わたしを離して

こぼねサワー

手の届かない棚

「なあ、恭子きょうこ。そろそろ出かけないか?」

 あなたは、なんだか妙にソワソワした声。


 分かるのよ? わたし。ひとより耳はビンカンなほうだから。


「カタヅケなんて、明日でいいだろ? 引っ越しは来週なんだし」

 そう言いながら、わたしの足下の踏み台を両手で支えてくれる。

 ヒジまで腕まくりしたワイシャツのソデ先に伸びる、筋肉質のたくましい腕。フシクレだった大きな手。

「せっかくオロシタテのワンピースがさぁ、ホコリまみれになっちゃうじゃん? たなの上は俺があとで掃除するから、ほら、気をつけて降りて……」


「分かったから、もうっ! いい加減にしてよ、おせっかい」


「そんな、怒らなくたって」

 もとから下がり気味の目尻をいっそう下げて、あなた。叱られたラブラドール・レトリバーみたい。


 思わず口元がゆるみそうになるのをこらえて、わたし、言うの。

「あなたが掃除のジャマをするから……」


「……てかさ。わざわざせまい部屋に引っ越して1人暮らしなんて……ムダじゃない? 俺と一緒に暮らせばいいのに……」

 モゴモゴ口ごもりながら、あなたは、踏み台から飛び降りようとするわたしの腰を抱き支えようとした。


「いいから、離してってば」

 わたしは、手にしてた雑巾ぞうきんをふり回して。あなたの手をせいいっぱいジャケンに追い払う。


 けど、あなたって、全然めげない。

 スーパーマーケットの支店長を任されてるから。理不尽りふじんなクレーマーには慣れっコなんだよね?

 同期はほとんど脱落して、アラサーで役職持ちは県内には自分1人しかいないって。寂しそうな反面ちょっと得意げな、あなたのクチグセ。

「なんだか、ごきげんナナメだねぇ、お姫さま?」


「その呼び方、……やめて!」

 わたしは、乾きかけの雑巾ぞうきんを投げつけた。


「おー、怖っ!」

 と、あなたは、軽くサッと身をかわすと、黒いスラックスのポケットから革のキーケースを引っぱり出して、

「わかったわかった。とにかく、午後から雨が降るかもって、さっきテレビで言ってたからさぁ。早く行ってすませようよ、墓参り。俺、車まわしてくるから」


「…………」

 わたしは、ヤツアタリまぎれに思い切って、踏み台からイッキに飛び降りてみせた。

 慣れないストッキングをはいた足の裏が、フローリングの床に滑って、内心ちょっとヒヤッとしたけど。


 あなたは、あからさまにギョッとした。なんなら、人好きのする小麦色のサワヤカな顔は、血の気をなくして真っ青になる。

「ムチャすんなよ!」


「平気だってば」


「……なんか、いちいちツッかかるなぁ、今日は」


「いいから放っといて! あなたは先に1人で行って。お花とかお供えして待っててよ。わたし、後から電車で行くから」


「は? なにも、そんなムダなこと……!」


「ムダじゃないの! わたし、1人で電車に乗りたいの。1人で、お墓まで行きたいの」

 わたしに"光"をくれた、大切な人のお墓参りなんだから……だからこそ……!


「はいはい。分かりましたよ」

 あなたは、ションボリと肩をすくめて。

「気をつけて、ね? なんかあったら必ず電話して、すぐに……」


「わかったから! 早く行ってよ」


「あー、はいはい。じゃあ、お先に」

 広い背中をちぢめて、あなたはソソクサと廊下に向かった。


 あなたは、すごく優しくて、ステキな人。

 おっきなクマのヌイグルミみたい。一緒にいるだけで、心の底から安心できる。

 ずっと、その腕の中に甘えてたくなる。支えていてほしくなる。

 だからこそ、わたし、あなたから離れなきゃいけない……。


 誰もいなくなったリビングを、わたしは見わたす。

 両手で抱えられる大きさのダンボール箱が5つばかり、部屋のスミに雑然ざつぜんと並んでる。フローリングの6畳間。

 "わたしだけの荷物"なんて、タカが知れてる。カタヅケるものなんて、ほとんどない。


 ――と、……2人で暮らしてきた部屋だもの。


 すぐに、玄関のドアが閉じる音と、オートロックのかかる音が、続けざまに耳に届いた。

 それをキッカケに、わたしは、もういちど踏み台にのぼってみる。


 踏み台を使わなきゃ手が届かないような棚の上に、"わたしの荷物"なんて、置いてあるわけないのに。

 でも、なんだか、……ヤケに気になる。


 部屋のコーナー部分に、30センチくらいの奥行きの三角形の薄い板を留め付けただけ。見るからに簡素で貧弱ひんじゃくな棚。


 ――あのヒトの、お手製のDIY?


 ――に、なんで、こんな棚が必要だったの?


 その理由は、きっと、棚の奥にポツンと1つだけ置かれてる箱の中にあるはず。


 あまり厚みのない紙製の小さな化粧箱けしょうばこ。ハンカチなんかをラッピングするのに使うようなサイズ感だ。

 ほんのかすかに、ホコリが積もってる。


 わたしは、それを手に取り、踏み台から降りた。今度は、ちゃんと段差のステップを踏んで。慎重に着地した。


 箱の中から出てきたのは、ぞんざいに折りたたまれた白い便箋びんせんが1枚。

 開けば、紙面いっぱいに、ボールペンでビッシリ手紙が書いてある。


 20年ぶりに見る彼の字は、筆圧ひつあつがつよくて、とても大きくて。子供の頃のかすかな記憶とあまり変わらず、のびのびとしていた。

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