海の玉並べ-10 己/墜落
足が機械仕掛けになったみたいだった。目的地に到達するまで絶対に止まることはない。
疲労という域はもうとっくに通り過ぎている。まるでパンクしたタイヤで走り続けるバイクみたいだ。
山道から脱出し、宿に戻ってくるころにはもう夜になってしまっていた。宿の明かりが見えてきた途端、それまでの疲れが一気に身体に押し寄せてくる。ドアを開いて転がるように中に入った。
「いらっしゃ……あら?」
女将が驚く。俺は玄関先で倒れ、破裂しそうな肺から空気を吐き出していた。
「あら大変! ……こ、ここまで走ってこられたのですか!? 今、お茶を」
「待って、ください……」
大慌てで奥の部屋に向かおうとする女将を裏返る声で呼び止めた。ますます痛みが増していく足に鞭打って立ち上がる。
「……瀬古さんは。それと、天は」
女将は心配そうに見ながらも答える。
「あの方はあなた様を見送った後、一人で海岸に行ったっきりでまだ戻っていません……。お嬢様の身体はまだお部屋に。瀬古様に、戻ってくるまで警察などに一切連絡しないでくれと言われておりますので……」
「今、何時ですか……?」
「七時半です」
瀬古さんは俺とは違う方法を取るようだ。しかしまだ戻ってきていないとすると相当苦戦しているのかもしれない。
「ちょっと、失礼します」
いてもたってもいられなかった。小走りで天の部屋に向かい、扉を開けた。昼と全く同じ体勢で天は横たわっている。彼女を背負う。疲労困憊の身体に更なる重みがかかる。今度こそ気を失ってしまうかもしれないと思ったが、なんとか食いしばった。
「……よし」
そのまま部屋を出る。するとすぐ前で女将がスポーツドリンクの入ったボトルを手にして待っていた。
「口をお開けになって」
反射的に口を開く。さながら餌を求める雛のよう。女将はその中にドリンクを注いだ。ごくりごくりと喉を通っていく音がする。息継ぎもせずに一本分の量を飲み切った。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
「……っはい。ありがとうございます。いってきます!」
乾燥しきっていた喉が潤う。体力は少ししか回復できなかったにしても、精神的な気力はかなりマシになった。
天を背負って、そのまま夜の海岸へと飛び出していく。
さざ波の音だけが響く夜の世界。頼りになるのは月明かりのみ。白い息を立ち昇らせて、今は見えない水平線に視線を与えている。
これからするべきことは、ただじっと待つことだけだった。天の魂を取り戻す。彼女の楔である刀を持って帰る。そのためには俺自身が、神様とやらに連れて行かれなければならない。
条件は満たしている。神様の住処に人の死体を持ち込むことが引き金になるなら、その通りの行動をすればいい。俺が今まさに背負っているのは、天の亡骸だ。
「ふう……」
呼吸だけでも落ち着かせる。正直立っているのも限界だし、眠気に至ってはとっくの昔に限界突破してしまっている。そんな状態でいくら深呼吸しようにも、脈拍はそう簡単に遅くなってはくれなかった。
実際に神様が出てくる、なんて保障は当然ない。このまま朝まで何も起こらないことだってありえる。というか、むしろそっちの方が可能性が高い。それでもこんな都市伝説を頼りに動くのは、俺自身も既に毒されてしまっているからだろう。
この、怪異が身近に存在しているという真実の世界に。
眠った天の顔を見てそう思う。
……いや、それにしたって。
俺はどうして彼女にここまで心酔していたんだろうか。一周回って冷静になってしまった。天のことを知りたいからダー、とか意気込んではみたものの、真面目に考えてみると変な話だった。瀬古さんの言う通り、俺はちょっとおかしい。
命を投げうってでもやりたいことが、本当に知的好奇心を満たすことなのか?
天が普通の人間ではないとしても。そんな彼女を知りたいという気持ちが必然的に湧いたものだったとしても。
命を天秤にかけるほどのものと胸を張って言えるのか?
何を必死になっているんだと嘲るのは夜だからだろうか。さっきまでの熱意は、一時的なものでしかなかったのだろうか。
「———本当に馬鹿だな、俺は」
土壇場になって自分の動機を疑ってしまうなんて。冷静にものを見る目は誰よりも肥やしてきたつもりでいたが、自分自身にはちっとも向けられていない。感情で揺れ動いてばかりであやふやなままだ。
改めて自分を客観視する。
今俺が本当にするべきことは、公的な機関にきちんと通報することじゃないのか。そして家に帰ることじゃないのか。こんな無駄なことをしている場合じゃないだろう。
だって、人が死んでいるんだ。普通じゃないとかそれ以前に天は人間だろう。それなら社会的常識に乗っ取って今すぐにでも動くべきだ。第一、怪しい仕事ばかりしている人間と法的に認められている手段のどっちが信用できる? 答えは自明だろう。
宿に戻って、電話を貸してもらって……。それで、俺のすべきことは全部終わるはずだ。
そのはずなんだ。
そのはず、なのに。
天を支えているこの両腕は、正論を唱えれば唱えるほど硬くなっていった。彼女を降ろすことをこれっぽっちも望んでいないみたいだった。
「馬鹿すぎる。馬鹿すぎるぞ、近衛槙」
信じているのか。こんな御伽噺を。
感情を優先しているのか。誰よりも正確に物事を見なければならない立ち位置にいた自分が。
自分に、できると思っているのか。自分よりもはるかに強い彼女を救えると、信じ切っているのか。
知りたいから、いう理由だけじゃない。明らかにそれを越えた何かがが感情の中にある。それに全く気付けないまま。はっきりさせることを放棄したまま、俺はずっと走っていたのか。
なら、信じるしかないだろ。
こんな俺自身を、全部賭けてでも信じるしかないだろ。ふわふわしたままの自分を、それでも貫くしかないだろ。
「———おい! いつまで待たせてるんだ!」
一人、大海に向かって叫ぶ。
「来いよ! 俺だって、お前の敵だ! お前の嫌いな、人間の死をさっきからずっと背負って待ってるんだよ!」
怒り、焦り、苦しみ。
でも、信念が。それ以上の気持ちの昂ぶりが本能が上回って声に乗せられていく。
「連れて行け! 俺を!」
声は何度も裏返り、喉に歪なヒビが入っていく。鉄の味が舌に充満していく。それでも吠えるように、何度も訴えたのだった。
「返せ! 天を、返せえぇ!」
怒声をぶつける。最後の一息まで絞り出す。それでも残ったものは静寂な夜の景色だけだった。
現実に残ったものは、反響する男の声だけだった。
どれだけ訴えてもありえないものはありえない。声のエコーが無くなって数秒、無力感に襲われる。虚しくなって立ち尽くすしかなかった。
「……あ、」
しかし。
物は試しようとは本当のことだったみたいだ。
目が眩む。気合を入れすぎて失神する……のとは違う。明らかに、作為的な。スタンガンを身体の中から打ち付けられたような。言いようのない気持ち悪さが身体を侵食していく。
「———やば」
身体が傾く。昼の時と同じだった。しかし違うところは意識がはっきりとし続けていたことだった。
『そのとき感じたことをそのまま記録する。まず、視界が突然眩しくなった。そのときは大きな光が一瞬海から出てきたのかと思ったが、後から思い返して違うものだったと気づいた。あれは光ではなく、視界の色が反転したという方が正しい。そして直後に身体全体に倦怠感が現れ、吐き気を催した。そして寒気とはまた違う、身体の内側から来るざわつき。これは血の流れが逆行したかのようだった。平衡感覚も掴めなくなり、気づいたときには砂浜に頭を打ち付けていた。そして徐々にぼやけていく視界の奥に、触手のようなものが見えたのだった』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます