまでに時間がかかった。

 顔に髪が張り付く不快感で、初めて自分が全身脂汗に塗れていることを自覚する。

 寝具を跳ね除け、足に手を伸ばす。

 そこに変わらず足はあった。当たり前のはずのことに安堵し、全身から力が抜けていく。

 窓から差し込む月光が見慣れた自室を照らしている。ベッドの上で、着慣れた夜着を身に付けて。それでもなお、今のこの身に現実感がない。


 夢と呼ぶには、あまりにも生々しい。感覚も感情も全てが現実に起こったことだと叫んでいた。

 リコッタは栄えあるソーレス公爵家に生まれ、その生まれにふさわしい能力を見せつけてきた。豊富な魔力に驕らず努力を続け、将来は王国無双の魔法使いと期待されている。王都の学園では優秀な成績を修めて国王直々に褒賞を授与される栄誉を受けている。

 王家との縁組も成立し、将来王国を支える者として順風満帆なはずだった。


「…予知夢…」


 恐怖に震える口から零れた単語を耳が拾う。自分の声とは思えないほど掠れたそれは、混乱したリコッタの思考を少しだけ落ち着かせた。

 王国創建時に予知により王家を導いたのが公爵家の始まりであると伝承があるように、ソーレス公爵家にはごく稀に予知能力を持つ者が生まれる。もたらされる予知の形は様々で、初代のようにはっきりと王国の姿を見て確信を持って行動した者もいれば、輪郭のぼんやりした解釈不能な絵画のような、曖昧なイメージしか見ることのできない者もいる。どちらにしても公爵家の成り立ちに関わる能力であり、予知を発現した者は公爵家の中でも最大の発言力を持つようになる。

 リコッタが予知能力を持つとしたら、本来は喜ぶべきことだ。リコッタの言葉に公爵家に連なる一族は従うことになるし、そうなれば王家といえどもリコッタの動向を無視できない。現当主である父よりも注目され、王国の政策決定にも重大な影響を及ぼすことができる。


 今見たものは、ただの夢ではないと言い切れる。だが、その内容は自らの死。抗いようのない圧倒的な魔力に蹂躙され、必死で命乞いをする姿。蘇る恐怖に押し潰されそうになる心を、無理矢理立て直す。


「大丈夫」


 声を出す。


「大丈夫」


 自分に言い聞かせる。


「大丈夫」


 そう、大丈夫。予知は定められた未来ではなく指針だ。予知された未来を目指せばそこに辿り着くが、その未来を知ったうえでなお異なる道を進むならば、また違った未来を切り開くことができる。公爵家の予知能力者たちは、王国に降りかかる災いを予知したならそれに徹底的に対抗し活路を切り開いてきた。同じようにすればよい。

 まずは予知の内容を精査しなければならない。場所は見覚えのない草原だった。時刻はおそらく夜。月光を遮るもののない晴れ。どれくらい先の未来なのかは分からない。

 目の前にいたのは…人ならざる者、精霊と言われたなら素直に信じられる。あの空間の絶対的な支配者として存在していた。本来魔力を持つ者に魔力による直接攻撃は通用しない。魔力は魔力を弾く。それなのに肉体の内側から魔力で侵食するような…あんな…。

 思わず足をさする。汗でじっとりと湿っているが、確かにそこにある。大丈夫だ。ぶり返す恐怖を飲み込む。

 精霊の怒りに触れ、その身を滅ぼす物語はよくある。親が子を諭す童話として、教会が信者を導く説話として。「悪い子は精霊がさらいにくるよ」と言われたことのない子は王国にいないだろう。あれはおそらくそういう類のものだ。何かの形で精霊の領域を犯したか、許されぬ禁忌の呪法に手を出したか。そのような愚かな行為に手を染めなければいいのだ。

 少しだけ冷静になり、顔を上げる。汗に濡れる夜着を着替えようかとベルに手を伸ばした時に、ふとそれが視界に入った。

 茶色主体の、飾り気のない制服。侍女が仕込んだポプリの香りが気に入ったので、そのままクローゼットに収納せずに一晩部屋に置かれることになった魔法学園の制服だ。

 精霊の姿が一気に蘇る。満月を吸収したような輝きを放つ金の髪。底知れぬ海色の瞳。最高級の白磁のような肌。

 そして身に付けていたのは、簡素な茶色の服。今、目の前にあるのと、同じ物。


 手を伸ばしかけた姿勢のまま、リコッタは身動きできずに固まっていた。


 入学式まであと7日。魔法学園への移動を明日に控えた日のことだった。

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